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FLUORITE(フローライト)   作者: るなこ
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1/5

師匠と弟子

「うわ、まだ生きてるじゃん」



視界の端に、ローブの裾がちらりと見えた。

いつの間にか目の前に立っていたのは、十五歳ほどの見た目の小柄な少女だった。泥に塗れ、空腹でもう動けなくなっていた私に、彼女はいたって平然と言い放った。

今にも死にそうな人間に向かって、最初の一言が「うわ」とは —— 今でこそ笑い話だが、当時の私はそれどころではなかった。ただただ必死で、生きることに精一杯だった。


「おなか…… すいた」


少女は大きくため息をつき、わざとらしく私に聞こえるように低く呟いた。


「せっかく内戦が終わったって聞いて、久しぶりに遠出したっていうのに…… 面倒なことになったわね」

私は声を出せなかった。喉はカラカラに渇き、体は力が抜け、もう喋る気力すらどこにも残っていなかった。


「あーもう、そんな目で見ないでよ。分かったから! これ食べて。おんぶする体力なんてないんだから、自分で歩きなさい!」


彼女はポケットから大きなリンゴを取り出し、私の手のひらにぽんと載せると、もう背を向けて、そそくさと速足で歩き始めた。

リンゴは彼女の体温で温かくなっていた。

追いかけようと、手をついて立ち上がろうとしたが、膝が震えてしまい、足は思うように動かない。

数歩先で彼女が立ち止まった。

私の様子に気づいたらしい。「あーもうっ!」と大きな声を上げ、ひどく面倒くさそうに眉をひそめながらも、戻ってきて私をおぶってくれた。

背中は小さかったけれど、思ったより温かくて、申し訳ない気持ちが、少しだけ胸の奥に込み上げてきた。


「…… あなた、名前は? 何歳?」


背中越しに、小さな声で尋ねた。


「リーナ。十歳」

「あたしはルシエラ。普段は魔女として、魔法の研究をしているわ。これからあたしのことは、師匠と呼びなさい」


その言葉に、静かにうなずいた。


「師匠と呼ぶことに対して、特に疑問を持ったりはしないのね」

「私はあなたに拾われた身だから、命令なら従う」

「命令ってあなたねぇ... 10歳のセリフとは思えないのだけれど」


山道の足音だけが響いて、しばらく沈黙が続いた。


「...リーナ。ちょうど私の家に空き部屋一部屋あるわ。その部屋は自由にしていい。 ただし、タダで置

いておくわけじゃないから。精一杯頑張って働きなさい」


きつい口調の割に、背中の上での体の揺れ方は、私を落とさないようにとても慎重だった。

師匠は本当に体力がないのか、だんだんと息が荒くなって、肩が上下し始めていた。


しばらく歩くと、木々の間が開けた場所に、二階建ての大きなコテージが姿を見せた。


「ほら…… はぁ…… 着いたわよ…… はぁ……」


ぜぇぜぇと息が上がり、吐きそうになりながらも、師匠はコテージの扉に手をかけた。

鍵を開けて中に踏み込んだ途端、彼女は力尽きたようで、そのまま崩れ落ちるように倒れ込んだ。


「お師匠、大丈夫ですか!? こんな時間まで何をしていたんです!?…… って、その子はどなたですか?」


家の中から駆け寄ってきたのは、赤い瞳と短い金髪が印象的な、きちんとした身なりの女の子だった。師

匠を心配そうに見下ろしたかと思うと、すぐに私の方に視線を向け、少し警戒めいた目で問いかけた。


「ちょっと待って…… 息を整えるから……」


床に倒れたまま、師匠は「すーー…… はぁーー」と、大きく深呼吸を繰り返した。

やっと息が落ち着いたところで、苦しそうに笑いながら手を私に向けた。


「この子はリーナ。道端で、もう少しで死にそうになって倒れていたから、拾ってきたの」


師匠はくるりと私の方へ体を向けると、次は金髪の女の子に手を向けた。


