第一話:戦略的撤退の技術(とコントゥアリング)
俺の名前はグレイブ。夢がある。
ふかふかのハンモック、冷えたビール、そして責任ゼロの生活。
この王国のほとんどの人間は「名誉」とか「栄光」とかに夢中だ。馬の汗と鉄の匂いしかしない父親は、俺に王立先鋒隊の隊長になってほしいらしい。兄貴たちは今ごろどこかの溝で手足をなくしながら、名前も覚えてもらえない貴族のために戦ってる。
俺は違う。
前世では、ライブ本番前に溺れたネコみたいになってるアイドルを呼び出してもらう人間だった。パレットと気合いで4を10にする技術なら任せろ。そしてこの世界でも、その技術が俺を最大の敵から守ってくれる。
肉体労働、というやつだ。
「グレイスちゃん、おかわり! 自分の分もね!」
俺は丁寧に作ったつけまつ毛——馬の毛で手作りした傑作——をパチパチさせて、喉がかゆくなるような上品な笑い声を出した。
「まあ、騎士様ったら、うちにそんなに気前よくしてくれるの〜?」
声は練習済みのファルセット。「異国の女」っぽく聞こえるギリギリまで高く、でも185センチの鍛えた体を隠せるギリギリまで低く。
今の俺は「グレイス」——《錆びた杯亭》の謎めいた長身美女だ。周りの酔っ払いどもには幻のように見えてるらしい。俺から見れば、これは戦術だ。こいつらを飲み比べで潰して、財布から「サービス料」をいただく。一晩で農夫の月収より稼げる。泥なし。剣なし。化粧だけ。
完璧な計画だった。触ってくるやつが出るまでは。
汗くさい衛兵隊長が顔を近づけてきた。発酵したキャベツみたいな息だ。
「いい女だねえ。そのレースの下、見せてもらおうか——」
手が俺の太ももに向かってきた。
父親に叩き込まれた「グレイブ」の本能が、「グレイス」のペルソナより先に反応した。
バキッ。
かかとが完璧な45度の角度で顎を打った。やつはただ倒れたんじゃない。飛んだ。三列後ろのテーブルに激突して、跳ね返る前に意識を失った。
酒場が静まり返る。
(目標失敗。潜伏失敗。緊急離脱を開始せよ。)
「た、暴漢だ!」隊長の部下が震える指で俺を指さして叫んだ。「長身の女を捕まえろ!」
待たない。スカートをたくし上げた。スイカを潰せそうなふくらはぎを全開にして、裏口から全力疾走した。
「止まれ! いや、止まれよ! あれを捕まえろ!!」
石畳の路地を駆け抜ける。暴徒が形成されてた。捕まれば牢屋だけじゃ済まない——父親の徴兵事務所まで一直線だ。西門近くに幌馬車の列が見えた。補給車か。完璧だ。次の町まで乗っていって、出直せばいい。
三両目の荷台に飛び込んで、重い絹のリネンの山に潜り込んだ。衛兵たちが走り去る音が聞こえた。
「助かった」と俺はつぶやいた。「一時間だけ仮眠して、最初の停車地で降りて、どこかの娼館でスタイリストとして働こう……」
馬車の揺れに合わせて、俺は眠りに落ちた。
砂利を踏み砕くような声とラッパの音で目が覚めた。
「全員出ろ! 並べ!」
リネンの下からそっと外を覗いた。心臓が止まった。
ここは市場じゃない。白大理石と金箔で作られた中庭の中だ。背の高い尖った門が、俺たちの後ろでガシャンと閉まっていく。
「王宮へようこそ」砂利声の女が怒鳴った。鎧みたいにぴんとした服を着ている。「あなたたちは第44期王立メイド研修生です。健康で、王冠の栄光のために身を粉にして働ける人材として選ばれました」
左を見た。右を見た。怯えた十代の少女が五十人、俺を囲んでいた。
「そこの、でかいの!」
筆頭メイドが大股で近づいてきた。俺を見上げながら——さらに上を見上げながら——目を細めた。手袋をはめた手が俺の顔を左右に傾けた。
「高い頰骨、広い肩、まるで攻城兵器みたいな体格」と彼女はつぶやいた。「南部の出身? 国境部族か?」
固まった。南部の女戦士だと思われてる。
「は、はい、奥様」かすれたファルセットで答えた。声が割れないように祈りながら。「村の人が……みんな、背が高くて」
「ふん。やっぱりね。補給車に潜り込んでたのも道理。乗合馬車に乗ってたら三人潰してたわ」彼女は一人で納得したようにうなずいた。「いい。南部の子が必要だったのよ。ここの子たちは磁器みたいに脆いけど、あなたは汗もかかずに三階まで箪笥を運べそうだわ」
背中に冷や汗が滲んだ。
箪笥を運ぶ? 俺が? 自分の荷物だって持ちたくないのに。
思わず顔が歪んだ。眉がぴくっと動いて、口元がきゅっと締まった。全身で訴える表情——「絶対に嫌だ」という顔。
(だから変装したんだろうが! 力仕事がしたければ最初から父親に徴兵されてた! レースもアイライナーも、胴着に詰めた羊毛の靴下二枚も、全部スコップを二度と持たないためだぞ!)
筆頭メイドの目が鋭くなった。「何? 任務に何か言いたいことがあるの、南部の子?」
(戦術転換! 「資産」がずれてきてる!)
胴着の中で「靴下」が脇の下に向かって滑っていくのを感じた。急いで姿勢を正して、胸を少し張り、詰め物を定位置に戻しながら、嫌悪の表情を儚い疲労感に切り替えた。目をパチパチさせて、うるんだ目を作る。
「あの……感動しすぎてしまって、奥様」俺は囁くように言って、馬毛のまつ毛を揺らした。「旅の興奮で倒れそうで。丈夫に見えるかもしれませんけど、うち、実は……とても繊細なんです。心は強くても、体質は枯れかけた百合みたいで」
筆頭メイドは乾いた、ガラガラした笑い声を上げた。
「南部の大女が貧血? 一八五センチの枯れ百合? ――見てなさい。 鉄バケツを持って東翼を磨きなさい。急ぎなさい!」
バケツを見た。巨大な鋳鉄製の化け物だ。筋肉的には余裕で持てる。でも今ここで力を見せたら、日が暮れる前に石炭運びをさせられる。
[新目標:「繊細なアマゾネス」のペルソナを維持せよ。自分の腰を曲げずにこの床を磨く方法を見つけること。]




