14 予想外の出来事Ⅱ
そこは正に、人の渦、という表現がぴったりだった。
ダンスミュージックが暴れるように鳴り響く箱の中、フロアの中心部は人の塊が蠢いている。不規則で統一感がなく、予測不可能な動きをみせるその塊は、控えめに言っても気持ちが悪かった。
遠目で見るだけで充分だ。あの中に入ったら出てこれないだろう。
「設楽は……あそこか」
任務対象の設楽がいるのは、爆音の震源地、DJが狂ったように体を揺らすその後ろ。ガラス窓で区切られたVIP席。茜はそのすぐ近くにいる。
茜はどうやってあのVIP席へ潜り込んだのだろう。誰か男をタラし込んだのか?いやそんな、男好きの姉でもあるまいし。
――ダメだ。直ぐに思考が茜に寄ってしまう。
原因と考えて思い浮かぶのは、やはり授業終わりのあの光景。
隣に男がいる茜だ。
青嶋中等部の頃からの付き合いだ。茜の事は全てと言っていいほど把握している。だから――
「知らない茜を見るのは怖いんだよな……」
辺りが騒がしいのをいいことに、バーカウンターで一人呟く。
このままだと、メンタル的に任務に支障が出そうだ。落ち着く為にも、赴くままに思考を委ねてみようか。
未来を予想している時。そして、茜について考えている時。そのどちらかの状況下にある時、海斗は恐るべき集中力を発揮する。
それはまるで、思考の沼に沈んでいるかのように。
「ああっ、失礼!」
だから隣で水を注文した男が何かにつまずき、コップの水が宙を舞っても――視界の隅で起きたことでも、無意識的に体が動いて勝手にかわしている。
そして動いた後で、自分が今の今までいた所に水がぶちまけまれているのを見て初めて、現実世界で起きたことに気付く。
「君、濡れてない?」
そう覗き込んで来たのは、どこか人工的に整った顔の男。
「いや、大丈夫です。お構いなく」
袖が少し濡れていたが、そんなことには構っていられない。この場を離れるわけにはいかないからだ。
「嘘だ。袖が濡れてる。見せて」
しかし男は困ったような表情を作って笑い、ジャケットのポケットからハンカチを取り出した。
団長みたいな笑い方をする人だ。海斗は直感的にそう思った。仮面のような上塗りの表情。作られた笑顔……
「……なッ?!」
まじまじと男の横顔を見ていた所為で、首元にスルリと伸ばされた腕に一瞬気付けなかった。
咄嗟に振り払っていた。
気配はなかった。
しかし何かを感じた。殺意とは違う何か。
「あんた、何者だ?」
すると男は手馴れた手つきで懐から名刺を出す。
『club Moon-Night 椿』――その名前は見覚えがあった。蒼井が潜入していたホストクラブと同じ、元蒼井の同僚というわけだ。
「ホスト?」
そう、と薄っぺらい笑みで頷く男の、その人工的な雰囲気に合点がいく。そうか、整形か。
「仕事中は女性を相手に。休みはこうして、気になった子に声をかけているんだ……それにしても君、すごく身軽なんだね。考え事してるみたいだったから、どう話しかけようか迷っていたんだけど。下手なナンパになってしまった」
どうぞ、と濡れていない席に誘われる。ごく自然なそのエスコートに海斗はされるがまま座り、椿が隣に腰掛ける。
……ん?ナンパだって?
「俺に、何か用でしたか?」
確かめるために尋ねると、椿はサラリとそれを口にした。
「とても好みの子がそこに居たから、話したくて」
いや……待て待て。深矢がナンパされるのは想定済みだ。あいつはどこに行っても人目をひく。モテる。あってほしくはないが茜もそう。だが自分が遭遇するとは。しかも――
「君は考え事が好きみたいだね」
何か意味のこもった視線が海斗に向けられる――本当か。
いや、本当にナンパ目的なのか?
目の前の男はホストだ。普段女性を虜にする生業の男だ。加えて、蒼井が潜入していたホストクラブ。訓練を受けた工作員の卵が消えたことに関わっているかもしれない。つまり、このホストは危険人物……?
