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「ニーナ。この花は咲かせられる?」
揶揄い交じりに尋ねられ、ニーナは頬を染める。
ネーベル王国の王宮を、ニーナとレオンはゆっくりと散策していた。
湖が広がるその庭園には、無数の花が咲き乱れている。
ふわふわと風に揺れる、薄布のシュミーズドレスに身を包んだニーナは、青地に銀の刺繍が入る上下に身を包んだレオンに唇を尖らせた。
「もう。できるけれど、しないわ。あ……っ」
彼女の足元に愛猫のシュネーがすり寄り、ニーナは転びそうになる。
「……っと」
レオンはニーナの腰に腕を回し、危なげなく彼女の体を支えた。
ニーナは焦り、すぐに身を離そうとする。
「だ、大丈夫? ごめんなさい、無理をしないで……っ」
心臓を貫かれてから、五日後の昼下がりだった。
あの直後、ベルクマン侯爵は捕らえられ、現在はネーベル王国の牢獄に収監されている。レオンの体調が戻り次第、共にレーゲン王国へ連れ帰り、厳しい罰を受ける予定だ。
ベルクマン侯爵が職を解かれるのは確実で、アメリアや彼の妻もまた、辺境へ移ることになるだろうと聞いていた。
レオンの胸には縦に剣の傷跡が残っているものの、ニーナの魔力を注がれ、彼の心臓は今も鼓動を刻んでいる。
人の命を救うには、かなり莫大な魔力を必要とするそうで、天候にまで影響を及ぼしていたニーナの力は、目を覚ますと、ほぼ失われていた。
今は花を咲かせるくらいしかできず、ザシャは、体力が戻ればある程度力も戻るだろうけれど、以前同様に戻るかはわからない、と話している。
成人の儀で安定させるべき力が失われた状態だから、下手に魔力の暴走も起こらないと思うよ、と言われ、ニーナはちょっぴり嬉しく感じていた。
やはり自分の感情で天気まで変えてしまうのは、他人様に迷惑をかけ過ぎだと思うのだ。
力は少し弱いくらいでちょうどいい。
そんな会話をしていた時に、ザシャが思いつきでレオンにもニーナの魔法を見せてあげなよ、と勧め、それ以降、彼は折に触れニーナの魔法を見たがるようになった。
キスでしか魔法をかけられない様を、どうも気に入っているらしい。
ニーナを軽く抱き留めたレオンは苦笑し、腕に力を込めて彼女を抱き寄せた。
「もう大丈夫だと、何度も言っただろう? 君を支えるくらいできるよ」
「でも、血が沢山流れたから、まだふらふらしてるって、ザシャが……」
魔力では、流れた血は戻せない。ニーナの魔力は、レオンの生命力を維持したに過ぎず、しばらくは血を作る治癒が必要だと、毎日彼を見舞って治療しているザシャが話していた。
その中で、レオンは恰好つけたがるから、ニーナの前では無駄に平気な顔をする傾向にあり、その辺り、気をつけた方がいいよ、とザシャから助言を受けていたのだ。
レオンはザシャの名を聞いて、片眉を下げる。
「ザシャ殿は、余計な情報ばかり君に吹き込むな……」
「無理しちゃ、駄目よ。体に負担をかけないようにしなくちゃ」
眉を吊り上げて言い聞かせると、彼は困ったように吐息を零し、笑った。
「……愛する女性の前では、恰好をつけたいのが男の性なんだよ、ニーナ。君に情けないと思われるのは、嫌なんだ」
「……っ」
さらりと愛する女性と言われ、ニーナ頬を染める。
その表情に、彼は笑みを深めた。
「そういう顔をしてもらいたいから、俺は頑張るんだよ、ニーナ」
「え……っ、あ……」
顔を覗き込まれ、ニーナは瞳を大きくする。
レオンは艶やかに微笑みながら、ニーナの顎に指をかけ、顔を近づけた。
「愛してるよ、ニーナ。君は俺の命を救った、女神様だな……」
「そん……っ」
ニーナの返事は、途中で彼の唇に塞がれる。
柔らかく重ねられた唇は、甘く、愛おしむように彼女の唇を味わい、熱を帯びていった。
「ん……っんん」
