オーディション
「では、こちらから選んでください」
咲奈恵の前には、40枚ほどある小さな紙片が、裏向きに置かれていた。その中から1枚を取って、受付の女性に渡す。
「1番です」
あちゃ〜、やっちゃったわ〜。などとは顔に出さず、オーディションの注意事項が書かれた用紙を受け取った。
サントリーホールの楽屋入り口である。今日はこの12月に演奏される、ベートーヴェン作曲の「ミサ・ソレムニス ニ長調 作品123」に出演する、合唱団のオーディションの日である。
各パートごとに集合時間がズラしてあるため、アルトの受付が始まった時には、もう男声パートのオーディションは終了していた。受付を済ませた咲奈恵は、顔なじみのテノールに声を掛ける。
「お久し振り。どうだった? バッチリ?」
「まあね。参加者もいつものメンバーだし、人数も少なかったし、大丈夫だと思うよ」
彼は音大出身者ではない。車のメーカー関係の会社に勤めているサラリーマンだ。しかし、いい声をしており、経験もたっぷり積んでいるため、セミプロの様な活動もしている。
つい先日は、千葉で演奏されたプッチーニのオペラ「トゥーランドット」で、「ピン・パン・ポン」という役の中の「ピン」をもらい、ソリストとして出演していたほどだ。
「やっぱり、少なかったんだ」
「うん。この曲マイナーだし、今日のオーディションの箇所、ちょっと難しいでしょ。皆んな面倒臭がっちゃって」
「結局また、追加オーディションをすることになりそうね」
「少ないって言っても、全員が合格するわけじゃないからね。今回も、合唱指揮者がどっかから連れてくるんじゃないかな」
「そっか〜」
とにかくテノールは絶対数が少ない。そこに持ってきて、自称テノールを気取っている、なんちゃってテノールも世の中には多いため、こういったオーディションをしてしまうと、残るのはいつも少人数で、しかも決まったメンバーになるのだ。咲奈恵も、随分顔見知りのテノールが多くなった。
「今日はアルト、割といるね」
「何だか、どんどん若い人ばっかりになってきちゃって、肩身が狭いわ」
「いやいや〜、真野さんだって20代でしょ。十分若いって!」
「ギリギリね〜。あっという間に大台よ」
「あら、じゃあ私なんて、墓場に入りかけのお婆ちゃんね」
咲奈恵の後ろから声を掛けてきたのは、こちらも顔なじみのアルトの女性だった。彼女は40代後半のはずである。
「あら、春川さん、お久し振り。順番何番だった?」
「23番。真野さんは?」
「1番」
「うわぁ、やっちゃったわね〜」
「そうなのよ〜! まぁね、さっさと歌って、とっとと帰るわ」
今回のオーディションは、結果は後日の発表になるため、歌い終わった人はすぐに帰って構わない。
「そうね。真野さんなら間違いなく通るから、考えようによっちゃ、待ち時間が短い方がよかったかもね」
スポーツの様に得点がはっきりしない芸術分野では、どんなものでも一緒だと思うが、1人ずつ順番に評価を下す場合、1番というのは実にビミョーなのである。まずは取り敢えずの「基準」になるからだ。どんなに上手かろうが、そうじゃなかろうが、正当な判断はされにくくなるのだ。
まぁ、かと言って、後になればなったで、審査する方も耳が慣れてくるので、判断もシビアにされるようになるわけだから、どちらにしても、以外に順番というのは重要だったりする。だから、今回の様にくじ引きで決めるし、その結果に一喜一憂するのである。
ただ今日は、コンクールの様に順位を決めるわけではなく、ある一定の基準に達しているかどうかの判断をするだけなので、さほど気にすることもないだろう。
