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第九-ゲネプロ-

「おはようございます、先生」

「おはよう」

 音楽の仲間でも、やはり舞台芸術だからなのだろう、何時に会っても最初は「おはよう」と挨拶をする。

「昨日は、よく寝られましたか?」

「……ああ、こっちは意外と寒いね。咲奈恵ちゃん、喉、大丈夫?」

「大丈夫です。エアコンは使わなかったので」

「偉い、偉い」

「本番の前くらいは、ですけどね」

 今日はさすがにマスクを着けての登場となった咲奈恵は、少し心配そうな顔をした。

「先生、マエストロとご一緒じゃなくて、いいんですか? 私、勝手に2人で予約しちゃったから心配で……」

「いいよ。いや、そうじゃないと逆に困る……」

「えっ……」

「まずは行こう。見つかると面倒臭い」

「……はい」

 神崎に背中を押されるように、タクシーに乗り込んだ。


「昨日、帰りの電車の中でブログ拝見して」

「ん、どうだった?」

「やっぱり仲本先生とのコンビ、多いんですよね、神崎先生って」

「よく呼んでもらってるよ。今回は、予定外だったけど」

「……そうですよね。前の伴奏者さん、急に外されちゃって……」

「あれ? もしかして、またやらかした?」

「やらかした……?」

「『これだから、県芸は!』」

「あっ、そうです」

 咲奈恵は、神崎が当たり前のように言い出したので、ビックリする。

「それでか……。何だか名古屋のスタッフが、ピリピリしててね。急遽代役としか聞かされてなかった」

「そうなんですね……」

「あれさえなきゃ、あのマエストロ、いいんだけどなぁ……」

「あの……、またってことは、何か理由でもあるんでしょうか? ちょっと、イジメとしか思えない感じで……」

 神崎はその理由が分かっているようで、少し勿体付けて咲奈恵を見る。

「オフレコだよ」

「はい……」

 何だろう……。見当もつかない。

「前にね、彼氏を県芸出身の女性ピアニストに取られたんだよ」

「えっ……」

 平然とした顔で、「そういうこと」と、目だけで説明する神崎に向かって、咲奈恵はもう一度叫んだ。

「えー!」


 しばらく驚愕の時間を過ごしたのち、咲奈恵は小さくドア側に体を移動した。

「どうして、離れるの?」

「いえ、だって、でも……。あっ、だから、面倒臭い……」

 咲奈恵はモゴモゴと何やら言いながら、青くなったり、赤くなったりしている。

 面白そうなので、神崎は黙ってその様子を見続けた。蝶の羽化でも観察するかのように見つめられて、咲奈恵は身の置き所がない。

「えーっと、……」

 ぷっ、可愛い。

「ははっ。咲奈恵ちゃん、面白い」

 笑われて、更にどうしてよいのやら、咲奈恵はごまかす言葉も見つからない。

 すると神崎が、やっと笑いを収めて、真っすぐに咲奈恵に言葉を掛けた。

「僕は、彼の『彼』じゃないよ」

 しばらく無言で神崎の目を見つめていた咲奈恵は、やっと息が吸えたらしく

「はぁ〜。よかったぁ……」

 と安堵の溜息を()いた。神崎は、もっと咲奈恵を見ていたくて、更に追い込む。

「よかった?」

「あっ、いえ、えっと……」

 案の定、元の様に焦り出す。やっぱり、面白い。神崎はそんな咲奈恵にトドメを刺した。

「僕は、女性にしか興味はないので」

 と、座席に置かれている咲奈恵の手の甲を、中指の背でそっとなぞった。

「……っ!」

「お客さん、ここでよろしいですか?」

「あっ、はい!」

 真っ赤な顔のまま、咲奈恵はタクシーの運転手に顔を向けた。


 そうそう、忘れていた。「ひつまぶし」は大層美味しく、今では東京でも食べられると知ると、神崎は今まで知らなかったことを、心から悔しがっていた。


 食事を終えて、本日の演奏会場である「日本特殊陶業市民会館(名古屋市民会館)」に到着すると、受付に合唱団の並びが発表されていた。咲奈恵はほぼ真ん中辺りだった。

 ゲネプロでは、舞台の袖でその通りに整列する。そのまま舞台入りのリハーサルを兼ね雛壇に上り、用意された椅子に座った。本番の合唱団の動きを最終確認し、演奏後の観客からの拍手の受け方などを練習した。


