ひとり分の地球——各家庭にミニ地球が配られたので、うちのリビングで海辺の町が沈みました
一 地球が届いた
地球が届いた。
土曜日の午前十時。
宅配便の青年が、玄関先に段ボール箱を置いた。
箱には赤いシールが貼ってあった。
『天地無用』
「地球なのに?」
娘の芽衣が玄関で首をかしげた。
「天地無用って、上下を逆にするなって意味だ」
「でも地球って、宇宙では上下ないよ」
「……政府に言ってくれ」
俺は受領印を押した。
配達員は妙に丁寧な敬礼をして帰っていった。荷物の送り主は環境省。品名は「家庭用環境同期教材」。備考欄にだけ、小さくこう書かれていた。
『ミニ地球 一個』
「パパ、地球買ったの?」
「買ってない。配られた」
「地球って配れるんだ」
「税金があれば、たいていのものは配れるらしい」
そういえば、市から何度か通知メールが来ていた気がする。
件名はたしか、『家庭用環境同期教材の配布について』。
俺は読まずにアーカイブした。
環境より先に、俺のメール管理をどうにかしたほうがいい。
段ボールを開けると、発泡スチロールの中に透明な球体が入っていた。
直径は二十センチほど。メロンくらいの大きさだ。中には青い海、緑の大陸、白い雲が浮かんでいる。よく見ると山脈も川もある。海岸線の近くには、豆粒より小さな街まであった。
「わあ」
芽衣が両手を膝につけて覗き込んだ。
「本物みたい」
「本物じゃないぞ。教材だ」
「教材って、学校のプリントみたいなやつ?」
「プリントより圧が強いな」
俺は同封されていた説明書を広げた。
政府は今年から、全国の家庭に「ミニ地球」を配布することになった。環境教育の一環らしい。
各家庭の電力使用量、廃棄物量、食生活、移動距離、購買履歴などをもとに、その家庭が地球環境に与える影響を球体内に反映する。
ただし、現実の地球そのものを小さくしたわけではない。
家庭一軒分の環境負荷を、球体内の「小さな環境モデル」に拡大換算する。こちらのエアコン一時間が、あちらでは長い乾季になることがある。
こちらの食品ロス一袋が、あちらでは湾の濁りになることがある。
こちらの近所までの車移動が、あちらでは氷河の後退になることがある。
説明書の文面は事務的だった。
だが内容は、ほぼ脅迫である。
脚注には、さらに小さくこう書かれていた。
『球体内に表示される都市・生物・社会活動は、学習効果を高めるための疑似生命演出です』
その下に、米粒みたいな字で追記があった。
『まれに対話型ガイダンスが起動する場合があります』
「疑似生命演出って、なに?」
芽衣が聞いた。
「つまり、作りものってことだ」
「じゃあ、かわいそうじゃない?」
「作りものだから、かわいそうではない」
「でも、かわいそうに見えたら?」
「……環境省に言ってくれ」
今日二回目の環境省送りだった。
「罰金とか、あるの?」
妻の美奈が台所から顔を出した。
「ない。これはあくまで教育教材です、だそうだ」
「それなら安心ね」
「ただし、返却不可。廃棄する場合は専用処理費用八千円」
「罰金より嫌なやつじゃない」
美奈が眉をひそめた。
俺はミニ地球をリビングの棚に置いた。透明な球体の中で、白い雲がゆっくり回っている。正直、よくできていた。
大人でも、しばらく見ていられる。
その日は暑かった。
五月だというのに、昼前には室温が二十九度を超えた。俺はリモコンを手に取り、エアコンを二十二度に設定した。
ミニ地球の赤道付近に、茶色い染みが広がった。
「パパ!」
芽衣が叫んだ。
「砂漠になった!」
「偶然だろ」
「いま、エアコンつけたらなったよ」
「教材だからな。そういう反応をするんだ」
「じゃあ、二十八度にして」
「暑いだろ」
「地球のほうが暑そう」
芽衣はリモコンをこちらに差し出した。