息苦しくなり、薄く開いた唇の隙間から、レオンの舌が滑り込み、口づけは深くなる。
天気の良い昼下がり、二人きりの散策とはいえ、庭園の片隅でキスをするのは、抵抗があった。
いつ誰が通りかかるかもわからない。
ニーナは早々に切り上げたくて、唇を離そうとしたが、レオンはすかさず後頭部に手を回し、ニーナの口内を味わいつくそうとした。
「ん――……っ」
喉で抵抗の声を上げたが、彼は楽しそうに同じく喉で笑い、続行する。
「……仲睦まじいね……」
ニーナの頭が真っ白になる直前、後方から呆れたような声がした。
ニーナはびくっと肩を跳ね上げ、レオンは惜しそうに唇を離す。
「あ、ザ、ザシャ……っ」
乳白色の貫頭衣に身を包んだザシャが、呆れた顔で歩み寄ってきていた。
顔を真っ赤にするニーナを見てから、ザシャはレオンに目を据える。
「……君って、結構手が早いんだね……?」
レーゲン王国でのレオンの振る舞いを知らないザシャは、意外そうに言う。
レオンはニーナを抱き寄せ、平然と応じた。
「……押しは強い方だと、申し上げたはずだが」
兄妹の契りの儀式こそまだだが、既に戸籍の上ではニーナの兄となるザシャに、レオンは以前より丁寧な態度を取るようになっている。
「ふうん……」
「彼は昔から、言葉よりも態度で示す派なんだよね」
上空から飄々とした声が聞こえ、三人は顔を上げた。
漆黒のローブに身を包んだギードが、中空に浮かんで、にやにやとニーナたちを見下ろしていた。
銀糸の髪に、青い瞳を持つ彼の顔を見て、ニーナはレオンの腕から身を乗り出す。
レオンが心臓を刺されて以来だ。
レオンを助けた時から、ニーナはずっと彼に尋ねたいと思っていたことがあった。
「あの、ギードさん……。あの……っ」
ニーナは言い淀む。確認したいのはただ一つなのだが、それを口にして違っていたら、赤っ恥だ。
ギードは宙に浮いたまま、艶やかな髪を揺らし、小首を傾げた。
「なんだい、僕の可愛いお姫様? 聞きたいことがあるなら、今聞いた方がいいよ。僕らにはもう、そんなに時間がないからね」
「……」
時間がない、という言葉に、ニーナは不意に寂しさを覚える。その理由を聞きたかったが、それよりも先に、一番聞きたい質問をした。
「……ギードさんは、その……私の、お父様……?」
「は?」
レオンが素で声を漏らし、ザシャは穏やかな眼差しをニーナに向ける。
レオンは眉間に皺を刻んで、ニーナを自分に向き直らせた。
「ニーナ、何を言ってるんだ? 彼がテオ様のはずはない。あれは自称未来見兼時の神の、実にいけ好かない男だ。今世で君を幸福にできないなら、二度と俺たちに転生の機会は与えず、そして君の死後は自分が貰い受けると言っていた奴なんだぞ……っ」
「――……時の神?」
ニーナは目を瞬き、初めて聞いた言葉を繰り返す。答えたのは、ギード自身だ。
「そうだよ。僕は時の神・ギード。何度も何度も、君たちを転生させ続けたのは、僕の仕業だ。――どうしても、納得がいかなかったから」
ザシャが小さな声で「神……」と呟き、ギードを見つめる。
ギードは胸の前で腕を組み、瞳を細めた。
「君たちはいつの時代も相思相愛だ。なのに運命は、決して君たちを結びつけようとはしなかった」
ニーナは唖然と、突拍子もない話を始める彼に耳を傾ける。
「初めに僕が人として地上に生まれたのは、唯の気まぐれだった。神様の仕事って、ただ生きてるだけだから、割と飽きる。だから、暇つぶしのつもりだった。でもニーナ、君のお母さんに出会って、僕は恋をしてしまったんだ。フィーネは実に天真爛漫で、美しく、そして聡明な少女でね。彼女に命の全てを捧げてしまえると思えるくらいに、愛してしまった」
フィーネは、母の名前だ。そしてよく考えると、転生を繰り返す中で、家名や身分は違ったけれど、ニーナの両親の名前もまた、同じままだった。それはレオンの両親も同様に。