「そしてこの子はアリス。あなたと同じ十歳だから、仲良くしなさい」


アリスはにこやかに、ペコリと頭を下げた。


「お師匠。ということは、彼女も後継人(サイドキック)にするおつもりですか?」

「ええ。ともに切磋琢磨できる相手がいた方が、アリスのためにもなるでしょう?」


師匠はフフッと笑いながら、私の頭をそっと撫でた。


「とりあえずお風呂に入ってきなさい。その後でディナーにしましょう。細かい話は、それからでも遅くないわ」


少し熱めのお湯が、冷え切った体の芯まで染み渡った。

泥と疲れを洗い流した後、食卓に出されたのは、湯気の立つ温かい野菜スープ。

こんなにも温かくて、こんなにも美味しいものを、久しぶりに口にした。

スプーンを持つ手が少し震えて、思わず涙が溢れる。

師匠もアリスも、そんな私に何も言わなかった。

ただ静かに、スープを啜る音だけが、暖かい食卓に響いていた。


「ふぅ、ご馳走様。相変わらずアリスは、料理の腕がいいわね」

「もったいないお言葉です。ボクは、お師匠に教わった通りにしただけですから」


アリスは照れくさそうに、少しだけ頬を赤らめた。


「リーナ、部屋に案内するわ。今日はもう、ベッドでゆっくり休みなさい」


そうして私の新たな生活がこの日、始まったのだ。


次の日の朝、私は木漏れ日の温もりで目を覚ました。

柔らかい布団と、窓の外から聞こえる鳥の声。昨日の出来事が夢ではないことを、ゆっくりと確かめながら起き上がった。

食卓に向かうと、既にアリスが朝食の準備をしていた。


「おはようございます。お師匠が庭でお待ちですよ。朝の支度を済ませたら、着替えて会いに行ってあげてください」

「あ、ありがとうございます」

「フフ、ボクに敬語は使わなくていいですよ。ボクは癖が付いてしまっているだけで同い年ですし、これから共に生活する仲ですから。そんなことより、早く行ってあげてください。お師匠は太陽が苦手なくせに、もう三十分も外で待っていますよ」


鍋をかき混ぜながら、アリスはクスリと笑った。


「うん、ありがとう!」


私は急いで支度を済ませ、用意されていた服に着替えた。元はアリスのものなのだろうか、サイズが不思議とぴったりだった。

庭に向かうと、木陰に腰を下ろした師匠が私の姿を見て、一瞬だけ目を輝かせ、駆け寄ってきた。


「おはよう。昨日はよく眠れた?」

「はい。ありがとうございます」


師匠は私の頭をそっと撫でると、「おっほん」とわざとらしく咳払いをした。


「早速本題に入るわ。あなたには魔法を学んで、あたしの跡継ぎになってもらうわ」

「魔法…… 跡継ぎ…… ですか?」


魔法の存在は、知識としてもちろん知っている。だけど自分が使ったことはないし、使えるとも思ってもいない。跡継ぎというのは、恐らく昨日少し話に出ていた”魔女”のことだろうか。

そんな私の戸惑いを感じ取ったのか、師匠はゆっくりと口を開いた。


「昨日も言った通り、あたしは魔女として、魔法の研究を続けてきたわ。…… でも、近い将来、引退しよ

うと思っているの。だけど、これまでの研究の成果を無駄にするわけにはいかないから、これまでアリスを後継者として育ててきたのだけれど……」


師匠は少し言葉を選ぶように言い淀み、家の方を向いて、窓越しに見えるアリスの姿に視線を送った。

「あの子は、とある分野の魔法に関しては、あたしを遥かに超える潜在能力があるわ。努力家だし、魔力そのものに対する適性も非常に高い。確実にあたしを超える才能を持っている。…… だけど、だからこそ、あたしには荷が重いの」


少し間を置いて、師匠は再び私の方を向き、真剣な目で見つめてきた。


「だからと言って、あの子の育成に手を抜くつもりもない。贔屓するつもりも毛頭ない。ただ —— あたしが積み上げてきた研(・)究(・)成(・)果(・)は、あの子の才能とは、どうしても方向性が合わないの。だからリーナ、あなたをあたしと同じレベルまで成長させたい。あたしの魔法を、受け継いでほしいの。そしてアリスと共に、次の魔女になりなさい」

