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第22話 初めての連泊客たち

宿というものは、一泊だけの客と、連泊する客とで、まるで違う顔を見せる。


 アレクシスはそれを知っていたし、朝霧亭がいずれそこへ辿り着くことも分かっていた。

 だが、実際にその日が来ると、やはり少しだけ空気が変わる。


 朝霧亭に泊まる者が、ただ“湯を試しに来た旅人”ではなくなるのだ。

 その場しのぎの宿ではない。

 何日か同じ部屋にいて、同じ湯に入り、同じ広間で飯を食い、少しずつ宿のリズムへ身体を預けていく。

 そうなると宿は、通過点ではなく、小さな生活の場になる。


 その変化が、はっきり目に見えた朝だった。


「主様」

 と、帳場で宿帳をめくっていたベルノルトが言った。

「何だ」

 と、アレクシス。

「今日は、ちょっと変な感じです」

「変?」

 と、ユノが茶器を並べながら首を傾げる。

「何がですか」

「部屋割りですよ」

 ベルノルトは帳面を指でなぞる。

「赤湯の老騎士が三泊。白湯のご令嬢と母君が二泊。黒外套――じゃなくてゼフ殿が二泊。全部きれいに重なってます」

「ほう」

 と、リューシェが椅子に浅く腰かけたまま笑う。

「ついに来たのう」

「何がだ」

 と、アレクシス。

「主様が前から言うておった、“通過点ではなく滞在する宿”じゃ」

「そうだな」

「最近の主様、その“そうだな”が妙に嬉しそうな時がある」

「そうか?」

「そうです」

 と、ベルノルト。

「かなり」

「湯の機嫌だけじゃなく、宿の流れにも顔が出るようになってきましたね」

 と、ユノが小さく言う。

「坊や」

 と、リューシェ。

「おぬしもだいぶ分かるようになったのう」

「最近ちょっとだけ……」

「嫌ではない」

 と、アレクシス。

「また重いやつ出た」

 と、ベルノルト。


 この日の広間は、朝から少し落ち着いた熱を持っていた。


 老騎士はいつものように早起きして、朝一番の赤湯から戻ってきている。

 令嬢はまだ白湯へ行く前で、広間の窓際で母と静かに茶を飲んでいた。

 ゼフは一番遅くまで部屋にいたが、気配はもう広間の空気に馴染み始めている。


 一人ひとりの客が、同じ宿の中で違う時間を生きている。

 それが連泊の面白さであり、難しさでもある。


 アレクシスは広間を見渡して、短く言った。


「今日は流れが大事だ」

「何のですか」

 と、ユノ。

「全部だ」

「主様、それはちょっと大きすぎる」

 と、リューシェ。

「湯、飯、席、声の重なり方」

 と、アレクシス。

「連泊客が重なると、一つの乱れが後に響く」

「出たな、宿主の本気顔」

 と、ベルノルト。

「今日は帳場も気を引き締めます」


 まず最初に動いたのは、老騎士だった。


 赤湯から上がったあと、いつも通り広間の隅へ座り、出された温い汁をゆっくり飲む。湯上がりの顔は相変わらず大きく緩まないが、初めて来た時と比べればずいぶんと宿の椅子に身体を預けるようになった。