「そうしてニーナが生まれ、娘も幸福になるかに思えた。けれど運命は、君たちを結ばせようとせず、命を奪った」
ギードはニーナの足下にちんまりと座っていたシュネーに目を向ける。彼は甘く彼女に微笑み、手を伸ばす。シュネーは、いつものように澄ました顔はせず、素直に彼の元に歩み寄った。
「僕は時に関わるもの――輪廻転生を操れるけど、運命にまでは手出しできない。運命というのは、いくつも重なり合って存在し、可能性の高いものを見ることはできても、流動的で、どんな神もかかわることのできない領域でね。また、一度定まった運命は、時を巻き戻しても変わらない。だから僕は、何度も君たちを転生させた。なんとしても――幸福にしたかったから」
「……」
ニーナは薄く唇を開き、細く息を吸う。信じられない話だ。
信じられないけれど、ニーナとレオンは何度も転生を繰り返し、変わらぬ運命を嘆いていた。
ギードはシュネーを抱き上げ、レオンに視線を向ける。
「いつもいつも、上手くいかなくて、本当に業腹だったよ。なぜか君たちが前世を思い出すのは毎回、婚約直後だったし、必ず君らの運命は結ばれぬように動く。運命の理不尽さにも、そこの青二才にも、腹が立って仕方なかった。僕の娘を預けるわけにはいかないのじゃないかと、今世で見切りをつけようと思ったくらいだ」
青二才と呼ばれたレオンは、ギードの“僕の娘”という言葉に目を丸くし、しばらくして、気まずそうに視線を逸らす。
ギードはふんと鼻を鳴らし、そしてシュネーを自らの顔の位置まで抱き上げて、今度は優しく笑った。
「でも、今世は僕もちょっと失敗しちゃってさ。崖から馬車が落ちて、夫婦そろって死んでしまう、という時に、間違って神の力を使ってしまったんだよね。フィーネが死んでしまうのが受け入れられなくて、自分の力を注ぎ、命を与えてしまった。咄嗟の出来事だったから、猫という小さな命に変化させてしまったんだよ」
そう言って、シュネーにキスをする。ニーナは目を見開いた。
「――え? シュネー……?」
ギードはにこっとニーナを見返す。
「うん。予定にない命を地上に残してしまったから、罰を受けて、しばらく天界の牢獄に閉じ込められてしまった。シュネーには僕の時を操る力が宿ってしまっていて、彼女、時々その力を使うものだから、冷や冷やしたよ」
ニーナは、一度目の人生を思い出した時の、シュネーの仕草を脳裏に蘇らせた。
彼女がとん、と頭を蹴って、すっかり忘れていた記憶を蘇らせたのだ。
あれは、シュネーが力を使ったからだったのだろう。
ギードはシュネーを抱きなおし、ちょっとおかしそうに笑う。
「だけど、神の力を持つ猫など地上に置いておけないと、迎えに行くよう命じられて、ラッキーでもあったんだ。神の姿に戻ってしまった僕は、本来ならそのまま地上に降りてはならないと天界の理に定められている。けれどシュネーを迎えに行くという理由で、許しが出た」
シュネーはすり、とギードの頬に身を擦りつけた。
「当初は、まじめにフィーネだけを連れてこの世を去ろうかと思っていたのだけれど、彼女がニーナの運命を見届けるまでは一緒にいかない、と言って聞かなくてね。自分が母だとはニーナに秘密で見守りたいのだと言われて、それなら僕も、君たちの運命を見届けようと思ったんだよ」
とうとうと語られた内容は、にわかに受け入れられず、ニーナはとりあえず、目の前の疑問を口にする。
「……顔や声が違うのは、どうして?」
ギードはあっさり応じる。
「僕ら神が地上で生きるには、人の器を被るというのが原則だからだよ。神のまま地上で生活して、うっかり後光なんか放っちゃったら、大変だしね」
「……お父様なの?」
彼はニーナをまっすぐに見つめ、懐かしい笑みを浮かべた。
「そうだよ。僕の可愛いお姫様」
「……」
慈しみ深い眼差しを注がれ、ニーナは乱れる胸を押さえる。
「……やはり、テオ様だったのか。僕の性格もご承知のようだったから、もしかして……と思っていたのですが」