「でも、魔法なんて…」


師匠は不敵な笑みを浮かべて、私を見上げさせるようにした。


「それを教えるからこその “師匠” でしょ。ほら、手を出しなさい」


言われた通りにおずおずと手を差し出すと、師匠はその手をしっかりと握り、静かに目を瞑った。

次の瞬間、師匠の手のひらがポカポカと温かくなったかと思うと、それが細い糸のようになって私の手を

伝い、一気に体中の隅々まで染み渡っていくのを感じた。


「今からあなたの魔力を活性化させるわ。あたしの魔力を直接流し込むことで、眠っているあなたの魔力

を刺激して、目覚めさせるの。…… うんうん、しっかりと魔力は循環できているようね。反発体質だったらどうしようかと、本当は心配してたのよ」


師匠がそう言って手を離した途端、体のポカポカは一気に激しい熱に変わった。

視界がぼやけて、まるで全身が炎の中に投げ込まれたかのように、皮膚も、骨の芯も、焼けるように熱い。


「う…… ぐぅ……」


呼吸が浅くなり、苦しさのあまり、無意識に助けを求めようと師匠に手を伸ばした。

だけど師匠は、私の手を取ろうともせず、冷たく、真剣な面持ちで、ただ私を見下ろしているだけだった。

まさか、騙されたのだろうか?

これまで優しくしてくれたのは、全部演技だったのだろうか?

そんなバカげた疑問が頭をよぎった次の瞬間、激しかった熱が嘘のように、すーっとゆっくり静まった。


「はぁ…… はぁ…… 今のは…… 何だったの……?」


私がぼうぜんと呟くと、今まで眉間にしわを寄せて厳しい表情をしていた師匠の顔が、パッと明るく晴れやかになった。


「偉いわ! よく耐えきったわね、リーナ!」


師匠は思わず私の両肩を抱えるようにして、嬉しそうに笑いかけてきた。


「今の熱は、あなたの魔力が驚いて半分暴走していただけよ。でもこれで、あなたは魔法が使えるはず。


手伝ってあげるから、言うとおりにしてみなさい」

そういうと師匠はもう一度私の手を取り、水平にまっすぐ伸ばしてみせた。

またさっきのような激しい熱さが襲ってくるのかと少し身構えたが、師匠は私の後ろに回り込み「さっき体中に広がった熱の感覚を思い出しながら、私の言うとおりに唱えなさい」と、耳元で柔らかく囁いた。


「準備はいい? まずは『偉大なる炎の精霊よ』」

「い、偉大なる炎の精霊よ」

「つっかえちゃダメよ。落ち着きなさい。ほら、もう一度」

「うぅ...《偉大なる炎の精霊よ》」

「いいわ、続けなさい。『わが名のもとに』」

「《わが名のもとに》」

「『その力の一片を魅せよ』」

「《その力の一片を魅せよ》」

「これで最後よ。『火球(ファイアーボール)』」

「ファイアー...ってわぁぁ!?」


—— 詠唱を言い終わるよりも早く、私の手のひらから勢いよく飛び出した小さな炎の弾は、その勢いを落とすことなく、空の彼方へとまっすぐ飛んでいってしまった。


「プッ...あははは!」

「!? ...笑わないでください!」


師匠は前に屈み込むようにして、お腹を抱えて勢いよく笑いだした。

何が何だかわからないが、何となく恥ずかしい気がして、思わず顔を赤色に染めた。


「全く...お師匠。いじわるはその辺にして、お食事にしませんか。練習はその後でも遅くないですよ」


いつの間にか庭の入口に立っていたアリスが、呆れたような、でも少しだけ嬉しそうな声をかけてきた。窓からは、温かそうなシチューの湯気がかすかに揺らいでいる豊かな食卓が見えた。