俺は少しだけ迷ってから、二十六度に上げた。
茶色い染みは、広がるのをやめた。
「ほら」
芽衣が勝った顔をした。
(家庭内に、環境省の係長が常駐している)
俺はソファに座り、うちわを探した。
その日の夜。
ミニ地球の小さな街に、明かりがともった。
豆粒より小さい光が、海岸線に沿って点々と並ぶ。芽衣は棚の前に座り、ノートを開いた。
『うちの地球観察日記』
一ページ目にそう書いて、さらに小さく書き足す。
『海辺の町』
「名前つけたのか」
「うん。街があるなら、名前もあったほうがいいでしょ」
「教材だぞ」
「教材でも、名前があったほうがいいよ」
(まずいな)
俺は棚の上の球体を見た。
(すでに愛着が発生している)
環境教育。
要するに、家庭に小さな罪悪感を置く政策である。
よく考えたものだ。
税金でも規制でも、人間は文句を言う。だが、リビングの棚で小さな地球がしおれていくのを見るのは、少し気まずい。
(環境省も、ずいぶん嫌な置物を作ったな)
二 うちの地球
ミニ地球は、よくできた教材だった。
よくできすぎて、腹が立つ教材でもあった。
冷蔵庫を長く開けると、極地の氷が一枚割れた。
風呂の追い焚きを二回すると、海面が少し上がった。
夕飯の残りを捨てると、沿岸部の海が灰色に濁った。
近所のコンビニまで車で行くと、山の斜面に小さな土砂崩れが起きた。
「いちいち反応しすぎだろ」
俺は買ってきたアイスを冷凍庫に入れながら言った。
「パパが車で行くからでしょ。歩いて七分なのに」
「アイスが溶ける」
「地球も溶けてるよ」
「誰がうまいことを言えと」
芽衣はミニ地球の前に座り込み、ノートを開いていた。
小学校四年生。自由研究にはまだ早いが、彼女はすでに観察者の顔をしている。小学四年生にして、我が家の環境監査官である。
美奈は台所で、野菜の皮を細かく刻んでいた。
「何してるんだ」
「コンポストに入れるの。芽衣に頼まれたから」
「うちにコンポストあったか?」
「昨日、市のリユースコーナーでもらってきた」
「いつの間に」
「芽衣が市の譲渡ページを見つけて、私が承認した」
「家庭内決裁が俺を飛ばしている」
「パパは稟議を出すと、まず『面倒くさい』って言うから」
芽衣が鉛筆を持ったまま言った。
小学生の人事評価が厳しい。
ミニ地球が来てから、家の中の会話は増えた。
それは認める。
ただし、その半分は俺への注意だった。
「パパ、照明つけっぱなし」
「パパ、シャワー長い」
「パパ、そのペットボトル、ラベルはがして」
「パパ、また割り箸もらった」
俺は食卓で箸を持ったまま、芽衣を見た。
「芽衣さん」
「なに」
「パパだけが悪いみたいに言わないでください」
「でも、だいたい原因だよ」
「小学生の言葉が強い」
美奈が笑った。
ただし、家庭内環境監査官にも弱点はあった。
その夜、芽衣はスマホの商品ページを俺に見せた。
画面には、丸い目をした電子ペットが映っていた。名前は「そらくじら」。クラスで流行っているらしい。
「これ、みんな持ってる」
「みんな、という言葉は親に通りにくい」
「本当に、かなりのみんな」
「法廷なら負ける表現だな」
芽衣は唇を尖らせた。
「誕生日、これがいい」
「誕生日なら、まあ」
俺が購入ボタンを押すと、ミニ地球の沿岸部に細い灰色の線が走った。
港から港へ、煙のような線が伸びる。
「……いまの、なに」
「配送ルート、かな」
芽衣の顔が固まった。
画面には『最短、明日お届け』と表示されている。便利な言葉が、急に雑な言葉に見えた。
「でも、ほしい」
芽衣は小さく言った。
「うん」
「ほしいのに、地球が嫌な顔する」
「地球に顔はない」
「ある。今、ある」
芽衣はしばらく黙った。
「キャンセル、まだできる?」
「できる」
俺は注文を取り消した。
