2.1 Take it easy, take it easy
デート当日、俺は衣裳ケースから数少ない手持ちの服すべてを引っ張りだしていた。どれとどれを組み合わせるべきか延々と悩んでいると、机の上に置いてあったスマートフォンがピロンと鳴った。
手に取り確認すると、それはヨウからのチャットが届いたという通知だった。さっそくチャットツールを起動すると、そこには予想外の写真が添付されていた。保育園児くらいの男の子がちゃちな黒い眼帯をつけアルミホイルの剣を持って突っ立っている。
思わずぼけっと眺めていると、続けて文章がぽんぽんと表示されていった。
『最初に演じた役は海賊だった』
『巷では年下男子が流行っているらしいが、これくらい若ければモテるかな?』
俺は「ドンマイ!」と可愛く応援するアニメキャラのヒロインのスタンプを送信してやった。すると、朝から緊張して普段の半分もご飯を食べられなかったのに、この連絡一つで、なぜか心が落ち着いていくのを感じた。
誰かと言葉を交わすことにはヒーリング効果があるのかもしれない。
だから人は人と繋がっていたいと望むのかもしれない。
またピロンと音が鳴った。
『気楽に気楽に』
『Take it easy』
ヨウの口癖だ。だけど覚えたての英語を自慢するかのような愚かさはそこにはない。本当に心からそう思っているといった具合で、出会った当初もまるでハミングのようにしょっちゅう言っていた言葉だった。小学生のくせに生意気な奴だ。
だけど――。
気楽に気楽に。
俺は口に出して言ってみた。
「Take it easy, take it easy」
そうつぶやきながら服を見ていくと、自然とコーディネートが頭に浮かんだ。いつもの白いシャツに、デニム。それにパーカー。大学へ行く時となんら変わりない服。でもそれでいいじゃないか、そう思った。
きっと彼女もそういう俺のほうが好きだと思う。
それに俺もそういう自分のことを彼女に好きになってもらいたい。
恋愛初心者のくせになにを傲慢な、と思われても仕方ない。だけど俺は本心からそう思った。
*
待ち合わせ場所にあらわれた彼女は、ぴったりとしたデニムのパンツにカットソーという普段よりもラフな恰好をしていた。これまでスカート姿しか見たことがなかったので、パンツスタイルというのがとても新鮮で、そしてかわいく映った。
俺に気づいた彼女の表情がぱっと華やいだ瞬間、それだけでたとえようのない幸せを感じた。
俺がここにいることをこうして喜んでくれる人がいる。
デートは始まったばかりだというのになんだか泣きたくなった。生きていてよかった、つくづくそう思った。
そんな感傷的な自分を振り切るように、俺は駆け足で彼女に近寄った。
「お待たせ。待った?」
「ううん、全然」
上気した彼女の頬は化粧によるものなのか。でもどちらもでいい、彼女は今日もとてもきれいだ。
俺は決意した。
今日、彼女に好きだと言おう。
絶対に好きだと言おう。
「じゃあ、行こうか」
内心とは裏腹に軽い感じでそう言うと、彼女は恥ずかしそうにうなずいた。
*
当初の予定通り、映画の前にランチを、ということで、近くのカフェに入った。ちょっとおしゃれで、男一人では絶対に入れないようなカフェだ。
だけど今日は彼女といる。この店に入る資格は十分にある。
ドアの入り口にいた白シャツの店員はさながら門番のようだ。その店員は俺と彼女をちらと見て、スマートな動作で窓際の席へと案内した。
二人向かい合い、メニューを開く。そこには普段味わうことのなさそうなメニューがずらりと並んでいた。俺はどぎまぎしながらもなんてことないように無難な一皿を選んだ。
オーダーを受けた店員が去り、しばらく俺は会話どころか彼女と目を合わせることもできず、ただぎこちなくこの場を持て余していた。それは彼女も同じようで、テーブルに置かれた水の入ったグラスをぎゅっと握りしめ、氷が解ける様をひたすら見つめている。手のぬくもりで彼女の持つグラスだけがあっという間に結露によって滴で溢れていく。
彼女の薄桃色の両手がしっとりと濡れていく。
その手を触りたいな、と思った。
きっとひんやりとして気持ちいいんだろう。
だけど濡れた表面の奥にはきっと熱い血が流れているんだろう。
と、急におかしくなった。
手に触れる前にまずは会話だな。
その感情がそのまま顔に出ていたようで、彼女が気配を感じ取ったかのように顔を上げた。
そこでようやく俺は彼女と目が合った。この店に入ってようやく。
俺は――気づけばほほ笑んでいた。
自分で「ほほ笑んでいた」と言うとなんだか間抜けだけど。実際そうだった。
すると彼女もほほ笑んだ。
彼女のほうは真実のほほ笑みだった。
見つめ合う男女がほほ笑むと、そこに爆発的なエネルギーが生成されるのかもしれない。それとも神秘にも等しい現象が発生するものなのか。俺には分からない。分からないが、これが二人の間にあった氷壁を一気に融点まで上昇させ、あっという間に蒸発させたことは確かだった。
「あのさ、俺、今日がすごく楽しみだったんだ」
自然とその思いが口をついて出ていた。
*
それからは二人ともいつものように接することができた。
ずっと話をしていたけれど、会話が途切れることはなかった。お互いに対して恥ずかしさともどかしさによって言葉につまることはあっても、それでも会話は続けられた。
話したいことがたくさんあった。彼女のことを知りたいし、俺のことも知ってもらいたい。
このパスタ、トマトの味が濃くておいしい!
