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1.1 きれいだ

 期待していなかったといえば嘘になる、大学の入学式。


 その日、俺は着慣れない安物のスーツに身を包み、大学までの道のりを歩いていた。同じく安物の合成皮革の靴は足に合っていないようで、まだ道半ばだというのにすでに踵が擦れて痛みを感じている。だが歩き続けるしかない。どうせこの靴は今日一日の出番しかないのだから。それが雑に作られたこの靴の運命というものだ。それは雑に作られた俺自身がよく分かっていることだった。


 アパートを出て、銀座とは名ばかりのさびれた商店街をようやく抜けたころには、俺の気持ちはこの装いに似つかわしい安っぽい感傷にとらわれはじめていた。


 大学へ行って、それで何がどう変わるのか。

 結局俺は今までと何ら変わっていないというのに……。



『お前が生まれたとき、空には雲一つなかったんだよ』


 誰がそう言ったのかは覚えていない。

 だけど俺はそれを覚えていた。物心ついたときには知っていた。


『雲一つなくて、空は高くて、海なんて透き通るようなきれいな青でね』

『太陽はとてもまぶしくて』

『世界のすべてがお前の誕生を祝福しているような、そんな美しい瞬間だったんだよ』


 そんな美しい瞬間だったんだよ――。



 だが今の俺はどうだ。

 祝福されるにふさわしい人間だろうか。

 正しく立派な人間だといえるだろうか。


 人はいつまで変化し続けることができるだろうか。

 今からでもそんな人間になれるだろうか。 


 ――今からでも間に合うだろうか。


 それでもわずかな未来への期待に奮起し、三本目の電柱で角を曲がる。コツコツと革靴が鳴る。崩れかけたアスファルトの道路が歩きにくいことこのうえない。


 それでも――もう少し行けば海を見渡すことができる。


 やわらかな潮風を肌で感じることができる。


 なんとなく小走りになりながら、やがて大きなストライドで、東の空へと続くその道を突き進んでいくと、向かいのガードレールと空との境目が匂うように光を放っていた。そのきらめきに目を細め、開けたとたん――。


 視界いっぱいに光り輝く海が飛びこんできた。


「うわっ……」


 思わず感嘆の声が漏れる。


 引っ越し作業が忙しくて、まだこの辺りをきちんと散策できていなかった。朝特有の、白々とした陽光を受けた海をこの土地で見たのは初めてだった。


 きれいだ。


 そう素直に思える景色だった。


 丸い地球上、どこかで繋がっている唯一の領域、それが海であるはずなのに、見る時間、見る場所が違うだけでまったく別の何かが見える。まったく別の感情が胸に湧き上がる。まるでプリズムのように、覗き方次第で姿が変わってみえる。それは新鮮な驚きだった。


「……この景色を見られただけでも、ここの大学に入学してよかったかな」


 ガードレール沿いに立ちしばらく海を眺めていたが、やがて思いついてポケットからスマートフォンを取り出した。ボタンを押しフリップによってカメラ機能を起動する。どういう構図をとればこの景色のすばらしさを写真に収めることができるだろう。画面をのぞき右に左に回転させ、心が決まったところで思いきってボタンを押した。カシャっという撮影音が人気のないこの場でやけに大きく響いた。


 確認すると写真はそれなりにうまく撮れていた。日の光が入り過ぎていて被写体である海面が見えづらくはあったが、どうせ腕に自信があるわけでもないし、俺には明るさを調整しながら撮影するような高等技術はない。


 タイトルは『春の海』。安直か。


 じゃあ、『門出の海』なんていうのはどうだろう。

 あえて海という言葉は入れないほうがセンスありそうか。


 そんなどうでもいいことを考えながら写真を保存した。


 感動が冷めやらぬままにチャットツールを起動する。このツールだけは使用頻度が高いのもあって操作は手慣れたものだ。というより、スマートフォンで何をするかといったら、チャットをすることと取りこんだ音楽を聴くこと、それくらいだ。そして俺がチャットをする相手は、たまの家族を除けば一人しかいない。


 写真をアップロードし「こっちの海も最高にきれいだ」と一言書いた。タイトルはなし。特に推敲することもなく、ポン、と送信ボタンを押す。実際は無音に設定されているのでただ操作しただけなのだが。


 本体の横にあるボタンを押して画面をオフにし、スマートフォンをポケットに突っこんだ。


 と、背後でピロロンという電子音がした。


 ポケットに手を入れたまま腰だけを回転させて振り向くと、いつの間にいたのだろう、そこには一人の女性がいた。彼女はスマートフォンを手になぜかやや顔を赤らめている。そしてなぜか俺のほうを見ていた。


 長く真っ直ぐな黒髪が風にそよいだ。


 きれいだ。


 そう素直に思える人だった。

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