ザシャがぽそっと呟くと、ギードはにやっと笑った。
「柄にもなく恋敵役を買って出て、レオンにお仕置きしようとしてくれて、僕は気分がよかったよ。ありがとう、ザシャ」
ザシャは苦笑し、兄そのものの、優しい眼差しをニーナに向けた。
「確かに、僕の柄ではなかったですが……。ニーナは沢山、辛い目に遭ったようだったので、つい」
ニーナにはよくわからない会話だったが、ギードの腕に大人しく収まるシュネーはレオンを見やり、気遣うような声で鳴く。
「……貴方もよく頑張っていたわよ、だってさ」
ザシャが揶揄う調子で通訳し、レオンは情けなさそうに嘆息した。
ニーナは信じられない気持ちでシュネーを見つめ、呟く。
「……シュネーが、お母様だったなんて……」
ギードは穏やかな声で、応じた。
「そうだよ。僕たちは結ばれた。君にも、同じ幸福を知って欲しかった。愛する者と家族になる、これ以上ない愛しい日々を、経験して欲しかったんだよ」
「……」
ニーナの瞳に涙が浮かび上がり、滴が頬を伝い落ちた。
「私……今世は、いつの人生よりもずっと、寂しかった……。お父様もお母様も、とても早くにお亡くなりになって――毎日毎日、お会いしたかった……っ」
ギードはいつかの父が浮かべたのと変わらぬ、温かな笑みを称える。
「そうだね。けれど寂しかった分、きっとこれからもっと幸せになれるよ。そこにいる青二才は、君が思うよりずっと、それはもう恐ろしいくらいに、君を愛してるからね」
「――……」
ニーナはレオンを振り返る。レオンは微妙な表情でギードを見やってから、ニーナに笑いかけた。
「……君を幸せにする気概は、誰よりも持ち合わせているつもりだよ、ニーナ」
『――愛してるの?』
今世でやっと確認できた、レオンの気持ち。
レオンに前世の記憶があると知らず、人生を繰り返すごとに、彼に愛されている自信はなくなっていった。
今世では、もう愛してくれていないのだとすら思っていた。
けれど彼もまた、父と同じく、なんとかニーナを救おうと尽力してくれていたのだ。
気づかないまま、溢れ返るほどの愛情に包み込まれて生きていたニーナは、涙を零し、そして晴れやかに笑った。
「今世こそは、家族になって、幸せになろうね、レオン。誰よりも、貴方を愛しているわ」
レオンは微かに瞳を潤ませ、ニーナの頬を両手で包み込んだ。
「――ああ。たとえ何度この命を繰り返そうと、君一人だけを愛すると誓う。そして今世こそは、必ず君を幸福にするよ、ニーナ」
二人は幸福に微笑み合い、優しいキスを交わした。
「……じゃあ、僕達はいくよ。また会おう。僕の可愛い子供たち」
振り返ると、ギードは人懐っこい笑みを浮かべて、シュネーと共に姿を消した。
ニーナとレオンが婚姻を結び、レーゲン王国とネーベル王国の国交が開くのは、この二年後。
レーゲン王国民とネーベル王国民が互いに差別のない交流を持つのは、更に時間を要したが、ニーナとレオンは青い髪の王子と姫に恵まれ、愛くるしい彼らは、両国の関係改善に一役も二役も買う。
それからずっと、レーゲン王国の王宮には、王太子夫妻と子供たちの、朗らかな笑い声が響き渡り続けたのだった。
拙作を最後までお読みくださり、ありがとうございました!
こちらで完結とさせていただきます。
ブックマーク、評価をして応援くださった皆様、本当にありがとうございます!
本作品がフェアリーキス様より書籍化される予定です。
作品タイトルは変わらず、ペンネームのみ鬼頭香月となります。
発売は5月27日頃で、イラストは深山キリ先生です。
詳細は活動報告にまた書いていこうと思います。
本作をお読みくださり、本当にありがとうございます!
書籍版には新たなエピソードを加え、SSなども書く予定ですので、こちらもよろしければぜひお手に取って頂けますと幸いです。