砂糖の入っていない炭酸水、飲める?
木下さんは赤と黄色、どっちが好き?
どうでもいいようなことを聞きたくなる。でも彼女のことだと、そんなどうでもいいことが大切なことへと昇格する。
彼女がどう思うのか知りたくて俺は質問する。すると彼女が楽しそうに答えてくれる。それがうれしくて俺は別のことを尋ねる。それにも彼女は肩をはずませて答えてくれる。
彼女のほうも俺に尋ねてくれる。
トマトは生と加熱したものとどっちが好き?
コーヒーは砂糖とクリームを入れる人?
このマグカップの青、夏の海の色みたいじゃない?
俺もまたそういったことに一つ一つ答えていく。答えを望んでくれる人がいて、それが俺の好きな人だという。こんな幸せなことはそうそうない。
今日はいつも以上に一つ一つのことに幸せを感じている自分がいた。
ふと思った。
幸せって絶対的な指標では計れないんだろうな、と。
だって今俺、どうでもいいことでなぜか幸せを感じている。
幸せすぎて泣けてきそうだ。
「あ、そうだ」
ポケットからスマートフォンをだし、フリップして、画面上に今朝あいつから届いたばかりの写真を表示させる。
「これ、俺の友達の写真。どう思う?」
彼女がそれを見て小さく息を飲んだ。
「どうしたの?」
「ううん。わあ、小さくてかわいい男の子だね。これ前野くん?」
「違う違う。だから俺の友達の写真だって」
「あ、そうか。ごめん」
彼女がテーブルからジンジャーエールのグラスをとり、ストローで勢いよく吸った。そんな恥ずかしそうなそぶりにすら俺は目を細めてしまう。ちょっと親父くさいが、愛しいと思うとこんなふうな表情になってしまうものなのかもしれない。これからは目を細めている人を見かけたら温かく見守ってあげよう。
「俺の友達さ、今、岐阜の大学に通っているんだけど、昔から演劇やってて。すごい奴なんだ。将来大物俳優間違いなしだっておだててるところ。けっこうかっこいいし」
最後にヨウと会ったときのことを思い出せば嘘は言っていない……はずだ。
「うん、素敵なんじゃないかな」
「ほんと? じゃあそう言っておこうっと。絶対に喜ぶよ、あいつ」
すぐさまチャット画面を開き、ヨウに対して朗報を送る。
スマートフォンをポケットに戻したところで、テーブルの上に置かれた彼女のスマートフォンがチカチカと光った。プッシュ通知のアイコンは俺がよく使うチャットツールのものだ。新しいメッセージが届いたという連絡だと遠目からでも分かる。
彼女が俺の視線に気づいて、スマートフォンを手にとり、そのままバッグにしまった。
「見なくていいの?」
「え?」
「メッセージが届いたんでしょ。そういうの俺気にしないし見ないから、確認したら?」
俺としては親切心で言ったことだったが、彼女の顔が陰った。
「……ううん、いいの。どうせ親からだし」
「そう? ……ならいいけど」
「ねえねえ。それより、そろそろ映画に行かない?」
彼女がひときわ明るい声をあげた。俺はそれに安心して「そうしよっか」そう言って立ち上がった。
人には何からしら言いたくないことがあるものなのだ。俺も彼女も、誰であっても。そして他人の秘密を探る権利なんて誰にもない。たとえ好きな人のことであっても、だ。
俺は笑顔で立ち上がった。
けれどそれが心からのものではないことは自分自身がよく分かっていた。