第33話 夕餉とつぐない
夕暮れ。
風が止まらない。
白い粒が横殴りに飛ぶ。
雪というより、氷の粉だ。顔に当たると痛い。
まばたきをすると、まつ毛が凍りつく。
ヤギの蹄が硬い雪を叩く。
荷車が軋む。
木枠がギシ、と鳴るたび、背中に振動が伝わる。
シャールヴィとレスクヴァは毛皮の襟を立て、身体を小さくしている。
颯太と雪乃は並んで座り、雪乃のマフラーを二人で分け合って顔を覆う。
それでもつらい。
この世界の寒さには、制服の布は薄過ぎる。
ポケットの中の指先が、じわじわと痺れている。
ロキが振り返り、口元だけで笑う。
「また、あそこに入れば良い」
御者台のトールの背を指差す。
トールは何も言わない。ただ、マントの端を少しめくり上げる。
颯太は一瞬迷い、雪乃を見る。
雪乃が小さくうなずき、一緒にマントの内側へ潜り込む。
毛皮の匂い。
中にこもる体温。
トールの背中越しに伝わる振動。
外の風音が遠くなる。
吹き荒れる風から守られたマントの中の世界。
「雪乃、もう寒くない?大丈夫?」
「うん。颯太は?」
名前が自然に出る。
それだけで、少し落ち着く。
「甘いなあ。若いなあ」不意にロキの声
「だから、そういうのは...」俺の言える精一杯の抗議
雪乃がうつむき、そっぽを向く。
なんだかモジモジしている感じが伝わって来る。
時々、マントの端から外を眺める。
景色が変わってきている。
木が無い。
獣の足跡も無い。
風に倒れた低木が凍りつき、地面に張り付いている。
川も凍っている。厚い氷に変わっているようだ。
こんな時でも、空腹感は繰り返し襲って来る。
家を出てから2日。
シャールヴィが荷台を探る。
干し肉の革袋をひっくり返す。
「もう、これだけか」
レスクヴァが口を結ぶ。
ロキは肩をすくめる。
トールは前を向いたまま言う。
「止める」
ヤギが息を荒く吐きながら足を止める。
夕暮れの空だけは美しい。
さっきまで鳴っていた風が、急に遠くなる。
世界が、静まり返る。
トールが槌で火がを起こす。
薪は少ない。炎は弱い。
ヤギ二頭が、荷車の横で息を吐く。
白い湯気がゆらゆらと揺れる。
胃が鳴る。
レスクヴァが言う。
「干し肉、明日まで持たない」
シャールヴィが火を見つめる。
トールが立ち上がる。
ロキが、小さく息を吐く。
「便利な生き物だよ、神のヤギは」
嫌な予感がする。
トールがヤギの首元に手を置く。
ヤギは逃げない。
一瞬、鈍い音。
雪が赤く染まる。
「ウソ!?」そして俺は息を呑んだ
さっきまで、たくましく荷車を牽いていた体が、
雪の上に横たわる。
湯気が立つ。
火の匂い。肉の匂い。
また胃が鳴る。
空腹は、誠実だ。
夕暮れは、音を吸い込む。
トールが黙々とヤギたちを解体していく。
雪乃が声を殺して泣いている。
肉が焼ける音が、はぜる。
脂が落ちる。ジュッと音がする。
シャールヴィは待ちきれない様子でかぶりついた。
「美味い!」
レスクヴァも、骨付きの肉を取って食べ始める。
「骨は折るな」静かにトールが言った
ためらっていた俺も口に運ぶ。
温かい。塩気。命の味。
雪乃も小さく息を吐いて、ゆっくりと食べ始めた。
そして、俺たちは無言で食べ続けた。
トールは最後まで食べずに、骨を集めている。
一本ずつ、丁寧に雪の上に並べる。
その手つきは、祈りのようだ。
パキ...小さな音。
全員の動きが止まる。
シャールヴィの手の中にヒビの入った骨。
中の髄をすすろうとして骨を割いたのだ。
皆、無言でその骨を見つめた。
トールが静かにシャールヴィを見つめる。
怒鳴らない。
だが、空気が変わる。
「何をした」低い声。
シャールヴィは一瞬、戸惑った顔をする。
「食っただけだ」
「骨は折るなと言った」トールは裂けた骨を取り上げて静かに言った
そして、骨はすべて集められ、皮の上に並べられた。
トールが槌を持ち上げる。
一撃。
光が走る。
ヤギたちが姿を取り戻し立ち上がる。
しかし...
タングニョーストの片脚がわずかに震える。
トールの視線がシャールヴィに落ちる。
傷ついた骨は、もう元には戻らない。
シャールヴィは視線を落とす。
自分の行為の重さに。
レスクヴァが兄を見る。
雪乃が息を吸い、俺を見る。
心が震える。
「足りぬ分は、お前が補え」トールがそう宣告した
シャールヴィは唇を噛み、うなずく。
言い訳をせず、受け入れる。
その夜、誰も多くを語らなかった
風が吹く。
遠くで、また大地が軋む音がした。