 音出しの時間になり、マエストロの仲本が登場した。

「おはようございます。皆さん、今日はよろしくお願いします」

 と声を張る。次に、ステージマネージャーが、本日のタイムスケジュールを確認し、ソリスト4人の紹介もした。オケと合唱団員達の拍手が納まったところで、仲本は指揮台に上がった。

 

 第1楽章から曲が始まる。神崎は会場の客席に座って聞いていた。そこに須高が声を掛け、隣に座る。そんな様子を、咲奈恵はステージの上から見ていた。

 舞台から客席は、実は意外とよく見える。さすがに細かな表情までは分からないが、知っている人ならば、最後列に座っていても十分に判別はできる。つまり、観客もステージから見られているのである。

 昔、友人の合唱の演奏会を聴きに行った時、目をつむって曲を聴いていた咲奈恵は、後から「寝てたでしょ」と言われたことがあった。600席くらいの会場だったのだが、割と後ろの方で聴いていたので、驚いたことがある。それ以来、間違っても欠伸(あくび)などしないように、演奏会を聴くようになった。


「うっわ……」

 合唱が始まって、咲奈恵はゲッソリと肩を落とした。隣の人と、音のピッチが合わない。

 どうやら、咲奈恵の周りには、声が出る人が集められたようだ。もしかしたら、音大出身の人達かもしれないし、合唱団でエースといわれる人達かもしれない。この並びは、運営スタッフで決めるのだが、一般的な合唱団の並びとは、違ったものになっていた。


 歌の場合、声を出すのはあくまでも「口」なので、その位置の高さがあまりに違うと、隣と共鳴しない。それを避けるためにも、また見た目の美しさのためにも、だいたい身長順に前から並べていく。そのために全ての人が、身長の申請を最初にしてある。しかし今回は、どうやら歌える人達を1ヶ所に集めたようだ。そしてそれが、咲奈恵に悲劇を呼ぶ。

「歌えない……」


 口に出しては言えないが、「マスケラ」を掴んだ人と、そうでない人では、明らかに響く場所が違うので、同じ音でも、微妙に高さが違ってくる。 更に、先天的なものだと思われるのだが、音を捉えるときの感覚が、明らかに違う人達がいるのだ。それは、「音痴」という程の大きな違いではなく、1音の幅の中での高低の違いである。高く捉えてしまう人は、まだ周りへの害は少ない。問題なのは、低く捉えてしまう人である。よく言うところの「ピッチが低い」という声である。

 咲奈恵は素人の集団の中で歌うことに慣れているので、ピッチの低い人達によく出会う。その場合は、絶対隣には並ばない。最低1人は間に人を挟み、真後ろにも来ないようにする。それ程、このピッチの違いは致命傷になるのだ。

 更にタチが悪いのは、低い人々は、自分が低いことに全く気が付いていないことである。だから、大きな声で歌うことに躊躇(ちゅうちょ)がない。そんな人が、隣に来てしまったのだ。

 (フォルテ)で歌っている時は、まだ何とかなる。問題なのは、pp(ピアニッシモ)で高音の場所である。そう「Uber Sternen mus er wohnen (神は星の向こうに住んでいるに違いない)」だ。……、参った!