「リユース店、探す」
「いいのか」
「よくない」
芽衣は棚の球体をにらんだ。
「でも今日は、地球が勝ったことにする」
その夜、芽衣は少しだけ機嫌が悪かった。
歯みがき粉のふたを、いつもより強く閉めた。
その夜の観察日記には、一行だけ増えていた。
『ほしいものは、重い』
「会社でも配られた?」
「全家庭だからな。みんな来てる」
翌週、職場の昼休みはミニ地球の話題で持ちきりだった。
営業部の佐々木は、初日に焼肉食べ放題へ行き、ミニ地球の熱帯雨林を三割失ったらしい。
「うちの息子に泣かれたよ。『パパのカルビでサルが逃げた』って」
「それは泣くな」
「でもさ、あれ本物じゃないだろ。シミュレーションだろ」
「まあな」
「だったら気にしすぎるのも変だよな」
俺は頷いた。
その言葉は、自分にとっても都合がよかった。
本物ではない。
小さな模型だ。
家の棚に置かれた、政府製の罪悪感発生装置だ。
実際、社会の反応は早かった。
ミニ地球専用カバーが売れた。布をかけて見えなくするための商品である。
商品名は「やすらぎ地球ブランケット」。
遮光率九十九パーセント。レビュー欄には「見なければ心が軽くなります」と書かれていた。
美奈がその画面を見て、ため息をついた。
「嫌な商売ね」
「でも売れてる」
「あなたも欲しい?」
「……少しだけ」
「パパ」
芽衣の声が背後から飛んだ。
俺はスマホを伏せた。
「見なかったら、よくなるの?」
「いや、そういうわけじゃ」
「じゃあ、見る」
芽衣はミニ地球の前に座った。
その日のミニ地球は、あまり良い状態ではなかった。海は少し濁り、赤道付近の森は端のほうが茶色くなっている。北の氷は、最初より明らかに小さい。
「うちのせいだけじゃないだろ」
俺は、つい言った。
「世界中の問題だ。うち一軒が何をしても、大して変わらない」
芽衣は振り向かなかった。
「でも、これはうちの地球だよ」
小さな背中が、棚の前で丸くなっていた。
俺は返事をしなかった。
言い返す言葉は、いくつもあった。
いくつもある言葉は、たいてい言わないほうがいい。
三 バーベキューの日
決定的なことが起きたのは、配布から二週間後の日曜日だった。
俺の両親が、久しぶりに遊びに来ることになった。せっかくだから、庭でバーベキューをしようという話になった。
肉を買った。
牛肉、豚肉、鶏肉。ソーセージ。焼きとうもろこし。海鮮。ついでに紙皿、紙コップ、使い捨ての網。
「買いすぎじゃない?」
美奈がレジかごを見て言った。
「親父が来るからな。足りないよりいい」
「いつも余るじゃない」
「余ったら明日食べればいい」
実際には、余ったものの半分は食べない。
それは分かっていた。
だが、分かっていることと行動を変えることは別だ。人間は、分かっていながら同じことをするために、言い訳という高度な機能を獲得した生き物である。
バーベキューは賑やかだった。
父は昼からビールを飲み、母は芽衣に小遣いを渡し、美奈は焼きすぎた野菜を皿に避難させた。
俺は炭の前で汗をかきながら、肉を焼き続けた。
「浩一、エアコンつけっぱなしよ」
美奈が窓のほうを見た。
「室内が暑くなるだろ」
「庭にいるのに?」
「出入りするから」
「出入りしてるの、ほぼあなたよ」
俺は窓を見た。
たしかにリビングの窓は開いていた。冷房された空気が、庭へ逃げている。庭では炭が燃え、テーブルには紙皿が積まれ、クーラーボックスには肉が余っている。
環境省の教材がなくても、だいぶ叱られそうな光景だった。
その時、芽衣が家の中から走ってきた。
顔が白かった。
「パパ、来て」
「どうした」
「地球が」
俺はトングを置き、リビングへ向かった。
ミニ地球の中で、嵐が起きていた。
