茶色の木の実
私たちは二手に分かれ、それぞれの戦場へと向かう。
私は官女としての「仕事」を装い、詰め所の奥にある記録保管庫へと潜り込んだ。
埃っぽい棚には、後宮のあらゆるリソース管理を記した帳簿が並んでいる。
「さて、仕事仕事」
私は指先を走らせ、ここ一ヶ月の「配膳記録」と「居住者リスト」を照らし合わせた。
上級妃のわがままで書き換えられたデータなら、必ずどこかに計算の合わないところが出るはずだ。
案の定、あった。
上級妃・麗華の宮、そこへ運ばれる食事の数は、公称されている侍女の数より、毎日一食分だけ多い。
しかも、運ばれているのは豪華な会席ではなく、喉を通りやすい「重湯」や「柔らかい粥」。
「……間違いない。自力で食事ができないほど衰弱させられた『誰か』が、そこに隔離されている」
さらに帳簿をめくると、その一食分だけが、なぜか「廃棄物」として処理されていた。
食べていないことにされている――つまり、その存在そのものが、この後宮からないことになる。
(はあ、ややこしいことになって来たわね)
私はそう思いながらも、ふと思い返す。
「エクス号、アルベールに預けちゃったけど。元気でやってるかな」
* * *
一方、セラフィマは震える手で薬箱を抱え、麗華の宮へと足を踏み入れていた。
麗華は退屈そうに長椅子に横たわり、新入りのセラフィマを値踏みするように見つめている。
「あら、その薬箱の中身……美肌内服薬と言ったところかしら」
「は、はい……。ですが、その前に妃様の周囲に漂う『香』が気になりまして。少し、失礼いたします」
セラフィマは、部屋の隅に置かれた香炉や、棚に並ぶ小瓶を念入りに調べる。
そして、一つの青い小瓶に目が止まった。
それは、表向きは「安眠のための香油」として届けられていたけれど、その実態は「意識を混濁させ、抵抗する力を奪う強力な鎮静剤」。
健康な人間が使い続ければ、やがて自分の名前すら思い出せなくなるような劇薬だ。
セラフィマは直感した。この薬は麗華が使っているんじゃない。
離宮の奥で飼い殺されているお姉様に、逃げ出す気力を奪うために投与されているはずだ。
そう、考えを巡らせていた、その時。
『きゃああああああああああああ』
夜の静寂を切り裂く悲鳴が、離れの方から響いた。
私たちが駆けつけると、そこには腰を抜かした侍女と、廊下に倒れ伏す一人の女性の姿があった。
倒れていたのは、昼間に別の中級妃と穏やかにお茶会をしていたはずの、別の中級妃。
つい数時間前までは、華やかな装いで談笑していた彼女が、なぜこんな夜更けに、人目のつかない離れで倒れているのか。
「……息はしてる。でも、意識が全くない!」
セラフィマが駆け寄り、顔色の悪い彼女の様子を確認する。
周囲には、彼女が持っていたのか、それとも誰かが落としたのか、争ったような跡も目立った外傷も見当たらない。
ただ、あまりにも唐突で、不自然な昏睡。
昼間の茶会では何の問題もなかったはずの彼女が、なぜ。
集まってきた女官たちのざわめきの中に、あの麗華妃の冷ややかな視線が混ざる。
彼女は、倒れた中級妃を助けようとするわけでもなく、ただ遠巻きに、その光景を「観察」しているようだった。
翌日。
セラフィマは震える足で、昼間にあの方と一緒にいたという中級妃の宮を訪ねた。
突然の夜の訪問に驚く妃を、セラフィマは必死に説得して聞き込みをする。
「……ええ、昼間はお庭で一緒にお茶をしていたのよ。でも、特におかしな様子はなかったわ」
中級妃は震える手で茶碗を置き、記憶を辿るように視線を宙に彷徨わせた。
「……わかったわ。あの時と同じものを用意させるわね。」
彼女の命を受けた侍女が、昼食の再現として運んできたのは、驚くほど手の込んだ料理の数々だった。
まず、鮮やかな赤紫色のてん菜を細かく刻み、レモン汁とビネガー、そしてバターと共にじっくりと煮詰めた、濃厚で酸味のあるソース。
これは味に変化をつけるため、鶏肉に添えるスープとして出されたものだという。
メインは、香辛料をたっぷりと擦り込んだ鶏肉を蓮の葉で包み、さらに泥でコーティングして蒸し焼きにする、非常に手間のかかる一品。
そして食後には、柚子を砂糖と蜂蜜で丁寧に漬け込んだ、芳醇な香りの柚子茶。
どれも後宮の贅を尽くした逸品に見える。
けれど、セラフィマはそれらの食材を薬師の目で一つ一つ見、ある一点で思考を止めた。
「……妃様、お聞きします。鶏肉に塗り込んだ『香辛料』には、具体的に何を使いましたか?」
セラフィマの声は、静かだが鋭い。
中級妃は少し戸惑ったように答えた。
「ええ……。胡椒に山椒……それだけだわ」
中級妃のその言葉に、セラフィマの思考が一瞬止まった。
てん菜の酸、レモンのビネガー、そして鶏肉……。
胡椒と山椒だけなら、それらが混ざり合ったところで急激な昏睡を引き起こすような毒物へと変質することはない。
(おかしいな……)
ふと視線を落とすと、中級妃の隣に控えていた一人の侍女が、異様なほど落ち着きのない様子で指先を弄んでいた。
彼女はセラフィマと目が合うのを避けるようにうつむき、額には嫌な汗が浮かんでいる。
セラフィマは瞬時に表情を変えた。
優しげな薬師の顔を捨て、逃げ場を許さない鋭い眼差しでその侍女へ一歩詰め寄る。
「……そこの侍女、何か知ってるなら吐け。 妃様の知らないところで、何かを混ぜただろう」
「な、何を……。私はただ、言われた通りに配膳を……」
「……白状しなさい。麗華様の宮から、あるいは商家の男から、何かを受け取って鶏肉に振りかけたんじゃないの?」
セラフィマは侍女の細い手首を掴み、その袖口を強く引き上げた。
そこから、微かにこぼれ落ちたのは……先ほどまで料理に混ざっていたはずの「茶色の木の実」。
「ひっ……!」
「はあ……やっぱり。」
セラフィマの声は、静かだが逃れられない重圧を帯びていた。
マリアが官女として立ち回っている間に、自分もここで戦わなければならない。
お姉様を救うための「証言」を、この侍女の口から力ずくで引き出そうとしていた。