 神崎の顔が曇った。一体どうしたというのだろう。彼女の声が、ほとんど飛んでこない。ちゃんと歌っていないのだろうか。ゲネなので、本番の様に歌っていないのかもしれない。

 よくある素人の失敗で、「ゲネの時に歌い過ぎて、本番に声が出なかった」というのがあるので、それを避けているのかもしれない……。それにしても、普通に歌っていれば、この場所で彼女の響きが浮き上がるはずなんだが……。

「どうしたんでしょうね。アルト」

 須高が、神崎に話し掛けてきた。彼も気づいたらしい。

「おかしいですね……。喉の調子は、特に悪いとは聞いてないんですが」

「あれ、神崎さん。真野さんとお知り合いですか?」

 やはり彼女のことで間違いないらしい。

「ええ。今日も練習前に話しましたから」

「そうですか。ここで彼女の声が聴こえないと……あぁ、やっぱり。アルトの音が下がってしまう」

 マエストロが、アルトに向かって人差し指を上方向に向け、「上、上」とジャスチャーをしている。「音が低いから、上げて」との指示だ。こんなこと、本番ではまずしない。ここで指示したところで、急に声は高くならない。

「……」

 マズいと誰もが思う。特に聴いている方は……。須高が隣で呟いた。

「彼女のお陰で、今回は心配してなかったんですが……」

 顔を舞台に向けたまま、神崎は席を立つ。

「ちょっと、確認してみましょう」

「お任せして、よろしいですか?」

「ええ」

 先程から、彼女がこちらを見ているような気がした。確かめるように、舞台の際まで歩いていく。やはり彼女は、僕の動きを追っている。視線を合わせると、「困りました」と目で訴えてきた。やはり、何かある……。


 ちょうど、マエストロが棒を下ろした。指揮台から降りて、コンサートマスターとソリスト達と話をし出した。そのスキを狙って、神崎は舞台に上がった。アルトの前まで行き、咲奈恵を手招きする。咲奈恵は、慌てて雛壇の中程から、アルトの女性陣の間を縫って降りてきた。

「どうした? 隣か?」

「はい、ピッチが……」

「どっちだ」

「右です」

「分かった」

 そう言うが早いか、咲奈恵の右側の女性に声を掛け、その更に右側の女性と入れ替えた。その間に咲奈恵は元の場所に戻る。神崎も急いで舞台から客席に戻った。ちょうど見計らったかのようにマエストロ達の打ち合わせも済んで、ゲネが再開する。少し小節を戻した場所からやり直すようだ。マエストロが、練習番号を告げ、棒が上がる。


 再度、先程の音が下がった場所に差し掛かる。……あぁ、よかった。

「あぁ、戻りましたね……」

 須高も安堵の声を漏らした。今度は確かに咲奈恵の声が響き、アルト全体の音がその声に引っ張られていく。最後に残った咲奈恵1人の響きが、ソプラノの声と共に、会場にふわりと行き渡った。

「何でしたか?」

 須高が神崎に向かって質問した。

「隣のピッチが、低かったようです」

「隣……? あぁ、彼女でしたか。彼女は確か、こちらの音大出身のはずでしたが……」

「そうですか。それでは余計、歌えないわけですね。声に芯があるから……。喉声(のどごえ)は会場に届かないから気が付かなかったが、近鳴りしますからね。周りの人間に害を及ぼす。これで、大丈夫のようだ」

 神崎は須高と共に、胸を撫で下ろした。


 ゲネが終了し、神崎はマエストロの元に向かう。今日はどうやらこのまま仕事はなさそうなので、マエストロの付き人の様な役割をこなすことになる。マエストロには、指揮者見習の正式な「かばん持ち」がいるのだが、神崎が傍にいた方が機嫌がいいからと、神崎がいる時は、彼、沢口は早々と楽屋を出て行ってしまう。

 沢口は仲本の崇拝者で、今年24歳になる音大の大学院生である。今の時代、弟子でもあるまいにと、マエストロも最初は煙たがっていたが、今は便利に使っているようだ。ただ残念なことに、彼はマエストロの「好み」ではないらしく、神崎への執着が薄れることがない。だから、2人きりにしないで欲しい……。