白い雲が渦を巻き、沿岸部の街を覆っている。海は黒っぽく濁り、森の一部が赤く光っていた。山の斜面から、茶色い筋が海へ流れ込んでいる。
海辺の町が、水に沈みかけていた。
「うわ、すごいな」
父が後ろから覗き込んだ。
「最近の教材は派手だなあ」
「おじいちゃん、派手とかじゃない」
芽衣の声が震えていた。
ミニ地球の沿岸部で、小さな点が動いていた。
最初は雲の影かと思った。
違った。
人のようだった。
あまりにも小さい。だが、確かに動いている。海から逃げるように、街の高い場所へ向かっている。何本かの光が点滅していた。
「これ、人?」
芽衣がつぶやいた。
「違うだろ。演出だ」
「でも、逃げてる」
「よくできた演出だよ」
俺はなるべく軽い口調で言った。
そう言わないと、自分の口が別のことを言いそうだった。
芽衣の目に、水がたまっていた。
「パパ、止めて」
「止めるって、どうやって」
「エアコン消して。お肉、もう焼かないで。ゴミ、捨てないで」
「芽衣」
「海辺の町が沈んでる」
「本物じゃないから」
言った瞬間、部屋の空気が少し冷えた。
エアコンのせいではなかった。
芽衣が俺を見た。
「本物じゃないから、いいの?」
その時だった。
ミニ地球の中で、光が走った。
棚の上に置いていた球体が、かすかに震えた。説明書のどこにもない音が鳴った。古いラジオのような、ざらついた音。
そして、小さな声が聞こえた。
「——こちらにとっては、本物です」
誰も動かなかった。
父の缶ビールが、フローリングの上で小さく音を立てた。
缶が倒れ、泡が床に広がった。
父のビールは、地球より先に床へ流れた。
四 こちらにとっては
「聞こえた?」
美奈が言った。
俺は頷くこともできなかった。
ミニ地球の中で、また光が点滅した。沈みかけている街の近くだ。雲の渦が、少しだけ薄くなる。
声は途切れ途切れだった。
「こちら、沿岸第七市。緊急通信。上位観測者へ。応答を求めます」
「沿岸第七市……」
芽衣が小さく言った。
「海辺の町の、本当の名前?」
「上位……?」
父が小声で言った。
「俺たちのことか?」
「やめてくれ。四十三年生きてきて、上位だったことなんか一度もない」
俺は棚に近づいた。
球体の表面に、薄い文字が浮かんでいる。環境省のロゴではない。アプリの通知でもない。
『非常時通信チャンネル開放』
俺は説明書を乱暴にめくった。
そこには「まれに対話型ガイダンス」としか書かれていない。
緊急通信。
上位観測者。
沿岸第七市。
教材の言葉ではなかった。
「誰だ」
俺は球体に向かって言った。
自分でも間抜けだと思った。メロン大の地球に話しかける四十三歳。休日の昼としては、かなり厳しい絵面である。
しかし、返事があった。
「沿岸第七市、環境観測課のユイです」
女の人の声だった。
若い。だが、ひどく疲れている声でもあった。
声の向こうで、サイレンのような音が鳴っていた。
「第二避難所、浄水が足りません」
誰かの叫ぶ声が、短く混じった。
「あなた方の活動により、気温上昇、海面上昇、森林火災、水質悪化が同時発生しています」
「こちらでは避難区域が拡大しています」
「待ってくれ」
俺は説明書を握ったまま言った。
「これは教材だ。シミュレーションだろ。君たちは、AIか何かで」
「そちらで何と呼ぶかは分かりません」
声が、少しだけ強くなった。
「ただ、こちらの学校は浸水しました。病院の非常電源は止まりました」
「避難所の水は濁っています。本物かどうかを決めるより、支援をお願いします」
芽衣が俺の横に立った。
「どうしたらいいの」
声が一瞬止まった。
「……子どもですか」
「小四。芽衣」
「メイさん。まず、火を減らしてください。こちらの森林火災が止まります」
「次に、冷却機器の出力を下げてください」