「そうか、好みの子に話しかけるのには用事が必要だね。だから水を引っ掛けようと思ったのだけれど、それは失敗したから……さて困った。どうしたら君と話していられるかな?」
……情報を引き出す気か。
不幸なのか幸運なのか、場内の耳をつんざく爆音と不規則に蠢く人の塊のお陰で、照明の影に隠れるように佇む二人を注視する奴はいない。
誰も見ていない。つまり、何でもできる。
目の前のバーカウンターにある物で毒を調合して飲ませる事もできるし、瓶ビールのキャップだけで殺す事もできる。
でも、殺しは選択しない。目の前にいるのは、蒼井のことを知る貴重な情報源だ。毒を飲ませるのは情報を吐かせてから。
「……何で、俺なんすか」
しかし誰も見ていない状況下で、何でもできるのは椿も同じだ。
「考え事をしている姿が儚げでね。何か欲しいものがあるように思えたんだ。それも、手の届かないような」
その途端、茜の姿が脳裏をよぎる。確かに椿に水をかけられる前、茜のことを考えていた――くそ、何で分かるんだ?
このホストは只者じゃない。海斗は直感した。メンタリストかその類のプロだ絶対――などと変な方向に思考が走る海斗には、椿のセリフがただの口説き文句だなど考える余裕もなかった。
「切なそうな瞳をしていたね。それを見たら不思議と手が伸びていたよ」
穏やかな表情を浮かべた椿が目を細める。愛おしそうに。獲物を定めるように。海斗はその顔の裏にただならぬ恐怖を感じた。
「怯えているね。安心していい、悪いことはしないから」
嘘はつけない。見透かされている。この男は危険だ。でも、逃げてたまるか――決心したように、海斗は椿のひんやりとした手に自分のを重ねた。
同情を誘うように俯く。嘘は少しの真実を混ぜるのがコツだ。
「……どうしても、手に入らないものがあるんだ。可能性も無いのに、諦めきれない。……そんなこと、あんたには無いんだろうけど」
そして上目遣いに見上げる。こんな色仕掛けをするとは思ってなかった。あの姉がいてよかった、とこの時ばかりは思う。一番の手本だ。
……嘘に対して真実の割合が多い気がするのは、きっと気のせい。
「そうかもしれない。でも、だからこそ君を選んだんだよ。俺なら君の心の穴を埋めてあげられる」
苦しいんだろう?と耳元で囁かれ、思考が麻痺する。必死に脳を回転させても、なんだか空回りしている気分だ。うまくまとまらない。
なんだこいつフェロモン体質か、それとも媚薬を声に含める技術でも持ってるのか――
「手に入らないものは一旦忘れよう。可能性の無いものに手を伸ばすなんて不毛すぎるから。束の間だけでも、俺が代わりになってあげるよ」
椿の骨ばった指が、海斗の輪郭を捉える。
このまま預けてしまおうか。どうせ茜は手に入らない――あれ俺今何思った?違う、駆け引きだこれは――
空回りしっぱなしの脳が悲鳴を上げていた。
「……ッ!そ、そうだ!ソラ!」
辛うじてその名前を呟き、椿の手から逃げる。異常終了直前の脳が下したのは、強引にでも話題を変えることだった。
「ソラって源氏名のホスト、知ってるだろッ」
椿の手が止まる。怪訝なその表情は、自分のペースを乱されたからか、都合が悪いからか。
「……ソラ……あぁ、あいつか」
ソラは、蒼井が設楽のホストクラブに潜入していた際の源氏名だ。
「ソラ……覚えているよ。三ヶ月もしないで辞めてしまったけどね。ビリヤードがプロ級に上手い子だろう?」
蒼井がビリヤードに長けていたのかは知らないが、三ヶ月以内で辞めた、というのは事前に知らされた情報と合致している。
「そう、そいつについて知りたいんだ」
「へぇ、知り合いか何かかな?ちょうど年齢も君と同じくらいだね」