それからの生活はとても穏やかで、充実したものだった。

朝はアリスと家事を手伝い、昼は共に魔法と学問を学び、夜は三人で食卓を囲んだ。

意見がぶつかり喧嘩をすることも少なくなかった。だけどそんな時間を重ねるうちに、アリスは本当の姉妹のように私にとってかけがえのない存在になっていた。

師匠は時に厳しく、時に優しく私たちに魔法だけでじゃなくて、文字の読み書きや、薬草の見分け方。

他にも、生きていくうえで必要な知識をたくさん教えてくれた。

初めて魔法を成功させたとき、三人で隣街まで遊びに行ったとき、アリスとの喧嘩を理由に遠くの森まで家出したこともあった。あの時は師匠が血相を変えて私を探しに来て、二人してこっぴどく怒られた。

沢山の思い出の積み重ねは、いつしか私の大切な日常になり——

季節は何度も巡って、そうして八年の時が経った。




・・・




「リーナー?もう朝ですよー?」

「うーん……」


一階から私を呼ぶ声が聞こえる。

ゆっくりと目を開けると、カーテンの隙間から零れる朝日が、私に襲い掛かってくる。思わず毛布を顔まで引き上げ、光を遮る。


「リーナ―?聞いてるんですかー?」

「うるさいぃ……」


布団の中で呟いた私の声は届いていないはずなのに、文句を言った瞬間、アリスが階段を駆け上がってくる足音がはっきりと聞こえた。

まずい。怒られる。

きっとまた『いつまで寝てるんですか!またおしりをひっぱたきますよ!』と言われてしまう。それだけは、何が何でも回避しないと。

アリスが勢いよく扉を開けた。


「リーナ! いつまで寝て…… って、起きてたなら返事をしてくださいよ」


私は慌ててベッドから飛び起き、机の前の椅子に座って魔導書を開き、難しい顔でページを眺める。


「ごめん。少し集中してて、気づかなかったよ」


椅子に座って魔導書を開いている私を見て、アリスの声色は、厳しいお母さんから一転、優しいお姉ちゃんのように柔らかくなった。


「朝からご苦労ですね。私も見習わねば。…… 今週の買い物当番はリーナですから、それだけお願いしま

すね。お食事はこちらに持ってきましょうか?」

「んーん、大丈夫。ありがとうね」


アリスの純粋さを利用するのは、いささか胸が痛い。だけど、こんな私の嘘にすぐに騙されるアリスも、また可愛い。もうしばらくはこのまま騙されてもらおうと心の中で思う。

階下に行く前に、身なりを整えなくては。長く伸びたブロンドの髪を整え、リボンで結ぶ。外出の予定があるので、お気に入りのスカートとシャツを着なくては。

鏡を見ると、青い瞳が今日も輝いている。


「うん、今日も可愛い」


リビングに降りると、師匠はコーヒーを片手に、日課の読書に勤しんでいた。

どうやら今日も、私が一番最後の起床らしい。

アリスは素早い手つきで私の前に朝食を並べると、すぐに庭に出て魔法の鍛錬を始めた。見習わなくちゃいけないのはどうやら私の方らしい。

アリスの料理は、最近さらにクオリティが上がったように感じる。

いつの間にかお手伝いの域を超えてすっかり趣味になったようで、定期的に「新料理」を考えては私や師匠に振る舞ってくれる。師匠は「美味しすぎて、逆にちょっと引いてるわ」と、最高の評価をしていた。