「そちらの冷気ではなく、こちらには排熱として反映されています」
「エアコンの冷気、そっちに届いてないの?」
「届いていません」
「それ、ひどい」
芽衣が小さく言った。
こんな状況でも、そこは小学生らしかった。
「昔から、俺たちのことを知っていたのか」
俺は聞いた。
「変動源としては」
ユイが答えた。
「声が届いたのは、今回が初めてです」
「そちらを、空の向こうの生活圏と呼ぶ人もいます」
「生活圏」
「誰かが暮らしているなら、ただの数字ではないので」
「廃棄予定の食料があるなら、捨てないでください」
「水質悪化が進みます」
「使い捨て資材の投入も、可能な範囲で止めてください」
「わかった」
芽衣は走った。
エアコンのリモコンを取り、設定温度を二十八度に上げた。庭に出て、まだ焼いていない肉を冷蔵庫に戻すよう美奈に頼んだ。炭は父が慌てて消した。
母は黙って紙皿を集め、洗える大皿を出した。
年季の入った段取り力である。
緊急時の動線が、環境省より早い。
「おい、浩一。これ、どういうことだ」
「俺が聞きたい」
「俺、七十過ぎて地球に怒られるとは思わなかったぞ」
「怒られてるのは、たぶん俺だ」
俺はスマホで環境省の窓口に電話をかけた。
繋がらなかった。
SNSを開くと、すでに同じような投稿が並んでいた。
『ミニ地球から声がした』
『うちの南半球、助けてって言ってる』
『演出にしては怖すぎる』
『環境省、やりすぎ』
『うちの夫、初めてゴミ分別した』
『良い地球選手権、うち現在三位』
『企業がミニ地球にやさしい洗剤を出してきた』
『悪化配信で炎上してる人、さすがに笑えない』
その一方で、別の投稿もあった。
『どうせAI。気にしたら負け』
『ミニ地球カバー最強』
『通信切る方法教えて』
『教育教材に感情移入する人、危険です』
俺はスマホを置いた。
ミニ地球の中では、嵐が少し弱まっていた。
沈みかけていた街の一部は、水の中に残っている。赤く燃えていた森は、黒い跡になっていた。逃げていた点のいくつかは、もう動いていないように見えた。
「ユイさん」
芽衣が球体に顔を寄せた。
「聞こえる?」
「聞こえます」
「ごめんなさい」
芽衣の声が震えた。
「わたし、止められなかった」
「メイさんが謝ることではありません」
「でも」
「止めようとしてくれて、助かりました」
俺は何も言えなかった。
大人が言うべき言葉を、小学生が先に言ってしまったからだ。
「……俺が、悪かった」
やっと、それだけ言った。
球体の中で、通信の光が弱くなった。
「こちらの時間では、復旧に長くかかります」
「何をすればいい」
「続けてください」
「続ける?」
「一度では戻りません。そちらの日常が、こちらの気候です」
その言葉を最後に、通信は切れた。
リビングには、炭の匂いと、冷めかけた肉の匂いが残っていた。
庭から、父の声がした。
「浩一。これ、肉、どうする」
俺はしばらくミニ地球を見ていた。
「明日、カレーにする」
「全部か?」
「全部だ」
「肉だらけだぞ」
「仕方ない。責任を取る」
美奈が台所で小さく笑った。
「環境問題への第一歩が、肉カレーなのね」
(壮大さのかけらもない)
だが、たぶん、うちにはそれくらいがちょうどよかった。
五 小さすぎること
それから、我が家の生活は少し変わった。
大きくは変わらなかった。
いきなり自給自足を始めたわけではない。車も捨てていない。エアコンも使う。ネット通販もする。
俺は相変わらず会社で紙コップのコーヒーを飲みそうになり、そのたびに芽衣が持たせた水筒を思い出す。
変わったのは、止まる時間が増えたことだ。
コンビニへ行く前に、本当に必要か考える。
冷蔵庫を開ける前に、何を取るか決める。
夕飯を作る前に、昨日の残りを確認する。
エアコンをつける前に、窓を開けてみる。
