第五十一話「黒猫」
…どうして、こうなりましたの?
ナチアは、ベッドにうつ伏せの状態で、そう思った。
誘ったのは、確かに自分の方である。その時は、あまり深く考えていなかった。
ユーキには言えませんわね…。
ぼんやりと考える。
顔の横には、別の顔があった。しっかりした鼻梁。引き締まった口元。切れ長の目。薄く開き、一点を見つめている。シン・スウ・リンの横顔。
………。
何か、今までにない感情が沸いてくるような気がした。
「出ないですわね」
気持ちを切りかえ、小声で聞いた。
下段のベッドではクリスが眠っているが、敵襲来の警報でも鳴らない限り、そう簡単に目を覚ますとは思えなかった。シンが夜中にナチアを訪ねてきたなど、知るはずもない。
「時刻はだいたい、このくらいなのだろう?」
シンの目が、通常の大きさに開かれる。それでも、切れ長であることにかわりはない。
「ええ」
ナチアが答えると、シンは僅かに頷き、そして再び目を細める。
「では、もうしばらく待ってみよう」
シンの気配が、再び消える。
そうですわね。
ナチアも、気配を消したシンに遠慮して、声にならない声で返事する。
少し前から、シンはベッドの反対側で、気配を殺しながら立ち続けている。左肩を軽く壁にあて、船尾の方を見ている。上段ベッドにうつ伏せになっているナチアの顔の、ちょうど真横に、シンの顔があった。
よくここまで、気配を殺せますわね。
同様にして、船尾の方に視線を移すと、もうシンの存在は感じることができなかった。ナチアとて、本郷流柔術を極めたほどの武芸者である。気配を消すことはできる。だが、これほど完璧にはできないし、するべきではないとも考えている。人格の維持形成を、放棄しているようにすら見える。
まったく…、たいした化け物ですわ。
ナチアがそんなことを考えているうちに、またしばらくの時間が経過した。
通路に異常はない。何も起こらない。
「ところで…」
ナチアから、話を始めた。
せっかくの機会である。黒猫のことは別にして、一度、聞いてみたいことがあった。
「あの男のこと、どう思っていますの?」
「どの男だ?」
気配は消えたまま。声だけが返る。
「銀河帝国、第二代皇帝」
「厄介な男だ」
「………」
「………」
「………」
「………」
「………」
「………」
「…それだけですの? 他に感想は?」
「俺はそれほど詳しくないが…、何が聞きたい?」
「不確定な要因が多いとはいえ、すでに三回、接触していますわ。ワープの時空震も観測されたはずですし。あの男が何も知らない、とは考えにくい…。あなたの考えが聞きたいですわ」
「戦力の逐次投入。それが事実だ」
「関与していないと?」
「さあな。それが分からないから…」
厄介だ。
言葉だけを残して、シンは、静かに動きはじめていた。
…え?
ナチアが「それ」に気付くのと、視界中央にシンの姿が入るのとは、ほぼ同時であった。
二人の視線の先、十字路の向こう、通路の途中。自動修復システムのメンテナンス・ルームに続く、側面のドア。その前に。「それ」は、現われた。
体長は約四十センチ。
体毛は黒一色。
薄暗い通路の中に出現した、ふたつの瞳。黄金の輝き。
ベッドから飛び出そうとするナチアを、シンの片腕が制止する。ナチアの視界の中で、片腕を水平に持ち上げる。
お前は来るな。
無言の圧力。
そうはいきませんわ。
クラーギナ財団の一人娘は、負けず嫌いであった。
シンほどではないものの、ほぼ完璧に気配を殺しながら、床に降り立つ。
男はすでに歩き始めている。遅れること、約二メートル。少女も足を進める。
薄暗い通路を、不可解な小動物へ向けて、距離を縮めていく。
お化け。幽霊。妖怪。怪物。その名称は不明。けれどそれは、存在した。
首を傾げて、前足で喉を掻き、あたりを見回す。
爛々と光る瞳が、シンとナチアを捕えた。
首を軽く捻り、視線を固定する。
その視線に貫かれながら、シンは足を進める。
あとを追うナチア。
だが、この時、ナチアの歩く速度が落ちた。
十字路を通過したシンとの距離は、約三メートル。
速度が落ちて、とうとう歩けなくなった。十字路の手前で、ナチアは静止した。
景色が歪む。力が抜ける。心音が速まる。体中の細胞が叫びはじめる。
本郷流柔術は護身術である。危機を察し、避けることが肝要。体に染み込ませた、護身の精神が命じていた。
近づいてはいけない、と。
少尉っ。
悔しいが、声を出すこともできない。
みゃあ。
猫の声が聞こえたような気がした。
前方では、シンが歩みをとめていた。シンと黒猫の距離は、僅か約一メートル。
間違いだった。何もかも。
ナチアは心の中で思った。
自分のせいで巻き込んでしまった。少尉を。余計なことに。この猫とは関わるべきではなかった。この猫は。人に害をなすもの。
ふしゃぁぁぁ…。
黒猫が、息を吐き出した。体を低くし、攻撃態勢に入る。
シンは動かない。
しかし、その体から気勢が上がる。視覚化されてもおかしくないほどの、気勢。
本気になった。白龍の真王・黒豹が。
長身の黒豹と、小柄な黒猫。対峙する、二匹の獣。
いけない。いけない。いけない。
ナチアの心が叫ぶ。
黒猫は、違う。この世の生物ではない。近づいてはいけない。
いけないっ!
