後宮御用達の薬師
「……ふぅ。危ないところだったわ」
私は首筋の血を拭いもせず、冷徹な支配者の瞳を真正面から見据えた。
「では、話しましょうか」
一ヶ月前、ここへ送られた私の姉・莉杏の名前があなたの公式な記録に存在しないのは、ある上級妃が管理権限を悪用したからに他ならない。
彼女は莉杏を「妃」という正規のデータから、ただの「雑用係」という目立たない非正規データに書き換えて隠蔽した。
そうすることで、誰の目にも触れさせず、離宮の奥底で彼女を自分の「生きた玩具」として監禁することに成功する。
けれど、真に恐ろしいのはその裏にある、外部との繋がりだ。
その上級妃は、私の姉を陥れた商家の長男と密通している。
あの男は自分を振った莉杏への復讐として、彼女を自分の愛人である妃に「供物」として差し出した。そして、その対価として後宮の機密情報や国の利権を盗み出そうとしている。
私の言葉が響き渡る中、謁見の間は氷を投げ込んだような静寂に包まれた。
皇帝の顔から一切の表情が消え、ただ凍てつくような殺気が立ち上る。
「……余の庭で、余のふりをして、余の財と女を弄ぶ役者がいるというのか」
皇帝は、ゆっくりと、けれど確かな重みを持って剣を鞘に収めた。
そして、その鋭い視線が私とセラフィマ、そして背後に控える凍りついた女官たちを射抜いた。
「面白い。もしそれが事実なら、その上級妃と商家の男には、罰を与えなければならんな」
私は首元に残るわずかな痛みを無視して、皇帝を見上げた。
皇帝は剣を鞘に収めると、側近たちに背を向けたまま、氷のように冷たい声で命じる。
「この者たちを、今日から後宮へ迎え入れよ。身分はそれぞれ相応のものを与える。その薬師の娘には、各宮を自由に回診し、病の芽を摘み取る権利を。そしてもう一人の官女には、帳簿の隅々までを精査し、淀みを洗い出す役目を与えよう。」
こうして、私たちは正規のルートで後宮の内部へ潜り込む権利を手に入れた。
セラフィマは後宮御用達の薬師。
莉杏姉様が事前に「妹も薬の知識がある」と話していたらしい。
彼女は「美貌の薬師」として、お姉様が隠されているかもしれない各宮を自由に回診できる立場を確保した。
そして私は、実務を担当する官女として潜入する。
後宮の台帳、日誌、そして女官たちの噂話……。
あらゆることを調査し、情報の断片を繋ぎ合わせる「情報の司令塔」として動くことになった。
「ただし。もしそれがただの虚言であったなら、その時は今度こそ、その首を落とすと誓おう。」
皇帝の冷徹な言葉を背中に受けながら、私たちは一歩、後宮の奥へと足を踏み入れる。
案内された官女の詰め所は、驚くほど静かだった。
「セラフィマ、怯えるのはもう終わり。これからは私たちのターンよ」




