ふたたび高級宿
「ふうぅ、頑張ったあ」
数分後、私は街で一番豪華な宿の重厚なエントランスに立っていた。
自動ドアが私の存在を認識するより早く、私はバットの先で無理やり扉をこじ開ける。
ロビーに足を踏み入れると、そこにはまだ『塩の塊』の後始末に追われている支配人や従業員がいた。
支配人の横では、会計担当が震える手で電卓を叩き、信じられない桁の数字を書類に書き込んでいる。
商品の印象価値を台無しにし、業者の看板に泥を塗った代償。
もちろん、全入荷停止の要請も込みだ。
動いているのは、この宿が数年かけて稼ぐはずだった莫大な利益。
(ふーん、大変そうね)
私がそう思いながら、隣を通った時。
ロビーにいた人間が、真っ青な顔をして私の方を見た。
——オイルで汚れ、冷気の霧を纏った不気味な魔女。
そして何より「あの港の巨大重機を氷漬けにした怪物」の再来を目の当たりにして、固まっている。
支配人は受話器を置くと、魂が抜けたような顔で、床に散らばった塩の破片を見つめていた。
ブランドも、コネクションも、そして積み上げてきた金も、一晩で文字通り「溶けて」しまった。
そこに、その原因を作った私が、オイルまみれのバットを担いで現れたのだ。
「……マリア様」
支配人は私の姿を見ても、もう怒る気力さえ残っていないようだった。
ただ、手元にある「全額支払い済み」のハンコを、事務的に、力なく押しただけ。
「……卸への詫びも、金の工面も、すべて終わりました。……これで満足ですか? うちのプライドは、あのおじいさんのボロ宿以下の、ただの塩くずになりましたよ」
「……ふん、随分と高くついたわね。今すぐ私の宿泊予約と、例の温泉の復興資材に回しなさい」
私はカウンターにバットを置き、絶望に沈む支配人の目をまっすぐに見据えた。
「……事務的に、迅速にね。」
「は?」
支配人は、受話器を握ったまま、魂が抜けたような顔で私を見返した。
その口は半開きで、率直にいうなれば間抜けだ。
「マ、マリア様……今、何と仰いました? 温泉の復興資材? 当ホテルは今、最高級のブランド価値を失い、卸売業者への違約金で手一杯なんですよ」
支配人は、震える手でデスクの上に散乱した書類をバサバサと叩いた。
そこには、数えきれないほどの「取引停止」と「違約金」の数字が並んでいる。
「卸の旦那衆には、もう二度と顔向けできません。この街の物流の要だった岩塩のルートを、私は私の手で断絶させたんです。謝罪の電話一本入れるだけで、どれほどの血を流していると思っているんですか! それなのに、さらに……その元凶であるあんたのために、大工や資材を手配しろと?」
彼は、早口でまくし立てる。
「そうよ。……聞こえなかった?」
私はカウンターに置いたバットの冷気をさらに強め、ロビーの空気を一気に氷点下まで下げてやった。支配人の吐く息が、白く凍りつく。
「あんたがやってる謝罪と清算は、無能な管理者がやる、後ろ向きな事務作業。でも私は、その空いた予算と時間を、おじいさんの温泉っていう『新しいプロジェクト』に投資しろって言ってるの」
私は支配人の目の前にある「違約金支払い書」を、バットの先でツンと突いた。
「卸業者に絶縁されたなら、新しい取引先を私が作ってあげる。……港のクレーンを直したのは誰だと思ってるの? 私が一声かければ、明日には新しい物流ルートがこの街に開通するわ。ただし、その条件は一つ。あんたたちが全力で、あの温泉を街一番の場所に作り変えることよ」
支配人は絶句したまま、私と、手元の絶望的な書類を交互に見た。
「私は南側諸国のリソール地帯、伯爵家の令嬢よ! そして、第三王子の元婚約者!!」
支配人の顔から、さらに血の気が引いていくのがわかった。
ここは帝国。
南側諸国とは国そのものが違う。
しかし、国境を越えてなお響くその肩書きが彼を圧倒させた。
「令嬢……王子、の……。……っ、しかし、ここは帝国で……」
「うん、そうよ」
「はい……今すぐ手配させていただきます……マリア様」