「いや、知り合いでは……ーーッ?!」
刹那、海斗は目を見張った。
椿の後ろを、黒コートの男が唐突に横切った。
壮年の男だ。この場にはどうも、そぐわない。
その雰囲気に、海斗の――工作員の勘が、危険を察知した。
――刑事だ。
「どうしたんだい?」
息を詰まらせたような海斗を、椿が覗き込む。突然現れた刑事を視線で追いながら、何でもないと首を振った。
「何かあった……」
「振り向くな!」
小声で怒鳴る。それから出来るだけ早口でまくしたてる。
「俺は探偵だ。ある依頼があってソラについて調べてる。今あんたの後ろには見つかると面倒な奴がいるから……」
そう言う間にも、刑事は一直線にフロア奥のVIP席へと向かっている。その延長線上には、何も知らずに笑い声を上げる任務対象。
設楽はこの辺りの情報屋だ。刑事と繋がりがあってもおかしくはない――が、今刑事に取られるのは都合が悪い。
阻止しなければ。そう思って立ち上がろうとしたら、腕を力強く掴まれた。
「隠れたいんだろう?ここに居ればいい」
「……離せ」
無理矢理振り払うこともできる。しかしこうも人が多いと注目されざるを得ない――それは避けたい。
「断るよ。君のピンチは助けたいし、俺は君と話がしたい」
「話すことなんて無い」
「それはどうだろう。俺はまだ、君の名前すら聞けていない」
そうこうしているうちに、刑事はVIP席の受付に刑事手帳を見せ、中に入る。
茜と深矢はどうしてる?――いや、茜を今刑事に近付けるのは得策じゃない。最近刑事に目を付けられているらしいから。
深矢だって、海斗の作戦のためには今いる場所から動かすわけにはいかない。
自分しかいないのだ。無事、作戦を完遂するためには。
設楽と刑事の距離が近付く。五メートル、三メートル……
「くっそ……ッ!」
どうしてこうも、予測にないことばかり起きる!
何か、何か手立ては――
その時。フラリと、刑事の後ろ姿がよろめいた。
『きゃッ!ごめんなさい!』
女がぶつかったのだ。女はドリンクを持っていて、刑事のスーツにぶちまけたらしい。誰か知らないが、ナイスタイミングだ。
『本当にごめんなさい!拭かなきゃ!』
シミのついたスーツに手を添えながら、女がチラリとこちらに――海斗に視線を向ける。
え。
海斗はその瞬間、呼吸の仕方を忘れた。
フフッと妖艶に笑い、海斗だけに向かってウインクする女。
見紛うはずがない。
……でも、なぜ?
世界中の男を陥とす仕草、同性でも見惚れるような美貌の持主。それは海斗の姉――冴島瑠奈だった。
瑠奈は刑事と腕を絡ませ、恰も慌てた風を装ってVIP席から遠ざかっていく。
そして刑事と共に退場する瑠奈は、唇の動きだけで海斗に伝言を残す。
『後でお返し、期待してるからね』
語尾にハートマークが付きそうな、お願いの形をした命令。
――……最悪だ。
「大丈夫か?気が遠くなっているみたいだけど……」
「……え、あぁ……」
予想外の衝撃に、椿に話しかけられても上の空だった。
どうして姉がこんなところに。その疑問が脳内を支配していた。
「それじゃあ……」
だから椿がここぞとばかりにニヤリと悪巧みしたのにも、気づくはずがなかった。
「今度、二人で出掛けようか」
なぜだ。なぜこうも、予想外のことが起きる?それもあの苦手な姉貴が出てくるなんて……
「……あぁ、」
「よかった、嬉しいよ」
椿がお淑やかに微笑んで、自分の名刺を海斗のポケットに滑り込ませる。
「……ん?」
そこで初めて、軽率な口約束をしたことに気付いた。
「……え、えっ?」
気付いた時にはもう遅い。椿はさり気なく海斗の頭を撫でた。
「さて、話の続きをしようか。探偵君」




