番外話「不可空域の英雄」
暗黒の宇宙。冷たい宇宙。音の無い宇宙。
宇宙は、何もかも飲み込んでしまう。
食らい尽くしてしまう。
人の命も。何もかも。
ヘレンは、そんな宇宙が嫌いであった。
嫌いにもかかわらず、ヘレンの生きる場所は宇宙にしかなかった。
今も、そんな宇宙の中にいた。
これは夢だと思ってしまいたかった。
だが現実に、スクリーンには星々が浮かび、計器は無数の警戒音を発していた。通信器は仲間達の声で満たされ、体には僅かな振動が伝わってくる。
そして何より。
敵が、いる。
それこそが現実。それこそが宇宙。唯一確かな感触。
「ヘレン、そっちにいったぞっ」
通信器が何事か話しかけてきた。
「了解」
ほとんど無意識で応答する自分が、信じられなかった。
応答だけではない。実際に体は動いていた。機体を操縦している自分も、モニターを確認している自分も、何もかもが信じられなかった。
通信器は、なおも次々と語りかけてくる。
「敵機は不可空域に突入。方位1-0・3-4、全機、第一種臨戦態勢を維持。追撃し、これを撃墜せよ」
「ヘレン、気をつけろっ。やっこさん加速を始めたっ」
「こちら第三空撃隊、だめだっ、展開間に合わんっ」
「ばかやろうっ、何やってんだっ」
「シュレート回廊、全域に警戒態勢発令っ。緊急度はマックス! …マックス?」
「やっこさん何やりやがったっ?」
「まずいですね、敵本隊の到着です。かなり大きい」
「回廊守護艦隊より入電っ。敵艦隊はあちらで押さえるそうだっ。前方の敵機に集中しろっ」
「ちっ。偵察用の特務艦相手に、たった八機でどうしろってんだっ」
「はっはっはっ。その通りだな」
「隊長、自重して下さい。通信は開かれていますっ」
「はっはっ。そう目くじらを立てるな。それよりも…ん?」
「どうしました?」
「右側面に注意しろ。何かいるぞ」
「しまったっ!」
「0-9・0-5、識別確認っ。民間機? 報道機関ですっ!」
「何でこんな所にっ。隊長、どうします?」
「見ての通りだな。これで敵を落とせば、俺達は英雄だ」
「ははっ、違いねえ」
「この状況で、よくもそんな…」
「ヘレン、どうだ? 捉えられそうか?」
隊長と呼ばれる男の声がして、ようやくヘレンは意識を通信器に向ける。
「このまま進めば、五分後に射程圏内です」
事実を伝える。
発言に間違いはない筈であった。
「頼むぜヘレン、お前が一番近いっ」
「聞いての通りだ。頼めるか、ヘレン?」
「全力を尽くします」
返答してから、疑問に思う。
全力。そんなものを出すつもりが本当にあるのか。そもそも、自分に全力などというものがあるのか?
たとえ、あったとしても、それは無力だ。
「敵機、再加速っ」
ヘレンの思考を、またしても通信器が遮る。
「ばかなっ。リミッター付いてねえのかっ」
「隊長っ、敵機は亜光速に突入するようですっ!」
「なるほど、そうでたか」
「このままでは敵機が帰還してしまい…」
「ヘレンっ、やめろっ、何やってんだっ」
「スタイナー少尉っ、どうしたんですっ? 機体が加速していますっ?」
通信器が騒がしくなってくる。
何をしている?
決まっている。
「リミッターを解除。これより亜光速へ移行します」
自分の思考で、自分の口が、自分の声をだしていた。
ヘレンとしては当たり前のことを言っただけなのであるが、通信器は、そう思わなかったらしい。
「ばかっ、やめろヘレン、やっこさん未来への逃避行を決めたんだっ、お前まで付き合う必要がどこにあるっ」
「そうですよっ。このまま行ったら、帝国領ですっ。敵の真っ只中ですよっ」
この通信器は何を言っているんだろう?
ヘレンには不思議でならなかった。
全力を尽くすと言ったのだ。邪魔はしないでほしかった。
この状況で、この緊急度で。あの船を帰せば、どうなるのか。
未来へ行くのが、それほど恐ろしいことなのか?
帝国へ行くのが、それほど恐ろしいことなのか?
そうは思わない。
ワープ不可空域の厚さと進入角度から考えたら、たかが十年、未来へ行くだけである。帰ってくる時にも亜光速戦闘が必要だとして、合わせて二、三十年といったところか。或いは、さらに伸びるかもしれない。
しかし、それでも。
何の問題があるのだろう?
そもそも帰ってくる必要などあるのだろうか?
ここにはもう、あの人はいないというのに。
「ヘレン」
通信器が、隊長の声で話しかけてきた。
「はい」
答えているのは、自分。ヘレン・スタイナーという名の女。
「帰ってこいよ」
「了解」
今度こそ無意識で答えてしまった。
「これより、亜光速、並びに亜光速戦闘へ移行します」
通信器は、なおもうるさく何事か言ってきていた。
だがそれも、すぐに聞こえなくなる筈である。
亜光速とは、そういう世界なのだ。
機体の加速が増し、体に重力がかかりはじめる。
ふと横を見る。
一枚の写真が貼ってある。
昔ながらの二次元の映像印刷物。動画再生の機能すら備えていない、一枚の紙切れ。
小さな女の子と、もう一人青年の姿が写っていた。
二人とも楽しそうに笑っている。
馬鹿だな。
唐突に、そう思った。
この写真は捨てよう。
簡単に意志を決定する。決心、というほどでもない。単純な選択。
前方のスクリーンに視線を戻す。
敵を倒すこと。
それが、唯一絶対の目的。
帰ってこいよっ!
どこかで誰かが、叫んでいた。何かを答えたような気がした。
いっせいに赤いランプが灯り、亜光速戦闘の始まりを告げる。
宇宙暦七百二十六年四月二十四日。ヘレンは、帰るべき場所を見つけられないでいた。
<次回予告>
宇宙暦七百九十八年五月一日。シン達一同は、真に天才と呼ばれるべき人物に出会った。
次回マーベリック
第三章 第十二話「六人」
「ぼくなんかより、皆さんの方がすごいですよ」