小さなことばかりだ。
小さすぎて、以前なら馬鹿にしていた。
バーベキューの三日後、父から写真が送られてきた。
洗ってつぶしたビール缶が、きれいに並んでいる。
『地球に怒られたので、分別した』
その下に、母から別のメッセージが来た。
『お父さん、缶を洗うたびに「上位観測者だからな」と言っています』
(変な方向に自覚が芽生えている)
俺はスマホを閉じた。
職場でも、佐々木に言われた。
「浩一、お前ほんとに変わったな。水筒持って、弁当持って、昼休みにマイ箸洗ってるし」
「うるさい」
「ミニ地球に説教された男」
「されてない。通信が来ただけだ」
「それを説教と言うんだよ」
佐々木は笑った。
「でも、うちも少し変えた。息子がさ、毎晩ミニ地球に謝るんだよ。『パパがまたビールの缶を洗わず捨てました』って」
「密告じゃないか」
「家庭内環境監査官だな」
俺たちは笑った。
笑いながら、佐々木は缶コーヒーのプルタブを分別用の箱に入れた。
社会全体も少し揺れていた。
自治体別に、ミニ地球の平均青さランキングが作られた。
企業は「ミニ地球にやさしい商品」を次々と売り出した。
逆に、わざと悪化させる配信者も出た。
再生数は伸びたが、コメント欄は沿岸部より荒れた。
環境省は記者会見を開いた。
『ミニ地球の通信機能は、学習効果を高める高度対話AIであり、実在の生命体ではありません』
大臣はそう説明した。
だが、記者が質問した。
「では、説明書に記載のない非常時通信チャンネルは、なぜ搭載されていたのでしょうか」
大臣は水を飲んだ。
一口では足りず、二口飲んだ。
別の記者が続けた。
「対話AIが『こちらにとっては本物です』と答える設計意図は何ですか」
大臣は、三口目の水を探した。
その映像が、その日の夜に何度も流れた。
同じころ、審査会資料らしい画像も出回った。
そこには『外部実在性評価 未確定』とあった。
別の欄には『同期対象の自律応答をAIとして暫定処理』。
(暫定で全国配布するな)
専門家は議論した。
ミニ地球は単なるシミュレーションなのか。
高度すぎるAIに倫理的配慮は必要か。
各家庭の行動データを使うことは監視社会ではないか。
環境教育としては効果的だが、子どもの心理的負担が大きいのではないか。
議論は正しかった。
だが、リビングの棚の上で沈んだ街を見ていると、議論だけでは足りない。
ミニ地球の沿岸第七市は、半分が水没したままだった。
森の黒い跡も消えない。
海の濁りは少し薄くなったが、完全には戻らない。
芽衣は毎晩、観察日記をつけた。
『今日は海が少し青くなった』
『氷はまだ小さい』
『ユイさんの通信はない』
『森の黒いところに、まだ何も生えていない』
リビングの隅には、学校帰りに美奈と近所のリユース店で見つけたそらくじらがいた。
片方の耳に、小さな傷がある。
「新品じゃなくてもいいのか」
「よくない。でも、この子はもう作られちゃってるから」
「理論武装が雑だな」
「かわいいから」
正しさは、ときどき、かわいさに負ける。
ただ、負け方を選ぶくらいはできるらしい。
俺はその横で、家計簿アプリを開いていた。
電気代は少し下がった。
食費も少し下がった。
ガソリン代は、思ったより下がった。
「節約になるんだな」
俺が言うと、美奈が横から覗いた。
「環境のためじゃなくて?」
「結果的に、だ」
「言い方」
「人間は、だいたい結果的に善行をする」
「それを胸を張って言うのは、どうなの」
芽衣が鉛筆を置いた。
「パパ」
「はい」
「善行って何」
「いいこと」
「じゃあ、結果的でもいいよ」
芽衣はミニ地球を見た。
「続けるなら」
俺は家計簿アプリを閉じた。
「続けます」
「よろしい」
小学生に許可をもらう四十三歳。
