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第76話 エピローグ・朝の道

頬に、少し冷たい風が当たった。

目を開ける。

白い天井。見慣れた自分の部屋の天井。


あれ?


しばらく、何が起きたのかわからなかった。

布団の重さ。枕の感触。鼻の奥に残る洗濯したシーツの匂い。

窓の外からは、朝の車の音が小さく聞こえる。


体を起こして周りを見る。


自分の机。

積んだままの教科書。

脱ぎ散らかしたジャージ。

カーテンの隙間から、朝の光。


帰ってきた。


そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。

本当に?

これは夢じゃないのか。


慌てて手を見た。

指を開く。握る。何も持っていない。

雪乃が作ってくれた革袋もない。手袋もない。


でも、手のひらにまだ感触が残っている気がした。

細い指が、ぎゅっと握ってくれた、あの温かさ。


喉の奥が少し痛い。


枕元の時計を見る。

いつもの平日の朝だ。遅刻する時間じゃない。


「爽太ー、起きてる? 朝だよー」部屋の外から、母さんの声


その声が、なんだかひどく普通で、

普通過ぎて、笑えてきた。


「起きてる...これは夢じゃない」


自分の声も、ちゃんといつもの声だった。


制服に着替えて、洗面所で顔を洗う。

冷たい水が気持ち良い。

鏡の中の自分は、ちゃんと自分だ。

けれど、前と同じ顔なのに、少し違って見えた。


朝食はトーストと目玉焼き。

母さんが「今日は、ちゃんと食べるんだね」と少し驚いた顔をする

たしかに、朝はあまり食べなかった気がする。


「うん」


バターの匂い。

焼いたパンの端のサクサク。

黄身をつつくと、とろっと崩れる。


美味い。

思わず、もう一口かじる。

トーストって、目玉焼きって、こんなに美味しかったのか!


母さんがこっちを見ている。

「どうしたの?」

「いや...別に」

「ふうん」


別に、じゃない。


囲炉裏の煙の匂い。

煮えた肉の匂い。

雪乃が摘んだ草の酸味。

あの世界で食べたものを、急にいくつも思い出した。


トーストを噛みながら、少しだけ俯く。

ほんとに帰ってきたんだ......



家を出る。

朝の空気はまだ少し冷たい。

住宅街の道。電柱。気にしてみれば空は伝染だらけ。

駐車場の車。ゴミ置き場のネット。

全部、見慣れている。


でも、妙にまぶしい。


空が高い。雲が白い。

植え込みの葉に光が当たっている。あ、猫が寝てる。


駅へ向かう途中、足が少し速くなった。

自分でも気づかないうちに。


改札を抜ける。

ホームに立つ。

電車が来る。


人が多い。スマホの画面。イヤホン。学生の笑い声。

いつもの朝だ。

でも、落ち着かない。


会えるのかな?

ちゃんと、いるのかな?


胸がざわつく。

もし会えなかったらどうしよう、と一瞬思った。

彼女はこっちに戻れたのだろうか...


いや、あるいは、ただの長い夢だったら。

あんなにたくさんのことがあったのに、全部、自分の頭の中だけだったら。

話もしたことの無い、ただのクラスの一人に戻るのだろう...


電車が着く。扉が開く。

人の流れに押されて乗る。

早く着け、と思う。


学校の最寄り駅で降りて、改札を出る。


朝の光が、駅前の舗道に斜めに落ちていた。

パン屋から甘い匂いがする。

自転車が横を走り抜ける。

信号が青になる。


その先の坂道。


制服姿の生徒たちが何人も歩いている。


その中に......いた。

白崎さん。


少し離れた前方を、一人で歩いている。

黒髪が肩のあたりで揺れる。

見慣れた通学鞄。

背筋を伸ばして歩く姿。


足が止まりそうになる。


いた。

ほんとに、いた。


その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

苦しいくらい、ほっとした。


でも、どう声をかければいいかわからない。

ここで急に走って行ったら変だ。

いや、でも、あの世界ではあんなに......


口の中が乾く。


白崎さんが、ふとこちらを振り向いた。


目が合う。

一瞬、時間が止まった気がした。


白崎さんが立ち止まる。


朝の坂道の途中。

まわりでは他の生徒たちが普通に通り過ぎていく。


白崎さんの目が、少し見開かれる。

それから、眼差しが輝いて揺れた。


俺は、歩く。

向こうも、少しだけこっちへ来る。


数歩の距離。


「おはよう」

先にそう言ったのは、白崎さんだった。


聞き慣れた声だ。

でも、少しだけ震えていた。


「お、おはよう...」

言えた。良かった。

それだけで、心臓がすごい。


二人とも俯いてしまって、少し沈黙。

でも、不思議と嫌な沈黙じゃない。


白崎さんが、俺の手元を見た。

それから、少しだけ口元を緩める。

「手袋、無いのね」


「え!? あ!ミトン...」俺は驚いて口をポカン開けてしまった


「やっぱり、夢じゃなかった......」目を丸くした白崎さんの瞳が輝く

そして、小さく笑った。

その顔を見た瞬間、喉の奥が熱くなる。


「あ、あの......白崎さんも」

「うん」

「憶えてるんだ...」

「憶えてる」


風が吹き、坂の脇の街路樹がサラサラと鳴る。


「良かった...」そう言って、俺は息を吸った


「うん」白崎さんがこちらを見て、目を細めて微笑む

それから、また少し視線を落として、

「良かった...私も...」とつぶやき、体を少し振った



歩き出す。

自然に二人並んで。


いつもの通学路のはずなのに、

並んで歩く、それだけのことが、

不思議で、嬉しい。


しばらくして、白崎さんが言った。

「ねぇ...」

「うん?」


「こっちでも、また会おうね」


「!」胸がどくっと鳴る

足が少しだけもつれそうになった。


俺は前を見た。

朝の道がまっすぐ伸びている。


それから、隣を見る。

白崎さん......雪乃がいる。

雪乃の瞳を見つめる。

雪乃も俺を見つめる。


「うん」


ようやく、それだけ言えた。

雪乃が照れ臭そうに微笑む。

俺もたぶん、同じ顔をしていると思う。



坂道を上っていく。

二人の影が、朝の光の中で前へ長く伸びている。

歩幅は、前よりちゃんと合っていた。


空に白い雲が浮かんでいる

形が一瞬、トールとロキの姿に見えた。微笑むような顔。

そして、雲は形を変えて流れて行く。


俺たちは、学校へと歩いて行く。

共に並んで。

 


ーーー完ーーー

 


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