 夕食や着替えなど、本番前に準備は結構あって、咲奈恵とは話す時間は取れなかった。そのまま本番を迎えることになった。


 この日の本番は、無事ブラボーコールの内に幕を閉じた。神崎は舞台上手の袖で、ステージから降りてくる合唱団を、他のスタッフと共に迎える。

「お疲れ様」「ありがとうございました」

 何度もそんなやり取りが繰り返され、皆満足げに楽屋に引き上げて行く。その中に咲奈恵の姿を見つけた。

「お疲れ様」

「先生〜、ありがとうございました。本当に助かりました〜」

 神崎に向かって両手を差し伸べながら駆けよれば、ちゃんと腕ごと受け止めてくれる。

「いや、ゲネのうちに確認できてよかった。本番もよく声が通ってたよ」

「先生のお陰ですー」

 本番後の舞台裏は、ごった返す。1ヶ所で留まっていては、誰かしらの迷惑になる。神崎は咲奈恵の腰にそっと手を当て促し、楽屋に向かって歩き出した。

「姪御さんが来るのは、明日だったね」

「はい。私も今から楽しみです」

「じゃ、明日も頑張らないとな」

「はい。早く帰って、ゆっくり寝ます」

「それがいい」

「先生も、もうホテルに戻られるんですか?」

「う〜ん、なんとかマエストロを(かわ)せればね」

「……わぁ、大変」

 真剣に心配そうな顔をするので、神崎は可笑しくなった。

「大丈夫、いつものことだから。ああ見えても、無理強いはしない」

「……」

 無理強いと聞いて、咲奈恵の顔が少し赤くなる。まったく、何を想像しているのやら……。可愛いな……。

「じゃ、明日もよろしく。寒いから、気を付けて」

「はい。先生も頑張ってください。お疲れ様でした。お休みなさい」

 また両手をコブシにして気合を入れながら応援してくれるが、一体僕は何を頑張るのか……。やっぱり少し可笑しくて、緩んだ頬のまま小さく片手を挙げれば、咲奈恵は両手でバイバイと手を振り、楽屋に戻っていった。


「随分と、見せつけてくれるねぇ」

「……! 仲本先生」

 いつの間にいたのか、後ろから仲本に声を掛けられる。……人の後ろを取るんじゃない! 早く楽屋に戻って、着替えを済ませなさい! 沢口は、どこ行った!?

「いえ、少し話をしていただけで……」

「ふ〜ん」

 しょうがないので、着替えを手伝うべく、マエストロについて歩き出した。

「あれさぁ……」

 気だるそうに仲本が続ける。

「……あれ、とは?」

「昼間の、あれ。君ら、あっという間に意思疎通してたよねぇ。『あ、うん』の呼吸だった」

「……」

 「あれ」とは、ゲネでの僕らのやり取りのことだと分かる。マエストロはソリスト達と打ち合わせをしていたはずだが、やはり目の端で捉えられていたらしい。


 舞台上のことは、指揮者はほとんどのことを把握している。オケでいうなら、メンバーの誰と誰が仲がいいとか、誰が体調が悪いとか、誰が練習不足だとか……。全ての頂点に君臨しているといえども、人としての気配りができない人間は、楽団員から信頼は得られない。音を出すのは、あくまでも楽団員である。信頼関係なしに、いい音楽をまとめ上げることは、できない。

「まぁ、あれでアルトの声が戻ったから、文句はないがね……」

「はい」

 そうだろう。文句がないなら、他に何がある。

「よっぽど相手に意識が集中していなけりゃ、あそこまですぐに改善できないよねぇ」

「……」

 一瞬、口籠ってしまった。これでは、後は何を言っても言い訳になるな……。

「彼女の声は、今回のアルトにとって『肝』になりますので」

「へぇ、それだけ……?」

「……先生! もう早く着替えて下さい。部屋が片付けられません」

 無理やり話を終えて、マエストロを黙らせた。神崎は小さくため息をついた。充分分かっている。彼が指摘することは、やはりいつも正しいのだ。


「明日、お昼一緒に食べよう」

「集合が14時だから、できれば会場の近くに、名古屋めし、ないかな」

 帰宅途中の咲奈恵に、神崎からLINEが届いた。明日はゲネプロはない。合唱団は少し発声をして、そのまま本番に乗ることになる。

 会場のすぐ近くに「味噌カツ」の有名店があるので、そこを提案する。「OK」と快諾が届いた。

 咲奈恵はスマホを握りしめる。あと1回くらい話せるかなと思っていたが、また食事ができる……。車窓を眺めながら、明日のスケジュールの段取りを、頭の中で組み直し始めた。

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