黒い服の女ニナ part1
遡ること一年前、1937年。
当時ルーパスはイタリアで行われた映画祭にウォルズリー家の代表として招待され、ヴェネチアを訪れていた。
元々は世界最古の歴史を持つ国際美術展である、ヴェネツィア・ビエンナーレの映画部門として開催されたこの映画祭は、ヒットラーのナチ党とムッソリーニの ファシスト党による映画祭の名を借りた国威発揚としてのイベントの色合いが強く、イギリスやフランスからは辞退する招待客も多かった。
そんな中、イギリス有数の大貴族であるウォルズリー家の訪問は地元でも大きな話題になり、ルーパスの一挙手一投足は地元の新聞で大々的に報じられた。
ウォルズリー家当主の弟としてルーパスのネームバリューは高く、こういったイベント的な催しにはたびたび引っ張り出されていたのだ。
映画祭のゲストとしての役割をつつがなく果たしたルーパスは、ヴェネチアからの帰路、取り巻きを連れ南フランスの避暑地として名高いコートダジュールの中心地・ニースに立ち寄った。
コートダジュール周辺には古くからイギリス貴族や革命以前のロシア貴族による別荘が数多く点在し、ウォルズリー家もひときわ豪華な別荘を構えていたのだ。
「お帰りなさいませ、ルーパス様」
別荘ではたくさんの使用人たちが出迎え、たかだか数日間の旅行にしては呆れるほどの大荷物を手際よく運び込んでゆく。
ルーパスは白いドレスシャツにゆったりとしたパンツ姿というリラックスした服装に着替えると、ちょっとしたパーティーが開けるほど広いバルコニーの長椅子に腰をかけた。
陽光降り注ぐバルコニーからは、眼下に“紺碧海岸”と称される海岸線と、美しい街並みが楽しめる様になっており、ルーパスは何も言わず、じっと見つめていた。
別荘を預かる執事がルーパスに近づき、静かに声をかけた。
「ルーパス様。夕食にはまだお時間が早いので、お飲み物と軽めのオードブルでもご用意いたしましょうか?」
「ああ、そうだな…。わしは構わんから、供の者たちに何か適当に出してやってくれるか」
『供の者』と言っても、ルーパスが連れ歩いているのは、ウォルズリーの使用人たちではない。
ルーパスが個人的にヨーロッパのあちこちを遊び歩いているうちに知り合った、普通の貴族階級の人間ならばまず知り合うことのない、ましてや身の回りに近づけはしない様な、あまり筋のよくない連中である。
「…承知いたしました」
執事は取り巻き連中をちらりと見て少し眉をひそめたが、ルーパスに逆らうことなく下がって行った。
しばらくするとたくさんの使用人たちがバルコニーにテーブルをセットし、次から次へ酒と料理を運んできた。
よく冷えたシャンパン、ガラスの器に大盛りにされたカスピ海産の最高級のキャビア、新鮮なスズキのカルパッチョやエビのカクテル、牡蠣やムール貝などビーチリゾートならではの海の幸はもちろん、
トリュフ入りのフォアグラに、料理長が目の前で調理する伝統的な鴨料理など、多彩な料理がずらりと並べられ、色とりどりの花が美しくテーブルに飾り付けられてゆく。
取り巻きの男たちが並べられた料理を見て、今にもヨダレを垂らしそうな顔つきで歓声をあげた。
「こ、こりゃあすごい!さすがルーパス様の別荘だ!」
「こんな豪華な食事、見たこともねえ!ル、ルーパス様、これいただいてよろしいんですか?」
「かまわん。お前たちの好きなようにしろ」
はしゃいで貪りつく男たちとは対照的に、ルーパスは憂鬱な顔で海を眺めていた。
華やかな舞台に立ち、国際的に注目を集め、豪華な別荘で贅の限りを尽くした食事に美酒。
およそ世間の誰もが羨む夢の様な生活だが、ウォルズリー家にとって、いや今の自分にとってそんなものは何の意味もないことをルーパスは骨の髄まで理解していた。
『当主である兄上や、一族の実務をこなし多忙な弟たちとは違い、わしはどうでもいい用件だけを押しつけられているだけだ…。これまでも、これから先も、死ぬまでずっとだ。
観衆の面前に場を盛り上げるために派手な格好で現れ、注目を引きつけ笑われて去ってゆく、サーカスの哀れなクラウンと何が違うと言うのか』
そんなルーパスの表情に気づいたのは、取り巻きの中でもリーダー的な存在の男だった。
「ご公務お疲れ様でした、ルーパス様」
男はルーパスのそばにひざまずくと、深々と頭を下げた。
「お、おい、顔を上げろ」
驚いたルーパスの言葉をもったいない、と首を振って男は頭を下げたまま言葉を続ける。
「あのような世界各国の要人が集う場所での神経のすり減るご公務。生まれついての高貴なお家柄のルーパス様以外に務まるお方はおりません。誠にお見事でございました」
男は、涙を堪える様な、感極まった声で続ける。
「ああ、それなのに、こうして私たちのような下賤の者にも分け隔てなくお気遣いいただける。私、常日頃からこの上ない光栄に身も震える思いです」
「馬鹿なことを言うな、わしは地位など関係なく、お前たちの様な気のおけない者と過ごすのが楽しいだけなのだ。気にすることではない」
「おお…それでこそルーパス様!驕り高ぶらず、高潔にしてご慈愛に満ちた人格者!ありがたき幸せですうう!」
男の芝居掛かった大仰過ぎるほどの賞賛の言葉に、ルーパスは少し自尊心を取り戻し、機嫌を直していった。
やがて陽が落ちてゆき、紺青の空がうす紫と柔らかな桃色が入り混じった神秘的な色合いに染め上げられてゆく。
「おお美しい…。神は何と世界を美しく創り上げられたのか…」
さっきまでの憂鬱な表情は何処へやら、ルーパスはため息を漏らしながらうっとりと見つめている。
リーダー格の男は上目遣いにルーパスがすっかり機嫌を直したのを確認すると、口元を歪めてニヤリと笑い、耳元で小さな声で囁いた。
「ルーパス様…気分転換に、夜の庶民たちの生活ぶりを見学に参りませんか?」




