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熊本-本番-

「また皆様にお会いできて、大変うれしく思います」

 演奏会の曲が全て終わり、アンコールに入る前の木ノ内の挨拶は、そんな言葉で始まった。


 基本的にクラシックの演奏会で、MCが入ることは珍しい。曲の紹介もしないし、アーティストの近況報告も、小ネタもない。ただ静かに、鍛え上げられた技術と芸術性による音を楽しみ、そのまま幕は降ろされるのだ。

 1番の理由は、彼らは人前で話すことを訓練してきていないというのが大きい。MCにも才能が必要だということである。逆に、そんな訓練をする暇があるなら音を磨け、という暗黙のプレッシャーもある。

 だから、テレビなどでタレントのように活躍している演奏家は、仲間内では軽くあしらわれてしまうのだ。まぁ実際、そういう演奏家の音楽が、とてつもなく素晴らしいということは、あまりない。ただし、クラシック音楽を世に広めるという重大な役割を、彼らはいとも簡単に成し遂げている。

 そんなクラシックの舞台でも、時々アンコールの時などに、少し挨拶程度の話をするソリストたちは割と多い。大抵がお礼の言葉であったり、アンコールの曲名だったりする。


「熊本地震から4年経ち、皆様の生活も徐々に元に戻られているようで、来るたびに安堵しております。昨日も熊本城を見てまいりましたが、着実に工事が進んでいて、皆様にとっても、希望の光となっているのだと、安心致しました。これから歌いますのは、皆様もよくご存じの『ふるさと』です。よろしければ、ご一緒に歌ってください。一日でも早く元の姿に、そして、さらに輝かしいふる里になるよう祈りながら、今日の最後の歌にさせていただきます」

 木ノ内のあいさつに続き、神崎のピアノが始まる。会場から歌声が広がった。

 咲奈恵はいつもこのアンコールを楽しみにしている。お客様は皆、必ず歌って下さるからだ。よく考えれば、わざわざ歌の演奏会に足を運んで下さる皆様なのだ、歌うことが嫌いな人は少ない。年齢が上の方々の方が、恥ずかしがらずに参加して下さる。会場全体が1つになる、本当に貴重な体験だ。咲奈恵はあまり大きな声で歌わずに、いつも千人を超える人々の大合唱を聞く。幸せな時間だ。こんな時間も、あと1回かと思うと、寂しさが溢れてきた。感謝しながら終了した。


 そのまま演奏会も無事終わり、楽屋で着替えを済ませて荷物を整理していた時だ。咲奈恵の楽屋を神崎がノックした。

「咲奈ちゃん、もう出られる?」

「あっ、はい」

「少し水前寺公園、歩いてみない? 昨日行けなかったから」

「えっ。あの……、でも……」

「何か予定でもあった?」

「いえ、特にはないですが、木之内さんは?」

「今日は彼女、お迎えがあるから、東京には戻らないよ」

「えっ、お迎え?」

 楽屋を出て隣の木之内の部屋を見れば、1人男性が訪れていた。仕立ての良さそうなスーツを着て、年齢は木之内より随分上に見える。音楽関係者というより、どこかの大学の教授でもしていそうな、理知的な顔に、こだわりの強そうな目が配されている

「彼らはまだ出るのに少し時間が掛かりそうだから、僕らは先に出よう」

「えっ、はい……」


 並んで歩きながら、神崎は先程の男性の説明をしてくれる。

「まだ正式には公表してないけど、彼、祥子の婚約者」

「えっ……!」

「別に芸能人じゃないからオフレコって訳でもないけど、あれだけテレビだのネットだのに出てれば、もう半分芸能人みたいなもんだからね。事務所からちゃんとホームページで発表するらしい。だから、まだ内緒」

 咲奈恵は、足が止まった。何! どういう事! 婚約者って……。じゃ、先生はどうなるの!

「先生……」

 あんなに仲良いのに……。先生、木之内さんの事好きなのに……。まるで自分の事の様に胸が苦しくなる。止まった咲奈恵に合わせるように、神崎も歩みがゆっくりとなった。

「ん? どうした?」

 咲奈恵の方を振り向いた神崎の表情は、変わらない。そのことが尚更、咲奈恵には辛く感じる。どんどん顔が歪んできて、涙が這い上がってきてしまう。ひどいよぉ、木之内さん……。

 