 そこへ、白湯へ向かう前の令嬢が通りかかる。


「あら」

 と、令嬢。

「また赤い湯ですの?」

「まただ」

 と、老騎士。

「好きなんですのね」

「お嬢様」

 と、母親がたしなめる。

「まあよい」

 と、老騎士。

「実際、合う」

「そうですの」

 令嬢は興味津々で覗き込む。

「赤い湯はまだ少し怖いですわ。強そうで」

「強い」

 と、アレクシスが横から言った。

「最初に長く入るな」

「ほら、やっぱり主様がそうおっしゃる」

「では白湯は?」

 と、老騎士。

「今日も良いのか」

「良い」

 と、アレクシス。

「今朝はやわらかい」

「出ましたわ」

 と、令嬢がぱっと笑う。

「その言い方、好きですの」

「好きなんですね……」

 と、ユノ。

「好きですわ」

 令嬢は胸を張る。

「ただ“いい湯です”ではなくて、ちゃんと日ごとの顔がある気がして」

「そうじゃ」

 と、リューシェ。

「嬢ちゃんはそこを面白がるから、主様と妙に話が合う」

「それ、僕も思います」

 と、ユノ。

「主様、白湯の話してる時だけちょっとだけ分かりやすいです」

「何がだ」

 と、アレクシス。

「楽しそうです」

「そうか?」

「そうです」

 と、ベルノルト。

「最近、その辺りの観察精度がみんな上がってきました」

「不本意だな」

「ですが悪くはない」

 と、リューシェ。

「悪くはない」

 と、アレクシス。

「またそれ」

 と、ユノが笑った。


 白湯から戻ってきた令嬢は、前回よりもずっとこの宿の広間に馴染んでいた。


 侍女たちも、最初の頃のような“地元客と同じ空間にいる戸惑い”をあまり見せない。

 同じ宿に何日かいると、嫌でも空気は移る。

 朝霧亭の空気は、派手さはないが、不思議と人を丸くするところがあった。


 昼前には、ゼフも部屋から出てきた。


 今日も黒い外套。

 だがもう、玄関先で初めて見た時のような“そこにいるだけで周囲がざわつく異質さ”は少し薄れている。いや、薄れたのではない。宿の側が慣れたのだ。


 ユノは水差しを抱えていたが、今はもう必要以上に肩をすくめたりしない。


「……おはようございます」

 と、ユノ。

「おはよう、でよいのか?」

 と、ゼフ。

「え?」

「時間の感覚が人間と少しずれる」

「主様」

 と、リューシェ。

「ほら出たぞ。魔族らしい会話じゃ」

「そうか」

 と、アレクシス。

「だが今は朝だ」

「なら、おはようでいい」

 ゼフは短く頷いた。


 そのやり取りを、令嬢が少し離れた席から見ている。


 興味はある。だが礼を失しないように抑えている顔だ。

 貴族の娘らしいと言えばらしい。

 だがその好奇心の強さは隠しきれない。


 ゼフが席につくと、老騎士がふと目を上げた。


「……その外套、暑くないのか」

「平気だ」

 と、ゼフ。

「そうか」

「気になるのか」

「少しな」

「おぬしが?」

 と、リューシェが笑う。

「意外と話しかけるのう」

「同じ宿に二泊も三泊もおると、顔を見ぬふりも妙だ」

 と、老騎士。

「それもそうですわね」

 と、令嬢が自然に会話へ入る。

「同じ湯宿にいて、一度も口をきかない方が不思議ですもの」

「嬢ちゃん」

 と、リューシェ。

「ずいぶん自然に混ざるようになったな」

「連泊ですもの」

 と、令嬢は当然のように返した。

「広間で毎日顔を合わせるんですもの、話の一つくらい」

「ほう」

「主様」

 と、ユノが小さく言う。

「何だ」

「今の、なんかいいですね」

「何がだ」

「同じ宿に泊まってる人たちって感じです」

「……そうだな」


 昼食の席は、朝霧亭にとって最初の山場だった。


 連泊客が重なるということは、食事の時間も重なりやすい。

 しかも今回の顔ぶれは、静かに食べたい老騎士、興味が広がって話が弾みやすい令嬢、基本的には一人で静かにいたいゼフと、空気の作り方が三者三様だ。


 アレクシスはそこをかなり気にしていた。


「主様」

 と、リューシェが帳場から見て言う。

「何だ」

「今日の席配置、妙にうるさいくらい考えておったな」

「必要だ」

「出た」

 と、ベルノルト。

「最近、“必要だ”の一言にだいたい全部が詰まりすぎてる」

「事実だからな」

「便利じゃのう」


 広間では、長卓をそのまま使いながらも、微妙に距離を取るように席が置かれていた。


 老騎士は柱に近い落ち着く席。

 令嬢と母は窓際だが、広間全体が見える位置。

 ゼフは奥まっていて、しかし孤立しすぎない席。

 地元の湯治客たちは、その少し離れた側。


 同じ空間にいる。

 だが、息苦しくならない距離がある。


「主様」

 と、ユノが配膳の途中で小さく言う。

「何だ」

「この席、最初からそう考えてたんですか」

「考えた」

「やっぱり」

「何がだ」

「なんか、今日はみんな少し話しやすそうです」

「ほう」

 と、リューシェ。

「坊や、そこまで見るか」

「えっと、はい……」

「接客だけでなく、広間の空気まで見ておる」

「主様寄りですねえ」