だが、不思議と悪くなかった。
ある夜、芽衣が聞いてきた。
「パパ。うちだけで、地球はよくなるの?」
「ならない」
俺は正直に答えた。
芽衣の鉛筆が止まった。
「ならないの?」
「うちだけじゃ無理だ。会社も、国も、工場も、発電所も、大人の会議も必要だ」
「じゃあ、うちがやっても意味ない?」
「意味がないわけじゃない」
俺はミニ地球を見た。
「全部は背負えない。でも、だから何もしなくていい、とはならない」
「むずかしい」
「大人も、そこを理由に何十年も揉めてる」
「大人、ちゃんとして」
「すみません」
娘に謝ることが、最近やけに増えた。
その夜、俺は会社の提案フォームに短い文を送った。
『営業車の近距離移動を一部、自転車・公共交通に切り替える試験案』
大した提案ではない。
送信後、総務部から自動返信が来た。
『ご提案ありがとうございます。検討します』
(大人語で「今は何もしない」の可能性が高い)
それでも送った。
送らなければ、検討すらされない。
小さすぎることは、たぶん、ゼロとは違う。
俺は棚の上の球体を見た。
海辺の町——いや、沿岸第七市の明かりは、まだ少なかった。
六 芽
通信が戻ったのは、それから二週間後だった。
夜九時すぎ。
芽衣が寝る前に歯を磨いていると、リビングから小さな電子音が鳴った。
俺と美奈は、同時に棚を見た。
ミニ地球の沿岸第七市の近くで、光が点滅していた。
「芽衣!」
俺が呼ぶと、芽衣は歯ブラシをくわえたまま走ってきた。
「ふぁに?」
「通信」
芽衣は洗面所へ戻り、口をすすぎ、また走ってきた。
球体の中から、あの声が聞こえた。
「沿岸第七市、環境観測課のユイです」
「ユイさん!」
芽衣が棚の前に膝をついた。
「大丈夫? 学校は?」
「一部は再開しました。仮設校舎ですが」
「病院は?」
「非常電源が戻りました。水の濁りも、少し改善しています」
「昨日、仮設校舎で子どもたちが地図を描きました」
「地図?」
「沈む前の街の地図です」
「パン屋と図書館と、わたしの妹の通学路がありました」
芽衣の肩が、ゆっくり下がった。
俺は自分の指先が冷えていることに気づいた。
「森は」
芽衣が聞いた。
少し間があった。
「まだ、黒いままです」
「そっか」
「ただ」
ユイの声が、少しだけ明るくなった。
「端のほうに、芽が出ました」
ミニ地球の森の黒い跡。
その端に、小さな緑の点があった。
本当に小さい。
目を離したら、見失いそうなほど小さい。
だが、そこにあった。
「見える?」
芽衣が俺の袖を引いた。
「ああ」
「芽だよ」
「ああ」
「一個だけ」
「ああ」
俺は同じ返事しかできなかった。
美奈が、そっとティッシュを取った。自分のためか、芽衣のためか、俺のためかは分からない。
「メイさん」
ユイが言った。
「妹も、仮設校舎に戻れました」
「よかった」
「それから、こちらの子どもたちから伝言があります」
「なに?」
「昨日、学校に行けました。ありがとう、だそうです」
芽衣は口を押さえた。
返事をしようとして、声が出なかった。
だから、手を振った。
ミニ地球の中で、小さな光がいくつか点滅した。
あちらも、手を振っているのかもしれなかった。
通信は、それで切れた。
リビングは静かになった。
テレビは、音量を絞ったままついていた。
ニュース番組のアナウンサーが、淡々と原稿を読んでいる。
『環境省は本日、ミニ地球配布開始から一か月の速報値を発表しました。全国の家庭部門の電力使用量は前年同月比で一・二パーセント減少。食品ロスは三・八パーセント減少しました』
美奈が、リモコンを持ったまま止まっていた。
アナウンサーは続けた。
『また、一部河川では生活排水由来の濁度に改善傾向が見られるとのことです』
