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澄み渡る空の下、凛とした意志を宿す彼女の瞳は、前方に据えられていた。
アメリアとレオンに背を向け、自らの部屋に向かおうとしていたニーナは、庭園を横切る途中、喧騒にも似たざわめきに気づく。
王宮の西塔から花の塔までは、いくつかの外回廊を突っ切って向かうのだが、その行く手に集団があった。
外回廊を渡る集団の中心にいる男性の姿に、ニーナは立ちどまる。
どこかで見た覚えのある、濃い緑色のジュストコールに、派手な金色のベストを着た、恰幅のよい男性だ。
彼はクラヴァットを緩めながら、大声で喚いていた。
「全く、なんだあの国王は……っ。妹を誑かした男と似た顔をしおって、気分の悪い……! レオン殿下がお出ででなければ、このような忌まわしい国、決して踏み入らなかったものを……!」
ニーナは何も言わず、その壮年の男性を眺める。
彼は、連れて来たと思しき護衛の兵、数名と一緒に移動していた。しかしその先導に立つのは、ネーベル王国の人間だ。
淡いクリーム色の髪をしたその先導の青年は、自国の王を罵る声を聞いても、穏やかな表情で歩いている。
この国の人は、感情を顔に出さない人が多かった。
先導をしていた青年は、気配を感じたのか、庭園に視線を向ける。ニーナに気づくと、彼は立ちどまり、彼女に向かってひれ伏した。
ニーナがこの国に来てから、どうにも慣れない儀礼だ。
この国では、『神の愛し子』は神の血を宿しているとも言われ、神の一人として丁重に扱うのである。
一般市民の中に生まれた場合は、ここまでではないらしいのだが、王族の中に生まれると、ほぼ完全に神の子の扱いで、皆ニーナを見ると膝を折り、額づいてしまった。
ニーナはしなくてもいい、と言うのだが、ザシャやクレーメンスは、それがこの国の文化だからと気にせず、やめさせてくれない。
「なんだ? 何をしておる」
急に先導が膝を折り、彼は怪訝にこちらに目を向けた。そして回廊の外、庭園に佇むニーナに気づくと、眉を上げる。
「ああ、お前。こんなところに逃げ込んでおったのか。隣国の王族に紛れ込むとは、どんな魔術を使った」
以前に輪をかけて、彼の言動は棘を持っていた。
魔物だと叫び、殺すよう命じたのだから、もう気持ちを隠す必要はないといったところか。
「叔父様」
ニーナが呟くと、彼は回廊を外れ、こちらにどかどかと足音を鳴らして向かってきた。
その足音を聞くだけで、レオンやアメリアへ怒りを感じていたニーナの感情は崩れ、全身が冷えていく。
長く受け続けた折檻は、今も尚、彼女の心の奥深くに恐怖を残していた。
冷えた風が吹き、空に雲が広がり始める。
ベルクマン侯爵は蔑む眼差しを注ぎ、皮肉げに笑った。
「そうそう。ネーベル国の王に聞いたぞ。上手くこの国の王太子に取り入り、妻の座に収まろうとしているそうではないか! 魔性の女とはまさにこれだな。幼少期よりぞっとするような外見をしておったが、レオン殿下に飽き足らず、他国の王子まで誑し込むとは!」
「――なんて、無礼な……」
背後に控えていたリーザが、愕然と呟き、額づいていた青年が顔を上げる。
「何か言ったか。私はこの娘の育ての親だぞ!」
ベルクマン侯爵は耳ざとくリーザの呟きを聞き、恫喝した。いきなり大声を上げられたリーザは、身をすくめる。
彼の怒鳴り声を聞き慣れていたニーナは、リーザに下がるよう手で示し、ベルクマン侯爵に頭を下げた。
「お久しぶりです、叔父様。先だっては騒動を起こし、ご迷惑をおかけいたしました」
「誠だ! この私に恥をかかせ、どう償うつもりか」
「……」
ニーナは顔を上げ、返答を迷う。ベルクマン侯爵は獲物を見つけた獰猛な獣のように、瞳をギラつかせた。
「お前をレーゲン王国へ連れ帰り、裁判へかけてやってもいいのだぞ。牢へ閉じ込め、拷問にかけてやろう。爪を一枚一枚剥がし、焼いた鉄の棒でその胸を潰してやろうか」
残虐な内容に、ニーナは青ざめる。
ベルクマン侯爵は愉悦の笑みを浮かべた。
「それが嫌ならば、レオン殿下との婚約を辞退せよ」
国へ帰って裁判にかけられれば、恐らくニーナは身に覚えのない罪を着せられ、投獄または死刑となるだろう。
だがレオンとの婚約は一応、議会の承認を受け、国として認められたものだ。
ニーナは首を傾げる。