「師匠、今日買い物に麓の町まで行くけど、何か必要なものはある?」


師匠はコーヒーカップを机に置き、読んでいた分厚い本をそっと閉じた。


「特には無いわ。アリスから買い物リストは昨日受け取っているでしょう? それ通りのものだけで十分よ」

「おつりで、少しだけデザートを食べてもいい?」


師匠は呆れたように、ふっとため息を吐いた。


「あなたねぇ、昨日甘いものを食べすぎて『きもちわるい……』って顔色を悪くしてたのは、一体誰のことかしら?」

「だって、美味しいんだもん」

「...あまり食べ過ぎちゃだめよ」


師匠は小さく笑いながら、私の頭をそっと撫でた。

いつまでも子ども扱いされるのは気に食わないが、何歳になっても悪い気はしない。


「じゃあ、行ってくるね!」


師匠は小さく手を振った。



・・・



「これでお買い物は終わりかな」


沢山の食材が入った買い物かごを提げて、町の商店街を後にした。

日差しが柔らかく、通りにはパン屋のいい匂いが漂っている。子供たちの笑い声が響き、誰もが穏やかな日常を送っていた。

師匠に特別に許してもらったデザート 。人気のお店でしか売っていない限定の特製イチゴタルトを手に、私は木陰の静かなベンチに腰を下ろした。

さあ、堪能しよう。手に取り、タルトを口に入れようとしたその時 ——

ドォン!!!!