談笑しているうちに、アルトの受付時間が終了したようだ。本日のドタキャンは2名とのことだった。皆で一斉にオーディション会場に向かう。
「じゃあね。お疲れ様―」
「頑張って」
テナーの彼とはそこで別れて、咲奈恵達は広めの楽屋に移動した。進行役の事務局の女性が、オーディションの手順を説明する。
「オーディションの10分前になりましたら、お名前をお呼びします。隣の楽屋で発声などを行ってください。ピアノは自由にお使い頂いて結構です。その後、お声をお掛けしましたら、大リハーサル室に移動して歌っていただきます。小節は、オーディション要項でお知らせした場所、練習番号「P」から最後まで、全て歌っていただきます」
ここで少し参加者がザワついた。一般的に合唱のオーディションに申し込んだ際は、演奏曲の一部分の楽譜が送られてくる。参加者はその部分を練習してくるのだが、実際にオーディションで、その全範囲を歌うことは珍しい。その中の一部分を歌うことの方が多いのだ。今回は結構長く歌うことになる。皆の緊張が強くなるのが分かった。
後は、審査結果の発表方法などが確認され、いよいよオーディションが始まった。
咲奈恵は音出しを終え、大リハーサル室に入る。バレエのリハーサルもできる1番大きな部屋の壁側に、長テーブルが3本あり、それぞれに1人ずつ審査員が座っている。真ん中の1人は、咲奈恵も見覚えのある合唱指揮者だ。彼の下で練習するのは、受かればこれで3回目だ。今売れっ子の合唱指揮者である。咲奈恵は、待ち時間が全くなかったので、逆に緊張する暇もなく、足を踏み出した。
ピアノの前に置かれた譜面台に向かいながら、審査員までの距離を目測する。結構あるな……。ピアノの後ろを通り過ぎる際、伴奏者にも礼儀として声を掛ける。
「よろしくお願いします」
「……咲……奈」
「えっ……」
そこに座っていたのは、神崎だった。時が、止まる……。
「……先生」
「どうしました? 始めて下さい」
合唱指揮者が、神崎の前で足を止めてしまった咲奈恵を促した。神崎も、我に返って準備をする。
「あっ、すみません。真野咲奈恵です。よろしくお願いします」
動揺した気持ちの中、神崎のピアノが始まった。フーガ(輪唱)部のため、アルトが出るまでに9小節待つ。楽譜の中で、まずはバスが歌い、テノールが入る。そのメロディを、しっかり神崎が弾いている。
8分音符がいくつも並ぶ、メリスマが何度も出てくる。しかも「Allegro」なので早い。それらを軽快に、楽譜の指示通り「ben marcato」で、美しくハッキリとメロディが鳴り響く。
あぁ、やっぱり、先生の音は綺麗だ……。音を聴いている間に、咲奈恵の心は落ち着いていった。神崎の音に乗り、咲奈恵は歌い出す。この伴奏には、全パートのメロディが入っている。それを神崎は弾いているのだが、ちゃんとアルトの音を拾いやすくするために、他のパートより、わずかに大きく弾いているのが分かる。きっと、バスの時にはバスを、テノールの時にはテノールのメロディを、少し大きく弾いたに違いない。さすがだな……。咲奈恵は歌い続ける。
咲奈……。この声をどれ程聞きたいと思っていたか、君は知らない…。
あっと、次は言葉の割付が違う。そうそう。ここのメロディのアクセントは、……そう、それでいい。
ここからはソプラノがメロディだから、……そう、アルトは少し控えめで。次はアルトがメロディだから、クレッシェンドして、僕と一緒にマルカート。
次は……。そう……。そう……。……。
僕は、この咲奈を、手放したのか……!