「……議会で、私との婚約は白紙に戻されていないのですか……?」
そういえば、レオンは図書室で、まだニーナとの結婚を考えているような物言いだった。
すっかり自分は婚約者として不適格とされているだろうと思っていたが、ニーナはまだ、レオンの正式な婚約者なのだろうか。
尋ねられたベルクマン侯爵は、一瞬虚を突かれた表情になり、すぐに眉を顰めた。
「お前が呪術だかなんだかで、レオン殿下を操っておるのだろう! さっさと呪いを解いて、己に相応しい立ち位置に戻るがいい……っ」
「……レオン様を、操った記憶はありません」
ニーナは事実を言ったまでだったが、そのまっすぐな瞳を見たベルクマン侯爵は、カッと目を見開き、いきなり彼女の頬を打った。
「……ッ」
「いやあ!」
リーザが悲鳴を上げ、ニーナは頬を打たれた勢いでたたらを踏んだ。
「どいつもこいつも、この私を馬鹿にした目で見おって……っ。お前など家に上げなければ、アメリアが王太子の妻となり、全て上手くいったのだぞ……っ。何もかも、お前が原因だ、魔物め! レーゲン王国へ戻ってみろ、これまでなど比ではない痛みを与えて、くびり殺してやる……!」
強烈な痛みに体が震えかけ、ニーナはきゅっと唇を噛む。
みるみる空が暗くなり、自分の感情が天候に影響を与えているのを感じた。
今にも雨が降りそうな、湿気た空気が鼻先を掠める。
ニーナは頬を押さえ、瞼を強く閉じた。
――ダメ。このままじゃ、何も変わらない。
いつもなら、泣きながらベルクマン侯爵に謝罪し、それでも許されず、大人しく打たれ続けた。ベルクマン侯爵が満足するまで、人形のように耐えた。
しかし、今のニーナは違う。
だってニーナは、何も悪くない。
大好きな父の血を引いて、青い髪に生まれただけだ。
魔力だって悪ではないと、この地に来て教えて貰った。
ニーナは魔物ではない。妖精の血を宿しているだけの、普通の人間だ。
頬を押さえる手をぎゅっと拳に変え、ニーナは顔を上げる。
憤るベルクマン侯爵を見返し、震える唇で、それでも凛と言い返した。
「思い通りにいかないからと、子供じみた八つ当たりをなさるのは、おやめください。全てはレオン殿下が望んだことでしょう。思うところがおありなら、直接殿下に仰ればいいのです。殿下は聡明な方。望めば、聞いてくださいましょう」
「――青二才に話など通じぬわ! 異国の血を受け入れようなどと、何が先見の明か。お前の容貌に目が眩んだだけの、ただの盲動だというのに……っ」
ニーナがレーゲン王国にいた時、確かに周囲は、レオンには先見の明があると称賛していた。
異国の血を王族が先んじて受け入れることにより、凝り固まった民の古い意識を変えようとするとは、先進的だと。
しかしそれは以前から言われていたことで、なぜベルクマン侯爵がここまで憤っているのか、ニーナにはわからなかった。
「……なぜそう、お怒りになっているのです。私を婚約者から降ろしたければ、議会にそう申し立てればよいではないですか。宴では混乱も招きました。叔父様でしたら、多くの賛同を得られるのではないのですか」
内務大臣という要職に就き、最大派閥を率いる彼であれば、ニーナを引きずり下ろすなど容易い。
事実としてそう言うと、彼は顔を赤らめ、目に見えて激高した。
がっとニーナの胸倉を掴み、目を血走らせて言う。
「……お前のせいで……私は臆病者と謗りを受けるようになった……! 私の派閥の者すらも、殿下こそが正しいと妄信する有様……っ。お前を婚約者から降ろし、武力でもって隣国を統治することこそが、最善だというのに……!」
ニーナはわけがわからず、眉を顰めた。
その時、回廊の方から穏やかな声が聞こえた。
「……駄目だよ。お客様だからね……」
ザシャの声だった。
見ると、ザシャはベルクマン侯爵の一団を先導していた青年の傍らに立ち、彼の手に触れている。
ニーナがベルクマン侯爵と話している間に立ち上がったらしい青年の手から、ぱちっと小さな稲光が弾けた。
ベルクマン侯爵はニーナの胸倉から手を離し、忌まわしそうに眉を顰める。
「何用か。ネーベル王国の王太子殿下をお呼びたてした記憶はありませぬが」
ザシャは微笑みを浮かべた。
「ええ。呼ばれてはおりませんが、あまりに不遜な行いに、私共の臣下が貴方を攻撃しそうでしたので、参った次第です……」
「――なんだと?」