 と、ベルノルト。

「嫌ではない」

 と、アレクシス。

「それ本日二回目です」

「数えるな」

「もう癖なんです」


 案の定、広間では少しずつ会話が交わり始めた。


「その白い湯、そんなに良いのか」

 と、老騎士が令嬢へ訊く。

「ええ、とても」

 と、令嬢。

「肌がやわらぐ感じがしますの」

「わしには分からん世界だな」

「赤い湯も、足に良いのでしょう?」

「そうだ」

「では、いつか試してみたいですわ」

「最初は短く」

 と、アレクシスが横から言う。

「すぐ混ざるのう」

 と、リューシェ。

「主様は湯の話になると、会話へ自然に入ってくる」

「宿主だからな」

「便利ですわね、その言葉」

 と、令嬢が笑う。


 その会話を、ゼフは静かに聞いていた。


 最初は無言だったが、やがて老騎士がふと向けた視線に答えるように口を開いた。


「赤い湯は、確かに強い」

「おまえは入ったのか」

 と、老騎士。

「短くな」

「どうだった」

「悪くはない」

「ほう」

 と、リューシェ。

「おぬしまで主様の口癖がうつっておる」

「うつるのか、あれは」

 と、ベルノルト。

「宿の湯気と一緒に広がるんじゃないか?」

「嫌な広がり方じゃのう」


 令嬢がそこで、少しだけ躊躇いながらゼフへ言った。


「あの……」

「何だ」

「お嫌でなければ、その……」

「何だ」

「青い湯のお話、少し聞いてもよろしいですか」

 広間の空気が、一瞬だけ細くなる。


 人間の貴族の娘が、正体を隠す気配のある魔族へ、きちんと礼を取って話しかけている。

 それはこの宿でなければ、もっと別の緊張を生んだかもしれない。


 だがゼフは、少し考えたあとで答えた。


「静かだ」

「え?」

「青い湯は、静かだ」

「……」

「それ以上の言葉は要らん」

「……まあ」

 令嬢は少し目を丸くし、それからくすっと笑った。

「分かる気がしますわ」

「分かるのか」

「ええ。白い湯はやわらかい。青い湯は静か。赤い湯は強い。そういうふうに、ここでは湯に性格があるんですもの」

「嬢ちゃん」

 と、リューシェ。

「それ、かなり主様に刺さる言い方じゃ」

「そうか?」

 と、アレクシス。

「顔に出ておる」

「出てます」

 と、ベルノルト。

「かなり」


 午後になると、宿全体に連泊客の“なじみ”がさらに出てきた。


 老騎士は広間の一番落ち着く椅子をもう覚えている。

 令嬢は白湯のあとにどの窓際が風に当たりすぎないかを知り始める。

 ゼフは露天へ行く時間を、他の客の動きから自然にずらすようになっていた。


 ユノはその全部を、配膳と片付けのあいだに見ていた。


 見ているうちに、何が“宿の空気”なのかが少しずつ分かってくる。


 誰かが大声を出せば、別の誰かの静けさが削られる。

 椅子の位置が半歩違うだけで、会話がしやすくも息苦しくもなる。

 湯上がりの水差しの位置一つで、客の動きが変わる。


 宿とは、湯と飯と寝床だけでできているのではないのだ。


「主様」

 と、ユノが夕方近く、帳場の横で小さく言った。

「何だ」

「連泊って、面白いです」

「そうか」

「はい。毎日少しずつ、みんなの居方が変わる」

「……ああ」

「一泊だけだと、分からないことですね」

「そうだな」

 アレクシスは広間を見た。

「宿の時間が、客の中に入っていく」

「主様」

 と、リューシェ。

「今のはなかなか良い」

「たまにはな」

「増やせ」

「努力はする」

「最近、その返しまで定着してきましたね」

 と、ベルノルト。

「もう一周回って味になってきました」


 夜、広間の火が少し落ち着いてきた頃。


 令嬢は母と部屋へ戻る前に、老騎士とゼフへ小さく会釈した。


「おやすみなさいませ」

「うむ」

 と、老騎士。

「おやすみ」

 と、ゼフ。


 ほんの短いやり取りだ。

 だが、その自然さにユノは少しだけ驚く。


 身分も種族も事情も違う客が、同じ宿の広間で、ちゃんと“同じ宿の客”として言葉を交わしている。


「……すごい」

 と、ユノが呟く。

「何がじゃ」

 と、リューシェ。

「なんか……ちゃんと宿になってる」

「今さらか」

 と、アレクシス。

「今さらですけど」

 ユノは少し笑った。

「だって、前はみんなバラバラだったのに、今はちゃんと同じ場所にいる感じがするから」

「そうじゃのう」

 と、リューシェ。

「それを作るのが宿じゃ」

「主様」

 と、ベルノルト。

「今日の坊や、かなり良いこと言ってます」

「見ている」

 と、アレクシス。

「その一言がいちばん重いんですよ」


 広間の火がぱちりと鳴った。


 その音の向こうに、湯気がある。

 湯気の向こうに、それぞれの客がいる。

 そしてその全部をつないでいるのが、この宿なのだ。


 朝霧亭は、もう“試しに泊まる名湯宿”ではなくなり始めていた。

 人が時間ごと預ける場所へ、少しずつ変わっている。

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