神崎のピアノが、止まってしまった。
咲奈恵は驚いて、ゆっくりと振り向いた。神崎は苦しそうに目を閉じ、鍵盤に両手を置いたまま動く様子がなかった。
「神崎さん、どうしました?」
合唱指揮者も驚いて、神崎に声を掛ける。
「すみ……ません」
片隅で控えていた進行役の事務局員が、慌てて神崎の側までやって来た。
「神崎先生、体調でも、お悪いですか?」
「申し訳ありません。5分、いえ、10分だけ、時間を頂けませんか?」
神崎の苦しそうな表情に、事務局員は審査員の判断を仰ぐ。審査員達も席を立ち、神崎の側まで来て様子を伺っていたが、その言葉で即断したようだ。
「分かりました。10分、全てのスケジュールをズラしましょう。お願いします」
それを聞いて、残りの事務局員が一斉に動き出す。1人1人の時間は、全てストップウォッチで管理されているため、他の参加者の動きも止めなくてはならない。部屋をパタパタと出ていった。
「先生、控室で休まれますか?」
「いえ、ここで大丈夫です……」
「では、真野さんも一旦控室に戻りましょうか」
事務局員は咲奈恵に声を掛け、一緒に出ようと誘った。オロオロと見ていた咲奈恵は、言われた通り神崎の横を通り過ぎようとした。
しかしその手首を、神崎はしっかり握って引き留める。
「咲奈!」
神崎の手を、熱を、直接肌で感じて、咲奈恵は驚きと共に足がすくむ。
「……先生」
そんな2人の様子を見ていた合唱指揮者は、神崎と咲奈恵以外の人間を、全員部屋の外に追い出した。そして、小さな声で、でもキッパリと、2人に向かい釘を刺した。
「神崎さん、キッカリ10分です。それ以上は、待てません。彼女も失格とします。よろしいですね!」
「……はい」
「真野さんも、今日、神崎さんの代わりはいないんです。必ず、10分で彼を元に戻してください。いいですか!」
「……はい」
そのままスタスタと、彼も部屋を出て行った。
「咲奈……、会いたかった」
「先生……」
「許してほしいって言って、許してもらえるとは思っていない……。だけど……」
苦しそうに顔を歪めている神崎は、それでも咲奈恵を見つめる目は外さなかった。
「そばに、いてほしい」
咲奈恵は思わず目をギュッと閉じた。そして、あの時の、神崎を失った時の苦しみが、もう一度胸に迫ってくる。あんな思いは、もう、嫌だ……。咲奈恵は、応えることができなかった。
「君がいない苦痛に……、もうこれ以上、耐えられない……」
応えてくれない咲奈恵の手首を握りしめたまま、神崎は初めて弱音を口にする。
咲奈恵は思わず目を開けた。こんな言葉……。弱味を見せない神崎にとって、この言葉がどれ程のことなのか、咲奈恵は良く知っている。……先生。
「咲奈……。もう一度……、もう一度だけ……、僕を愛してほしい!」
沈黙が、リハーサル室に落ちる。神崎にとって、それは永遠かと思われた。
「もう……」
咲奈恵が、やっと口を開く。神崎は、弾かれたように応えた。
「っ……、うん!」
「ドイツには行きませんか?」
神崎の顔が、崩れた。口惜しさと、涙が、滲む。これ程、咲奈恵を苦しめたんだと……。
「もう、行かない! 来いって言われても、行かない!」
「……、前にも言いました。私、先生を誰にも渡したくないって。それは、ずっと……、今でも変わっていません」
「咲奈!」
神崎は咲奈恵を抱き締めた。咲奈恵も神崎の背に手を回す。
先生、やっと、戻ってきた……。もう、戻らないと思ってたのに……、先生!
「もう、どこへも行かないで」
咲奈の言葉に応えるように、神崎の鼓動が直接伝わるほど、強く、強く抱き締められた。
やっと涙が治まってきた咲奈恵は、いつまでも離れようとしない神崎越しに、壁にある時計を確認する。
「先生、もうすぐ10分です。私、失格になりたくないです」
「うん……。分かってる」
離れるのを惜しむように、もう一度神崎は咲奈恵をギュッと抱き締めた後、そっと放した。咲奈恵の涙を、親指と手の平で拭いながら、やっと神崎の顔にも笑顔が戻った。
「咲奈、グシャグシャだ。歌えるか?」
「鼻かまないと、無理」
「うん。用意して」
咲奈は、部屋の隅に置いていたバッグに走り寄って、鼻も顔も整えた。充血し切った鼻腔を冷やすように、息を何度も吸い込む。何とか、通りそうだ。ここが詰まっていては、ベルカント唱法は一切できない。