『一方で、専門家は短期的な行動変化にとどまる可能性があるとしています』
『継続的な取り組みと、企業・行政側の制度改革が不可欠だと指摘しています』
大きな改善ではない。
一・二パーセント。
三・八パーセント。
その数字で、地球が救われるわけではない。
ミニ地球の沿岸第七市も、元通りにはなっていない。沈んだ街は沈んだままだ。黒くなった森は、黒いままだ。
でも、芽が出た。
一本でも、出た。
「パパ」
芽衣が言った。
「明日、学校でこのこと話していい?」
「いいよ」
「本物かどうか、聞かれると思う」
「そうだな」
「なんて言えばいい?」
俺はミニ地球を見た。
透明な球体の中で、雲がゆっくり流れている。海はまだ少し濁っている。森の端に、小さな緑の点がある。
「本物かどうかは、分からない」
俺は言った。
「でも、あっちの人たちは本物だと思って生きてる」
「うん」
「だったら、こっちはそれで十分だと思う」
芽衣は少し考えた。
「じゃあ、そう言う」
「うん」
「パパも、会社で言って」
「会社で?」
「大人にも言わないと」
俺はソファの背にもたれた。
「大人は面倒なんだよ」
「地球も面倒だよ」
「……それはそうだ」
美奈が笑った。
「それで、例の提案はどうなったの?」
「総務が検討中」
「検討って、いつまで?」
「大人語で『まだ何もしていない』という意味です」
「大人、ちゃんとして」
「本日二度目のすみません」
その時、スマホが震えた。
会社の総務部からだった。
『近くの営業先へ行くときの移動方法について。来月より希望部署を対象に、車以外も使う小規模な実証実験を行います』
俺は画面を見た。
派手な採用ではない。
全社展開でもない。
希望部署を対象に、小規模な実証実験。
役所の文章より地味な、会社の文章だった。
「どうしたの?」
芽衣が聞いた。
「大人が、ほんの少しだけちゃんとした」
「ほんの少し?」
「ほんの少し」
「じゃあ、よし」
小学生の裁定は厳しいが、今回は執行猶予がついた。
テレビの画面では、次のニュースに移っていた。
どこかの自治体で、ミニ地球の不法投棄が増えているらしい。専用処理費用八千円を嫌がった人たちが、公園や川に捨てているという。
俺は顔をしかめた。
「ひどいな」
美奈が言った。
「そうだな」
俺は立ち上がった。
「どこ行くの?」
「明日の資源ごみをまとめる。分別、昨日のぶんが残ってる」
「夜に?」
「朝だと忘れる」
芽衣が、にやりと笑った。
「えらい」
「小学生に褒められてもな」
「ユイさんに報告する?」
「やめろ。照れる」
俺は空き缶とペットボトルの袋を持った。
玄関へ行く前に、もう一度リビングを振り返った。
棚の上に、ひとり分の地球があった。
小さくて、壊れやすくて、面倒で、見ていると気まずい。
それでも、目をそらすには少しだけ重い。
球体の中で、森の端の芽が、ほんのわずかに光った。
俺は玄関の電気を消した。
外は、思ったより涼しかった。
了
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
環境問題は大きすぎて、数字で聞くと遠く感じます。
でも、もしそれがリビングの棚の上にあったら。
もし、そこに名前をつけた町があったら。
そう考えて書いた短編です。
「全部は背負えない。でも、だから何もしなくていい、とはならない」
このくらいの小さな引っかかりが、読後に少し残れば嬉しいです。
面白かった、考えさせられた、芽衣や浩一のやり取りが好きだった、という方は、評価・ブックマークで応援いただけると励みになります。
他にも、SF短編のほか、異世界転生ものや悪役令嬢ものも書いています。
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