眉を吊り上げるベルクマン侯爵に一切何も感じていない表情で、ザシャは小首を傾げる。
「お気をつけ頂きたい……。ニーナは我が国においては、神の血を宿す『神の愛し子』。我らは温厚で、滅多に怒りを見せませんが、神の子は何より大切にする種族なのです……。――目に余れば、彼でなくとも、私が殺しますよ」
ニーナは身を強張らせたが、あまりに優しい声音で言われたためか、ベルクマン侯爵は数秒、彼の言葉を理解できないようだった。
しかしザシャの隣の青年が、明らかな敵意を持って自分を睨んでいると気づき、目を見開く。
「――なっ」
ザシャはベルクマン侯爵を無視し、リーザに目を向ける。
「ニーナを部屋に送りなさい、リーザ。頬を冷やすのを忘れないようにね……」
「ザシャ……」
このまま立ち去ってしまって大丈夫だろうか、と不安に感じて名を呼ぶと、彼は朗らかにニーナを促した。
「ここはいいから、部屋に戻りなさい、ニーナ」
「でも」
「明後日には誕生日だろう? 成人の儀式もあるから、顔を腫らさないようにしなくてはね……。腫れた顔で出席などしたら、『神の愛し子』を見に来た皆が、何かあったのかと心配する」
ザシャによれば、成人の儀は、王宮に勤める者が全員参加する。
ニーナが『神の愛し子』であることから、宗教的意味合いの強い儀式となる予定だった。
妹を窘める兄が如く諭され、ニーナは躊躇うのも無礼にあたるかと、頷く。
「……はい」
下がろうとしたニーナに、ベルクマン侯爵は声を荒げた。
「隣国の者にまで呪いをかけ、神の子などと謀っているのか、魔物め……!」
太い腕が伸び、ニーナの長い髪を掴もうとする。
「ひ……っ」
リーザが震えあがって悲鳴を漏らし、しかしニーナはさっと彼の手を避けた。
繰り返される暴言の数々に、彼女は鋭い視線を向け、冷えた声を放つ。
「――私に、触らないで」
ニーナは魔性の女でも、魔物でもない。
誰も謀っておらず、身に覚えのない罵りは、これ以上甘んじて聞きたくなかった。
彼の前では怯え、泣くしかなかった人形が、初めて尖った眼差しで感情を向ける。
彼女から反抗された経験がなかったベルクマン侯爵は、驚き、動きをとめた。
ニーナはこくりと唾を呑み込む。
『怒りたい時は、怒っていいんだよ』
本当は、まだ怖かった。
けれど、ギードの言葉をお守りのように胸で繰り返し、彼女は己を奮い立たせる。
「暴力で私を従わせようとするのは、もうおやめください、叔父様。私は貴方の玩具ではない」
「何を、小癪な……っ。この私に養われて育ったのだろうが! 忘れたか、恩知らずめ!」
頬を赤らめ、激怒する彼に、ニーナは頭を下げた。
「恩情には感謝しております。今まで育ててくださり、ありがとうございました」
「頭を下げるだけか! 今までお前に使った金を、全て返すくらいせぬか!」
「……それは私共が後ほどご対応致しましょう。それでご満足ですか?」
ザシャが見苦しいと言いたげに、苦笑交じりで受けると、ベルクマン侯爵は舌打ちする。
「いらぬわ! 感謝していると言うならば、永劫この国から出て来るでない!」
これ以上は分が悪いと判じたのだろう。ベルクマン侯爵は、足音高く廊下へ向かい、ニーナから離れて行った。
ザシャが先導の青年に目配せして、部屋への案内を促し、ニーナはほっと息を吐く。
身を竦め、ずっと黙り込んでいたリーザが、震える声で尋ねた。
「……姫様は、あのような恐ろしい方の元で、お育ちになったのですか……?」
今にも泣きそうな顔の侍女に、ニーナはふわっと微笑んだ。
「痛みや恐怖を知れば、他者に同じ真似をしようとは、決して思わないわ。いい勉強になったと思う」
多くを語らないニーナに、リーザは息を詰め、泣くのを堪えて言う。
「つ……次は……っ、次があって欲しくはありませんが……っ、もしも同じことが起きたら、次こそは必ず、私が姫様をお守り致します……っ」
穏やかな世界で育ったのだろう彼女は、衝撃の数々に何もできなかった己を恥じるように、ニーナをぎゅっと抱きしめた。
甘い香りに包まれ、ニーナは眉尻を下げて笑う。
「ありがとう、リーザ。でも、大丈夫。……私は、きっと弱くなんてないから」
――そう。強くなるのだ。
委縮し、縮こまる日々はこれで終いだ。
ニーナは息を吸い、空を見上げる。
空を覆っていた暗く淀んだ雲が、風に流れて行こうとしていた。




