老人と星の夜
「ふぅ……。これでやっと、本当の定時ね」
重油タンクを無事に着地させ、役人たちに後始末を丸投げした私は、例の老舗温泉へと戻った。
オイルと冷気の魔法でバットはガチガチ、私の服も少し汚れてしまっている。
でも、頭の中は「あの茶菓子をどう堪能するか」でいっぱいだ。
あの『塩の塊』の事件で、宿主にありったけの茶菓子も請求しているのだから。
(そのためには、温泉のことも解決してから……)
温泉の暖簾をくぐると、そこには番台の座蒲団に腰かけ、じっと入り口を見つめていた温泉のおじいさんの姿があった。
……いや、正確には「番台だった場所」だ。
私があの時、地上に大きな穴を開けたせいで、建物は見る影もなくなっている。
おじいさんは、かろうじて一本だけ残った柱の横、力なく首を垂れていた。
天井の半分は吹き飛び、夜空の星がよく見える。
「……あら、じいさん。まだ起きてたの? 年寄りの夜更かしは、良くないのよ」
私はわざとぶっきらぼうに言う。
おじいさんは私の姿を見るなり、ゆっくりと立ち上がった。
その目には、昼間の絶望感はもうどこにもない。
ただ、私という「得体の知れない恩人」に対する、複雑で、けれど温かい光が宿っていた。
……もっとも、そう見えるのは暗闇のせいかもしれないけど。
「……マリアさん。港の方で、とんでもない騒ぎがあったと聞いた。あんた、また無茶をしたんだろ?」
「無茶? 心外ね。私はただ、物理現象を少しだけ最適化しただけよ。おかげで、例の最高級宿に届くはずの小麦とサトウキビは、今頃港で検品待ち。明日の朝一番には届くらしいわよ」
おじいさんは一瞬、言葉を失ったように絶句したけれど、やがて深く、深く頭を下げた。
「……ありがとう。街も、港も、そしてわしの誇りも……全部、あんたが救ってくれた。術式を間違えたバカな年寄りに、もう一度やり直すチャンスをくれたんだな」
「いえ、謝るべきなのは私の方よ……」
「随分と塩らしいな」
おじいさんはさっきまでの悲壮感が嘘のように、ニカッと不敵な笑みを浮かべた。
「この温泉もそのままにしておくつもりはない。」
「じゃあ、どうするんじゃ?」
「私はこの街で大暴走したわ。このままじゃ、陥没罪とかで訴えられる」
私は肩をすくめて、夜空を見上げた。
港のクレーンを凍らせ、高級宿の権威を粉砕し、極めつけにこの老舗温泉を物理的に壊してしまった。
普通の役人が見れば、私はただの歩く災害だろう。
「だから、法に触れる前に『仕様』にしてしまえばいいのよ」
「仕様……だと?」
「そうよ。この全壊した状況を逆手に取って、ここを街で唯一の星空の見える『天然岩盤温泉』として再定義するわ。壊れた壁や瓦礫は、あのアホな高級宿から毟り取った最高級の建材でパッチを当てる。彼らには『地域貢献』という名目で、無償で資材と労働力を提供させるわ」
すると、おじいさんは顔をへの字にさせ、こう言った。
「……へ?あ……ええと。老人には、ちと難しいな……全くわからん」
「つまりは訴えられる前に、この街の経済と観光の『最適解』を私が作っちゃえばいいの。そうすれば、役人たちは私を訴えるどころか、感謝状を持ってくるしかなくなるわ!」
意味を理解したんだろうか。
おじいさんは呆れたように、でもどこか嬉しそうに笑った。
「ははは! 陥没させた跡に新しい価値を書き込むか。とんだ救世主様じゃな」
「救世主なんてガラじゃないわ。さあ、じいさん。下請け(高級宿の連中)が材料を持ってくるまで、まずはこの『星空の番台』で、作戦会議といきましょうか!」
「ついでに、あの港で暇そうにしてる連中も連れてこようかしら。」
「あ、はははは!それはいいなあ。道ずれで、野宿もしようか!」
その晩。
星空が丸見えになった「元・番台」で、私たちは二人で笑い転げた。
この様子だけを見る限り、私は奇妙な犯罪者だろう。