遠くから、地面を揺るがすような重い爆発音が聞こえた。

私は思わず手を止め、音のする方を見上げる。

その方向は —— 間違いなく、家のある山の奥だった。


「まさか…… 」


唇がぽつりと零れる。しかし、背中に冷たいものが一気に広がっていくのを感じる。

子供の時、内戦で何度も聞いた、あの嫌な音。あの時の、震えるような感覚が、今になって蘇ってきた。

嫌な予感が、頭の中をよぎる。

いや、きっと気のせいだ。師匠もアリスも、きっと大丈夫。

そんなことを考えている間にも、私の足は勝手に動き出していた。

買い物袋が肩に食い込み、息が上がり、脈拍が耳鳴りのように鳴り響く。

道すがら、いつもは穏やかな森の鳥たちが、一斉に木から飛び立っていく。木々の葉が、風もないのにざわざわと不気味に揺れていた。

お願いだから、何もありませんように。

頭の中は焦燥感でいっぱいになり、ただただ走ることだけに集中した。



家のある開けた場所に着いた瞬間、私はその場に立ち尽くした。

いつも優しく迎えてくれたあのコテージが、見るも無残な姿になっていたのだ。

門は砕けて飛び散り、庭の花々は踏み荒らされ、綺麗だった窓ガラスは全て割れている。壁には、黒く焦げた跡が無数に刻まれていた。

そして、庭だった場所の真ん中で ——

アリスが、今まで見たこともないほど剣呑な表情で立っていた。

彼女の手から青白い光が放たれ、向かい合う謎の男に襲いかかった。

相手は、全身を黒いローブで覆い、顔を深い影に隠していた。

アリスの魔法を、まるで埃を払うように軽くかわすと、今度は地面から鋭い岩刃が生み出され、反撃してきた。

アリスは既に足に負担があったのか、反応が一瞬遅れた。

その隙を突いて、鋭い岩の刃が彼女の左の脹脛に深く突き刺さった。


「ぐぁぁ……!」


アリスは膝をつきそうになりながら、必死に体を支えた。鮮やかな赤い血が、彼女の白い靴下を染めていく。


「何度も言わせないでくれ。さっさとルシエラを出せ。そうすれば、お前たちは殺さないと言っているんだ」


低く、冷たい声が、張り詰めた空間に静かに響き渡った。

アリスは唇を噛み締め、痛みに耐えながら更に魔力を高める。彼女の周りの空気が、細かく震え始めた。


「だから、師匠は出かけていると、何度も言っているでしょう!」


その声は、怒りと同時に、痛みと微かな焦りを滲ませていた。

私は状況を理解するよりも早く、体が勝手に動き出していた。

アリスの怪我を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。


「アリスから、離れろ!!」

「リーナ、ダメ!!」


アリスの叫びが聞こえなかったわけではない。頭では止まれと分かっていた。だけど、このままではアリスが殺されてしまう —— その思いだけが、私の足を走らせた。

男との距離を一気に詰め、私は手のひらを向ける。

ぱちぱちと激しい電流が走り、手の先に大きな雷の球が形成される。


「《雷鎚(ボルトショット)》!」


零距離で放たれた雷の塊は、男の体をかすめもせず、そのまま後ろの大きな樫の木に突き刺さった。

次の瞬間、轟音と共に木は真っ二つに割れ、大きな音を立てて崩れ落ちた。

木くずが舞い上がる中、男は微動だにしていない。

彼はゆっくりと、私の方を向いた。


「応用魔法を無詠唱か……。貴様は、最低限のことは教えられているんだな」


その声には驚きも恐れも、何もない。

ただ、冷徹な評価するような視線が、私の背筋に凍るような恐怖を与えた。


「どういう意味だ!」


その言葉に男は、声色一つ変えることなく淡々と答えた。


「そのままの意味だ。そこのガキは貴様と違い、型にはまった一般的な魔法しか使えなかった。全く退屈

な相手だったよ」


男の視線が、再びアリスに向けられる。

アリスはその言葉に一瞬唇を噛んだが、すぐに剣呑な表情に戻り、痛む足を踏ん張って前に一歩踏み出した。


「《氷弾(アイシクル)》!」


鋭い氷柱が、男の目の前まで飛んでいく。


「無駄だ」


男はそれをものともせず、片手でひと掴みにするようにして、氷柱を粉々にかき消して見せた。

その手には、傷一つついていない。


「くっ……!」


力の差は、もはや明らかだった。

私は思わず、アリスの側に駆け寄って彼女を支えながら、小声で問いかけた。


「アリス…… 師匠はどこに行ったの!?」


アリスは視線を男から一瞬も離さず、警戒を続けながら答えた。


「十分ほど前に、薬草を採取しに行くと出発なさいました。まだ遠くには行っていないはずです」

その会話が聞こえていたのか、男が低く笑った。

ちらりと見えた彼の表情は全くの冷静で、額には汗一つかいていない。


「これでも俺は、無駄な殺しはしない主義なんだ。俺にこいつらを殺させるなよ、ルシエラ! 早く出て来い!」


男は大きく腕を挙げた。

すると、彼の頭上には、鋭くとがった巨大な岩の塊が、ゴロゴロと地鳴りのような音を立てて形成され始めた。

それは、私たち二人をまとめて泥のように潰してしまうのに、十分すぎる大きさだった。

足の怪我で動けないアリスを背負って逃げるなんて、不可能だ。

私はアリスを強く抱きしめ、彼女もまた震える手で私の背中にしがみついた。

アリスの身体は恐怖でかすかに震えていた。

もう、終わりなのだ。

私はその時が来るのを覚悟し、ぐっと目を瞑った。

しかし、幸いにも”その時”はいつまでたっても来なかった。

