第9話 走るしかない生き物
第9話です。
逃げるとき、人間は考えるらしい。
どこへ行くか。
どう逃げるか。
どこが安全か。
だが、俺は人間じゃない。
苔喰いモルだ。
丸くて、小さくて、弱い。
逃げるときに考える余裕なんて、最初から持っていない。
走る。
ただそれだけだ。
【寿命:残り333日】
数字が、頭の上で揺れている。
揺れているのは、たぶん俺の視界のせいだ。
地面が近すぎて、森が速すぎる。
苔を踏む。
石にぶつかる。
転がる。
それでも止まらない。
止まったら、終わる。
分かっている。
後ろを振り向かなくても、
まだ来ている。
あの黒いやつ。
歩いているだけなのに、
距離が縮んでいる。
音はない。
気配だけが、背中に張り付いてくる。
まるで、
影が追いかけてくるみたいに。
⸻
森の奥へ、奥へ。
息が上がる。
喉が焼ける。
【寿命:残り331日】
二日、減った。
走るだけで。
分かっていた。
それでも止まれない。
寿命は減る。
でも、今止まれば、
全部なくなる。
それなら、減らしてでも走る。
選択なんて、簡単だ。
死ぬか。
減らすか。
それだけだ。
⸻
木の根に引っかかった。
体が、跳ねる。
転がる。
世界がひっくり返る。
その瞬間。
――影が、覆った。
顔を上げる。
黒い存在が、立っている。
いつの間にか、
俺の前にいた。
歩いているだけだったはずなのに。
距離というものを、
あいつは気にしていないらしい。
細い腕が、伸びる。
指先が、
俺の頭上の数字に触れようとする。
その瞬間。
【寿命:残り330日】
一つ、減った。
触れていないのに。
ただ、
近づいただけで。
ぞっとする。
これが、
時間を食うってことか。
俺は、歯を食いしばった。
逃げる。
だが、足が震える。
体が言うことを聞かない。
恐怖は、
筋肉を凍らせる。
⸻
そのとき、
ふと、思い出した。
あの宗教者の儀式。
時間は、
流れる。
移る。
減る。
増える。
なら――
使えるんじゃないか。
寿命を。
俺は、数字を見上げた。
【寿命:残り330日】
三百三十日。
長くない。
だが、ゼロでもない。
もし、
これを――
力に変えたら。
黒い存在の指が、
俺の額に触れる寸前。
俺は、叫んだ。
「キュルァァ!!」
胸の奥が、燃えた。
何かを、
削り取った。
【寿命:残り320日】
十日。
十日、消えた。
その瞬間。
体が、
軽くなった。
いや、違う。
速い。
地面が、流れる。
森が、飛ぶ。
俺の体が、
信じられない速度で、前へ弾けた。
⸻
黒い存在の指が、空を掴む。
俺は、
その腕の下を、
転がるように抜けた。
心臓が、爆発しそうだ。
息が足りない。
でも、止まらない。
体が、勝手に走る。
十日の寿命が、
俺の脚を押している。
【寿命:残り319日】
一日、減る。
だが、今は関係ない。
森が、遠ざかる。
黒い存在が、
後ろに小さくなる。
それでも、
完全には離れない。
あいつは歩く。
歩くだけで、
距離を食う。
だが――
さっきより、
確実に離れている。
⸻
森を抜けた。
崖だ。
下には、川。
逃げ場は、ない。
振り返る。
黒い存在が、
森の影から出てくる。
ゆっくり。
変わらない歩き方で。
だが、
確実に近づいている。
俺は、数字を見る。
【寿命:残り319日】
さっきまで、330日あった。
今は、319日。
十日、消えた。
だが――
生きている。
俺は、初めて笑った。
息を切らしながら。
「……使えるじゃないか」
寿命は、ただ減るだけじゃない。
燃やせる。
時間を、
力に変えられる。
それはつまり、
俺は、
自分の未来を削って戦えるということだ。
黒い存在が、崖の縁に立つ。
俺を見る。
また、笑った。
だが、今度は違う。
さっきみたいな
「餌を見つけた顔」じゃない。
――面白いものを見つけた顔だ。
俺は、崖の下の川を見た。
流れは速い。
だが、死ぬ高さじゃない。
逃げるしかない。
まだ、生きる。
俺は、数字を見上げた。
【寿命:残り319日】
そして、
崖から飛び込んだ。
水が、
視界を砕いた。
命の使い方は人それぞれですが、あんまり自分だけのモノと思ってはいけない気がします。




