2.2 それはよかった
『今日はどうだった?』
ヨウからの質問が届いたのは、帰宅してから一時間後のこと。それに対して返事をしたのがさらに一時間後のこと。窓の向こう、外はまだ明るい。
「うん、楽しかったよ」
楽しかった。それは本当だ。
だけど俺は自分で自分に失望していた。
俺は今日、何をすべきか分からず――そして何もできなかった。
カフェを出た後、まっすぐに映画館へと向かった。
飲み物を買って指定席に座った。ちょっと動けば触れてしまえそうなほどの距離に、しかし、だからこそ俺は気づいてしまった。まだ二人の間には奇妙な緊張が漂っている、と。
だけど俺はこうも思っていた。ただ黙って映画を観て、それでもう十分じゃないか……と。映画を観終わる頃にはきっとお互い自然に振る舞えるはずだ。
やがて館内の照明が落とされ、俺はそれだけでほっとしてしまった。彼女のことが好きなはずなのに、彼女のたった一つの行動にもやもやとしてしまっている。
こんなくだらない自分に誰かを好きになる権利があるのだろうか……。
人は好きになった相手のすべてを受け入れられるものなのだろうか。
一つでも気になることがあったら恋は冷めるものなのだろうか。
自問自答しているうちに、半ば強制的に最新作のプロモーション映像がはじまった。目の前で繰り広げられるダイナミックなアクションシーン、子供向けの夢の世界なんかを眺めていたら、ようやく心が落ち着いていくのを感じた。
ようやく本編がはじまると、自分が観たかった映画なこともあり、俺の意識は一気にスクリーンに映し出される世界へと入りこんでいった。
ひどく淡々としているが味わいのある奥深いストーリーだ。自分が主人公になり、その息子になり、その同業者になり、俯瞰者になり、熊になり、馬になり……。意識だけが虚構の世界を縦横無尽に駆け廻っていく。
ようやく結末が見えてきたところで、喉の渇きに気づいた。サイドに置いた飲み物を手に取ろうと顔を上げたところで、隣に座る彼女の淡く儚げな姿が視界に入った。
ようやく彼女の異変に気がついた。
彼女は泣いていた。
声を出さずに泣いていた。
ぎゅっと唇をかみしめ、頬に伝う涙をぬぐうことなく、身じろぎひとつせず――。
その目はスクリーンを観ていたが、その先にある見えない何かを見つめているような、そんな表情をしていた。
このとき俺は何をすべきだったんだろう。
「大丈夫?」そう声をかけるべきだったのか。それともそっとハンカチを渡すべきだったのか。肩を抱いてなぐさめるべきだったのか。なぜ泣いているのか聞いてあげるべきだったのか。
俺は――何もしなかった。
彼女が泣いていることに気づいていないふりをして、飲み物を置くと、視線をスクリーンへと戻した。彼女の涙がとまり、やがてぬぐわれることのなかった涙が自然と乾くまで――映画が終わるまでスクリーンに映る雪景色だけを眺めていた。帰りは涙の痕を直視したくなくてあまり顔を見ないようにし、そして別れてきたのだった。
今こうしてアパートに戻ってくると、あのスクリーンの中の灰色の世界が確かにフィクションであることを実感できる。ここは狭くて古めかしい静寂に包まれた日本の片田舎の一室。だけどあちらは広大な雪と氷が支配する荒ぶる大陸。
しかしあの景色はどこかで撮影されたいわばノンフィクションでもあるはずで、それがひどく不思議なことに思えた。
彼女の涙もまた同じだった。
現実のことなのに非現実な出来事――そう思えるのは俺の解釈の仕方に問題があるのだろうか。
ヨウからの返信がきた。
『それはよかった』
その一言にとたんに情けない気持ちでいっぱいになり、俺は電源をオフにしてこの魔法の機械を遠くに放り投げた。本当はそんなふうに思っていないのに口先だけで「よかったね」と言われたかのような、そんな気がしたからだ。
チャット上の文字には気持ちをこめることができるし、相手の気持ちを感じることもできる。
だけど受け取り方次第でそんなものどうとでもなる。
じゃあ、文字だけで繋がる俺とヨウの関係もどうとでもなるものなのか?
さっきまで一緒にいた彼女とだってどう接しどう繋がればいいか分からなかったというのに。
俺とヨウだけが、こうして文字だけで繋がっていられるなんておかしくないか?
彼女とも別れてからチャット上で言葉をかわしていた。
「今日は楽しかった。ありがとう」
『わたしも楽しかったよ』
「じゃあ、またGW明けに」
『うん。またね』
どうとでもとれる無難な会話をしたのは自分自身だ。だけどこのもやもやとした気持ちはどこへ持っていけばいいのか、それが分からない。
ヨウとのチャットがその鬱憤を倍増させた。