後ろから神崎が近づいてきて、「大丈夫か」と声を掛けた。「はい」と答えたところで、神崎は咲奈恵の頭をグッと引き寄せ、おでこにキスをする。
「さっきの通りでいいから、咲奈、頑張って」
「はい」
既に神崎は伴奏者の顔に戻っていた。よかった。これで、再開できる。
そのまま部屋を出て行った神崎は、控室で待っていた皆に頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。もう、大丈夫です。再開してください」
「まったく、神崎さんには1つ貸し、ですからね!」
合唱指揮者の声が、扉が開いているリハーサル室にまで聞こえてきて、咲奈恵も小さく噴き出した。本当は、きっと10分以上経っていたと思う。でも、こちらから声を掛けるまで、彼らは待ってくれた。そんな主催者の皆様に、咲奈恵は歌でお返ししようと心に決めた。
咲奈恵は、無事、オーディションに合格した。
「どこ行くの? 先生」
「うん。個展にね……」
神崎は咲奈恵の手を取って、駅からどこかに向かっている。咲奈恵は、今日のデートの行き先を知らない。
2人が再会してから、神崎の仕事は徐々に元の様に忙しくなっていった。休養のリスクを最小限に喰い止めてくれたのは、もちろん今川達だったが、木之内も随分動いてくれたらしい。
神崎に恐れをなしてキャンセルしていった皆に、もう一度依頼してもらえるよう、取り計らってくれたというのだ。
あれは、本来の神崎ではなく、体調不良ゆえの症状だったのだと、言って歩いてくれたらしい。半分くらいの歌手が、もう一度、神崎に戻ってきてくれた。
神崎も、木之内に心から感謝をしていた。……が、
「貴雄! ほんっと、金輪際あなたの言う通りには歌わないからね! 今回のお返しは、舞台でちゃんとしてよね!」
「何言ってるんだ。それは、それ。これは、これ。お前の歌い方のままだと、音楽が別のものになる。それは、許されない!」
相変わらず、練習場で2人は言い合っているらしい。まぁ、これはずっと続きそうだと、咲奈恵は気に病むのは止めることにした。
あと、咲奈恵は無理だとゴネたのだが、神崎が咲奈恵のリサイタルを企画した。
300名程の小さな会場でそれは実現して、ドイツ歌曲を中心に、やっぱりアンコールではあの「ハバネラ」を歌った。
アットホームな雰囲気で、「ハバネラ」にも大きな拍手をいただき、無事リサイタルは終了した。
ただ、家族全員が東京までわざわざ聴きに来てくれていたので、あの振付けを見た祖父母に、「女の子が、人様の前で何てことをするのか」と、しっかりお説教をされた。
神崎が横からフォローをしてくれて、何とか収まったが、今後は家族の前ではあれは歌わないと心に決めた。
季節は、2人が出会ってから2回り半が過ぎ、夏の暑さが始まる頃になっていた。
「個展って、誰の?」
「大野凛太郎」
「? 誰?」
「写真撮影してくれた、ほら、無精ひげの……」
「あぁ、先生のお友達の?」
「そう。奴の個展は、結構評判でね。今日も、混んでるかもしれない」
会場に到着すれば、チケット売り場に人が並んでいた。
会場に入れば、入り口の両壁から、すぐに写真の展示が始まっている。どれも「人」が中心の写真で、アスリートの競技後の姿だったり、田舎のおばあちゃんと孫の1コマだったり、その人の「ある一瞬」を切り取った、でも心に迫ってくる、そんな写真が並んでいた。
「やぁ、よく来てくれました」
大野がちょうどいる時間に合わせて神崎は来たらしく、久しぶりに会った咲奈恵は笑顔で挨拶を交わした。
会場の中程に記帳するテーブルが置かれていて、そこで大野は来場者に対応していた。
「とても素敵な写真ばかりで、ホントに楽しいです」
「ありがとう。この先は、音楽家の皆さんのブースになってます。知った顔も、いっぱいいると思いますよ」
「わっ、そうなんですね。楽しみです。先生も、いる?」
咲奈恵は隣にいる神崎に聞く。ゆっくりと頷いた神崎に、咲奈恵は早く見たくてウズウズし出した。挨拶は、またあとで……、とでも言うように、神崎の手を引っ張って、先に進もうとする。
そんな神崎に大野は小さく声を掛けた。
「上手くやれよ」
「ああ」
いつもの優雅で華やかな木之内とは違った、演奏会の最中の、舞台袖での緊張した横顔を捉えた写真や、バリトンの島村の写真もあった。