 神崎は咲奈恵が何か忘れ物でもしたのかと、次の言葉を待っていたが、どんどん顔が辛そうになってきて何にも言わずに俯いてしまう。どうした……。

「どうしたの? どこか痛い?」

 人の事どころではないはずなのに、咲奈恵を気遣ってくれる神崎の優しさが、咲奈恵の胸に更に沁みる。あぁ、だから、新幹線、隣に座らなかったんだ……。だから、楽屋も私の方にばかり来てたんだ……。だから……。今までのことが、急に腑に落ちた。どこかが痛いのは、先生の方だ。

「……お辛く、ありませんか?」

「僕? 僕はどこも痛くないよ。どうしたの?」

 咲奈恵が悲痛な目でこちらを見てくるが、神崎は飛行機の時間も考えて、少し気が急いてきた。どこも痛くないなら、急ごう。

「咲奈ちゃん。時間もったいないから、大丈夫なら行こうか」

 そうやって、また歩き出した。咲奈恵はおずおずと、そんな神崎について行く。

「だって……、目の前で……」

「ん?」

 横でごにょごにょと何やら言っている咲奈恵と共に、ちょうどエレベーターの前に到着する。ボタンを押すが、2基共、今下に向かったばかりだ。きっと大勢乗ってるだろうから、時間が掛かるな。そんなことを思いながら、咲奈恵の方に向き直る。やっぱり咲奈恵は、こちらを伺う様な目で見つめてくる。

「何? ホントにどうしたの。咲奈ちゃんらしくない。お腹、ペコペコ?」

「いえ、……ごめんなさい」

 何だろう……? 少しデスって楽しもうと思ったのに、全然ノッてこない。咲奈恵はまた俯いてしまった。

「咲奈ちゃん?」

 再度呼びかければ、今度こそ、はっきりと眉を歪めた顔で見つめられ、その眼は、まるで痛々しいものを労わるかのようで、神崎は咲奈恵の言わんとしていることが、掴み切れない。

「咲奈ちゃん……」

 どういうことだ? ちょっと待て……。僕は何を心配されている……?


 ――お辛くありませんか? だって……、目の前で……

 ――たまにはお二人で、水入らずでゆっくりしてください


 あっ……。気にもしていなかった昨夜の咲奈恵の言葉が、急に甦る。神崎の顔が、みるみる上気していく。慌てて咲奈恵に問いただした。

「咲奈ちゃん、聞きたいことがある!」

「はい……」

「名古屋公演の時、地元の彼と一緒に帰ったよね」

「えっ? あっ、……はい」

「あの時、すごく嬉しそうに見送られたんだけど、どうして?」

「あぁ……、こんなことだとは思ってなくて、お邪魔にならなくて良かったなって……」

 神崎の鼓動が、どんどん大きくなる。やはり、じゃあ……。

「じゃあ、あの日、君は彼の家に泊まった訳じゃないんだね」

 しばらく真っすぐ神崎を見つめていた咲奈恵は、何度か瞬きをする。どういった顔をしたらいいかと迷いながら、最後に小さく噴き出した。

「やだ、彼って守のことですよね? 泊ってませんよ。実家まで送ってもらいましたけど」

 言ってしまってから、急に笑いを納めて真面目な顔になり「すみません」と謝る。こんな時に笑ってしまって、という意味らしい。

 ……全く、38にもなって、僕は何をやっているのか。我ながら情けない。

「僕達は、もう少しきちんと、相手の話を聞かないといけないらしい」

 そう言うと、神崎は咲奈恵の目をしっかり見つめながら、ゆっくりと言葉にした。

「僕は、祥子に、恋愛感情は持ってないよ」

 また咲奈恵が小さく眉を歪めてしまうので、さらに付け加える。無理やり諦めたわけでもない。

「祥子に初めて会ってから、今に至るまで、一度もそんな対象になったことはない。そしてこれは、間違いなく将来的にもない。なぜだか、分かる?」

 咲奈恵は(いぶか)しげに、それでも小さく首を振った。

「そもそも彼女の音楽は、僕の好みじゃないから」

 そう言い切ると、ゆっくりと微笑んだ。音楽家として、これほど相容れないものは、ない。

「えっ、でも……」

「どこでそんな風に間違っちゃったのか分からないけど、どうしてそう思った?」

「だって……、名前で呼び合ってるし……」

 えっ、そこ…? 随分、根本的な……。神崎の眉が、片側だけ上がった。

「咲奈ちゃんは、音大の同期の男子、なんて読んでた?」

「……あだ名とか、……苗字とか」

「それと、一緒だよ。同期にね、神田っていうのがいて、皆、間違えやすいから、僕のことは「貴雄」って呼んでたし、「祥子」は何でだったかな……? とにかく、皆、名前で呼んでた。咲奈ちゃんだって、今、名古屋の彼の事……」