言葉が音声化する直前に、黒猫が床を蹴った。
壁の方へ。メンテナンス・ルームのドアの方へ。
シンの目の前で、黒猫は、閉ざされたドアにぶつかっていった。
「?」
ドアにぶつかる寸前、黒猫の体が軟体動物のようにひしゃげた。薄い面となり、細い線となり、ドアと壁の境目に吸い込まれていった。
床を蹴ってから一秒後には、完全に姿を消していた。
気配も消えた。
そして五秒が過ぎ、シンはドアへと近づいていった。
目視で確認するが、異変はない。壁は壁、ドアはドア。その境目にも、何ら異常はない。
手を伸ばし、境目を触ってみるが、やはり異常はない。ドアは閉じられたままである。
艦内のセンサーを宇宙服内のモニターで確認するが、一切の異物は感知されていない。存在したという痕跡がない。
一歩下がって、息を吐く。そしてナチアを振り返る。
「もう、出てこないようだ。怖がらせて、すまなかった」
ナチアの身体から、僅かに残った力が抜けていく。
膝が砕けて、立っていられなくなる。
「大丈夫か?」
近づいてきたシンに支えられ、辛うじて倒れるのをこらえる。
だが、こらえたのも一瞬で、シンの両手に支えられたまま、ずるずると腰を下げ、床に座り込む。
「メンテナンス・ルームは、明日詳しく調べよう。よく、耐えた」
ナチアに合わせて腰を落としたシンから、声がかかった。
少尉、許してくださいね。
この世に戻ってきた。人の住む世界に返ってきた。その実感が、体の底から沸いてきた。
「シン、ナチア…」
横から、声がした。
「ユーキ」
シンの声が聞こえた。
顔を向けると、そこには、黒髪の少女が呆然とした表情で立っていた。
「わたし…、シンがいなくなったから…、帰ってこなかったから…」
ユーキは、夢遊病者のような声を出していた。
「艦内モニターみたら…、シンが三号機に…、それで…」
「ユーキ」
しかしユーキは聞いていなかった。
「だけど…、そんな…、ふたりが、そんな、なんて…、しらなくて…」
馬鹿ですの、この娘は?
「ユーキ、お待ちなさい、誤解ですわ」
ナチアはようやく声を出した。しかし届かなかった。
「ごめんね…、わたし、しらなくて…」
呆然とした表情のまま、ユーキが来た道を戻ろうとした。
「お待ちなさいっ」
ナチアの叫びは、やはり届かない。十字路の向こう、一号機へと、ユーキは消えていった。
「少尉、何をしてるのですっ、はやく…」
言いながら、自分が、シンの宇宙服を握り締めていると気付く。
「はやく、おいきなさい」
手を離し、シンを急かす。
「待っていろ」
シンに言われるまでもなく、ナチアはまだ動ける状態ではなかった。
まったく、わたくしとしたことが…。
通路の向こうから、ユーキを引き止めるシンの声が聞こえた。
ユーキも、どうかしていますわ。この程度で勘違いするなど…。
シンの声が続いていた。時折、ユーキの声も混ざるようになっていた。
はやく、説得していただきたいですわ。
船尾の方に顔を向けた。そこには、黒猫の消えたドアが、何もなかったかのように存在していた。
はやく、戻ってきてほしいですわね…。
ナチアの思考は、いつしか、必死の願いに変わっていた。
<次回予告>
その瞬間、ナチアは、クリスの頭をひっぱたいた。
次回マーベリック
第八章 第五十二話「正体」
「マーズのエミリア事件は、知っているな?」