こちらは、楽屋で奥様のサンドイッチを頬張っている。リラックスした、とてもいい表情をしている。もちろん、サンドイッチの情報をくれたのは神崎だ。「これ、美味しいんだよ」と笑っていた。
個展の会場は、いくつものコの字に通路が設置されており、角を曲がるたびに新しいカテゴリーに切り替わっていく。音楽家達のブースが間もなく終わろうとしているところまで来て、咲奈恵は小さく口を尖らせた。
「ねぇ、先生はどこ? もう、終わっちゃうよ」
「きっと、次だと思う」
そう言われて、咲奈恵は神崎を置いて、小走りで角を回る。ゆっくりと後をついて言った神崎は、そこに立ち尽くした咲奈恵の姿を見つけた。
壁一面に、神崎と咲奈恵の写真があった。
等身大に引き伸ばされたモノクロの写真には「恋人たち」と題が付けられている。咲奈恵は呆然と眺めていた顔を、ゆっくりと神崎の方に向ける。
「先生、これ……」
「いい写真でしょ」
それは、咲奈恵のプロフィール写真を撮影した時、咲奈恵の緊張を解そうと、神崎が声を掛けた時のものだ。
咲奈恵の後れ毛を手に取った神崎は、何かを咲奈恵に話し掛けていて、咲奈恵は半分目を伏せて、嬉しそうに微笑んでいる。そんな咲奈恵を見つめる神崎の瞳は、優しくて熱い……。
咲奈恵の隣に到着した神崎は、写真を眺めながら咲奈恵の体をそっと引き寄せた。
「咲奈、僕と一緒になってほしい」
「先生……」
咲奈恵の手を取り、写真と同じ様に咲奈恵を自分の正面に向ける。
「僕は、君と、結婚したい」
ブワッと、咲奈恵の目に涙が溢れる。とっさに、片手で口を覆う。やだっ、先生……、ずるい。神崎は咲奈恵の瞳を覗き込む……。
「叶えてくれる?」
咲奈恵は、コクンッと頷いた。神崎はそのまま、咲奈恵を、大切に、大切に、抱き締めた。
「いよ、御寮人!」
誰かが昭和の掛け声を掛ける。それと同時に、パチパチと拍手の音がした。
それは、後ろからこっそり見ていた大野のものだったのだが、周りにいた来場者の何人かが神崎達に気付き、また、その後ろにある写真と見比べて、何だか知らないけれどという風に、拍手を送ってくれた。
しかもそれに応えて、神崎が珍しくガッツポーズをしたものだから、どうやらプロポーズらしいと分かった人もいて、咲奈恵は恥ずかしいやら、嬉しいやらで、泣き笑いになってしまった。
その秋に、2人はめでたく結婚をした。
今日も咲奈恵は神崎のピアノで歌う。
2人で新たに動画配信を始めたのだ。1回で1曲の時もあれば、同時に3曲ほどUPすることもある。
そのためには、咲奈恵はずっと練習をすることになったし、神崎も仕事の合間の休日が減ることになったりしたが、2人にとっては楽しい日々で、嫌になれば止めればいいと話し合っている。
お陰様で200万回を超す視聴のものもあり、お互いにビックリしている。
まだ2人に子供はいないが、もし生まれたら音楽をすることになるだろう。不思議なことに、2人共、自分と違うことをさせたがる。
「ダメだよ。絶対、歌」
「何で!? ピアニストにしようよ」
「だって、僕がその子の伴奏を弾いてやるんだから」
「やだー、私がその子の伴奏で歌うの〜! その方が、絶対バズるって」
決着は、相当先になりそうだ。
たった1度のつまずきで、全てを諦めてしまうには、人生あまりにももったいない。
思う通りの結果にならなくても、そこからまた新たな道が始まるかもしれない。何かを選択すれば、そこには必ず新しい出会いがある。
それは紛れもなく、自分が選んだ出会いなのだと、人は気づくべきだ。
自分で考え、自分で決断したその出会いに、新しい可能性を託してみれば、本当に欲しかった最初の結果が手に入るかもしれない。困難ではあったが、楽しい回り道だったと笑える時もあるだろう。
神崎と咲奈恵は、自分達がそうであったように、将来の子供達にもそう伝えていこうと話し合っている。
午後1時。今日は羽田空港からの出発である。案内に従い、2人は一緒に搭乗口に並んだ。明日の神崎の演奏会に、咲奈恵は同行するだけの気楽な旅である。
「北海道まで、またよろしく!」
「手、繋ぐだけでいい? マッサージもして欲しい?」
「うん、してほしい」
「じゃ、カニ食べたーい」
「はいはい。今日の夜は、カニにさせて頂きます」
「わーい、やったー」
咲奈恵の頭をポンポンとして、神崎も笑顔に包まれた。