不思議に思い、恐る恐る目を開ける。

すると、視界の端によく知るローブの裾が、ちらりと現れた。


「ごめんなさい、遅くなったわ」


穏やかで、いつも通りの、だけど少し息を切らした彼女の声が真上から聞こえた。


「師匠!!」


その瞬間、今まで堪えていた恐怖が安堵と共に一気に溢れ出し、目の前が滲む。


「やっと出たな、ルシエラ!!」


男は頭上の巨大な岩をそのままに、フードを脱いだ。

太陽の光の下に現れた顔は、無精髭に白髪が混じる、どこにでもいるような普通の中年男だった。しかし、その目は狂気に満ちた光を宿していた。


「さあ!”FLUORITE”の在りかを教えろ!!」


男がそう叫ぶと同時、バゴン!と耳をつんざく大きな音が鳴り響いた。

頭上の岩が砕け、そのかけらたちがまるで砲弾のように、凄まじい勢いで飛んでくる。

師匠は軽く手を挙げるだけで、同じくらいの大きさの石を目の前に出現させた。

飛んできた岩のかけらは、次々と打ち落とされ粉々に砕け散っていく。


「二人とも、あたしが来るまでよく死なないでくれたわね。本当に偉いわ」


いつの間にか、私にもたれかかっていたアリスが、力なく崩れ落ちた。

足の怪我と恐怖、そして極度の疲労から彼女は気絶してしまっているようだった。

私はそんなアリスを抱きしめながら、師匠の背中を見上げる。


「そのまま聞いていなさい。あたし達は、世間一般では『魔法使い』という人種に分類されるわ。魔力を

使い、魔導書に記された魔法を操る。普通の生活をするだけなら、それで十分だわ。…… でも、あなた達はそれじゃダメなの」


男の攻撃は、一向に止まる気配がない。

師匠は余裕の表情でそれを防ぎながら、背中越しに私たちに語りかけた。声には一切の揺るぎがない。


「強くなって、強くなって、もっと強くなって、私の代わりにならなくちゃいけない。『魔女』の跡継ぎになるというのは、そういうことなのよ」


師匠はちらりとこちらを振り返る。その瞳は真剣そのものだった。


「私の使う魔法が、あなた達の使う魔法と違うことには、もう気づいているかしら?」


私は無言で首を横に振った。


「魔法というのは、魔導書などに記されている一般的な魔法の他に、もう一種類あるの。この世の魔法学では一切解明されていない、未知の魔法」


師匠は指をパチンと鳴らした。

その瞬間、男が絶えず生成し続けていた岩の塊が、まるで幻だったかのように跡形もなく消え去った。


「!?…… 何をした!」


男が激しく戸惑いの声を上げた。

師匠の表情は、更に険しく、冷たいものに変わっていた。

今まで一度も感じたことのない、凍てつくような殺気が、彼女の全身から滲み出ている。


「私の大切な子(・)供(・)た(・)ち(・)に、手を出したこと —— 後悔するといいわ」


師匠が静かに、そう告げた。

次の瞬間、男は何の前触れもなく、突然地面に崩れ落ちた。


「がぁ……!」


小さくうなり声を上げたかと思うと、その頭部が、まるで果物のようにぐしゃりと音を立てて潰れた。

あまりにも突然で、あまりにも凄惨な光景に、私は思わずアリスを強く抱きしめ、目を背けた。


「これが”異能”よ。一般的な魔法とは全くの別物で、常識をねじ曲げる秘術。使い手によってその性質は異なり、突然才能が発覚する者もいれば外的要因で覚醒する者もいる。北方のとある国には、一家相伝で異能を代々継いでいる一族も存在するわ」


師匠は、男の亡骸を一瞥するだけで、すぐに私たちの方を向いた。


「この異能を操る者たちは、普通の魔法使いとは明確に区別され、”魔術師”と呼ばれるの。そして、その中でも格別な力を持ち、世界に影響を与えた者たちを、人々は畏怖を込めて『魔王』と称した」


師匠は表情一つ変えることなく、淡々と説明を続けた。

その声はあまりにも平穏で、まるで教科書を読み上げているようだった。


「魔王と称される人物は、現在六人存在するわ。

『覇王』ラプラス・コラプディウス。

『神龍』バハムート。

『人工天使』シエル・アスタロト。

『双黒炎』クロア・ライオンハートとクロエ・ライオンハート。

そして...」


師匠はここで一瞬だけ、間を置いた。

夕暮れの風が、彼女のローブの裾をなびかせる。


「『魔女』ルシエラ=ミルドレッド」


私は口を開こうとしたが、言葉が出てこない。

ただ、ぽかんと師匠の顔を見つめることしかできなかった。

師匠はそんな私の反応を見て、少しだけ、苦しそうな、そして寂しそうな笑みを浮かべるだけだった。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

はじめまして。るなこです。


初めての投稿ですが、私の妄想をしっかりと表現できたと感じる出来になったので良かったです。

今回の記念すべき第一話では、平穏な日常が一気に崩れていく中で、リーナとアリスの絆、そして師匠ルシエラの隠された一面が明らかになりました。

師匠の異能の詳細などもこれから明らかにしていくつもりなので、温かく見守ってくれれば幸いです。


二話がいつになるかはわかりませんが、応援していただけるととても喜びます。

投稿する直前で読みやすいように改行する作業をしてしまったので、感想だけでなく、誤字脱字報告もなどありましたら、気軽にお願いいたします!


では、また次回!

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