「あっ、守……」

 頷きながら小さく笑って、神崎は更に優しい顔になる。

「他には?」

「……舞台袖で、先生の衣装、木之内さんが直してるの見て……」

 神崎はまたもや、少し驚く。そんな些細な事で……。

「僕、あんまり格好構わないから、祥子によく叱られるの。彼女は写真や動画をいつ撮られてもいいように、常に緊張してるから。僕がだらしないと、祥子が笑われるって、いつも言われててね。だから最終チェックは、彼女にお願いしてたんだ。彼女の気に入るようにしないと、また叱られるからね。……今度から、気を付けるよ」

「……いえ、そんな……」

「他には?」

「先生……、木之内さんには遠慮がないっていうか、構えてないっていうか……、夫婦みたいで……」

 咲奈ちゃん……。なんて可愛いいこと……。神崎の顔が、どんどん緩んでいく。

「付き合いが長いだけだよ。僕から見れば、君とあの同級生だって、すごく仲が良く見えた。それこそ、君は彼に心を許してるって……」

「えっ、そんなことないですよ。守はよく伴奏をしてくれたので、気心が知れてるっていうか、遠慮しないっていうか……」

 神崎に「ほらね」という顔をされ、咲奈恵はやっと「あっ」と小さく納得の声を出す。神崎は小さく溜息を()くと、息を整えて咲奈恵の目を見た。

「咲奈ちゃん」

「はい」

「僕のはね、彼への嫉妬だよ」

 咲奈恵の息が止まる。

「僕は、君が好きだから」

「先生……」

 溜息の様に声になる。信じられないかのような顔で見つめられ、神崎は確認せずにはいられない。

「咲奈ちゃんは? 祥子への嫉妬はなかった? 僕達が夫婦の様に見えて」

 柔らかな瞳に見つめられて、咲奈恵は自分の心音が、耳にまで到達する。そんなの決ってる……。咲奈恵は今まで何度も何度もあった、胸の奥の小さな痛みを思い出す。滲みそうになる視界を、必死に我慢しながら答えた。

「だって、だって……。先生と木之内さんは雲の上の人で……」

 咲奈ちゃん、僕は君の目の前にいる。

「僕は、初めて会った時から、君が好きだった」

「そんなっ、私だって……」

 とうとう流れてしまった涙を、子供の様に手で拭っている咲奈恵が、愛おしくてしょうがない。だから、何度も確認する。

「最初から?」

「……最初から」

 こくこくと、頷きながら、咲奈恵も答える。

「ずっと?」

「……ずっと」

 もっともっと、君の気持ちを聞きたいけれど、もうこれ以上泣かないで……。

「じゃ、帰りの飛行機も、手、繋いでてくれる?」

 弾ける様にやっと笑った咲奈恵の手を、神崎はこれ以上ない笑顔で自分の手に取った。


「直輝〜、私達も乗るから、待っててー」

 廊下の奥から声を掛けながら、木之内と婚約者の佐野がやってくる。待たせる気なのに、悠然と歩いて来るのが、いかにも木之内らしい。気が付けば、さっき呼んだエレベーターは、すっかり到着していて、開いたドアが閉まりかけていた。神崎は咲奈恵の手を引っ張って、エレベーターに乗り込む。そのまま「閉」のボタンを押してしまった。

「えっ、先生。木之内さん達……」

「いいの」

 神崎は驚いた顔の咲奈恵の頬に、そっと手を当てる。

「咲奈ちゃん……」

 そのままゆっくり、まるで閉まるエレベーターのドアに合わせる様に、唇にそっとキスをした。

 

「もぉ、ちょっと、どういう事! 待って、って言ったのに!」

 やっとエレベーターの前に到着した木之内が、文句を言った。

「いいじゃないか。早く2人っきりになりたかったんだよ」

「えっ……。あら、そういうこと?」

「そういうこと」

 僕等と一緒、と言いたげな目で婚約者は木之内を見る。木之内も応えるように情熱的に見つめ返した。

 戻ってきたエレベーターに乗った2人が楽屋口まで到着すれば、木之内の出待ちのファン達が待ち構えている。いつもの様に佐野をその場に残し、優美な笑顔をたたえて、木之内はその輪の中に入って行った。

 佐野はそんな木之内達の向こう側に、神崎と咲奈恵の姿を探したが、外はすっかり夕刻の気配に包まれていて、もうどこにも見つけることはできなかった。

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