第2話 消えた母
孤独死だった。
九月の終わり。
市役所から紹介を受け、俺は奈良市内の古い団地を訪れていた。
エレベーターのない五階。
湿ったコンクリートの廊下に、夕方の風が吹き抜ける。
部屋のポストには、管理会社の白い封シールが貼られていた。
「こちらです」
管理会社の男が鍵を開ける。
ドアが軋む。
中には、まだ微かに消毒薬みたいな匂いが残っていた。
部屋の主は、
森川 幸恵、六十八歳。
死後十日ほど。
近所の住人が異臭に気付き、発見されたらしい。
◇
部屋には、生活の輪郭だけが残っていた。
畳は剥がされ、
むき出しの板間が白く乾いている。
壁際には、小さな液晶テレビ。
古い冷蔵庫。
窓際では、首振りの扇風機が止まったままこちらを向いていた。
台所には、丁寧に洗われた食器が伏せてある。
湯呑みは一つ。
箸も一膳だけだった。
「保証人も身寄りもなしでして」
管理会社の男が言う。
「市役所から、相続関係だけ確認してほしいと」
「わかりました」
俺は室内を見回した。
棚の上に、写真立てが置かれている。
老人会の旅行写真だった。
温泉旅館の前。
十人ほどの老人たちが並んでいる。
その端で、森川幸恵が少し遠慮したみたいに笑っていた。
遺品を確認する。
通帳。
保険証券。
古い診察券。
そして、幸恵の顔を見た瞬間、白い線が浮かぶ。
両親、死亡。
兄弟、死亡。
その中で。
一本だけ、細い線が遠くへ伸びていた。
長い間、触れられていないみたいに弱い線。
その先に、小さく名前が見える。
奥田 恒一。
俺は視線を止めた。
◇
事務所へ戻り、戸籍を追った。
森川幸恵。
婚姻歴なし。
三十七年前、一件だけ出産記録。
男児。
出生後、特別養子縁組。
以降、戸籍上から親子関係は消えている。
奥田 恒一。
現在四十歳。
神戸市在住。
印刷会社勤務。
法的には相続人ではない。
だが。
幸恵は遺言を残していた。
公正証書遺言。
『奥田恒一へ、預貯金および有価証券の全部を遺贈する』
受遺者欄には、はっきりそう書かれている。
預金残高を見て、俺は少し眉をひそめた。
三千四百万円。
団地で一人暮らしをしていた人間の額じゃない。
通帳を開く。
年金が入る。
生活費だけが引き出される。
それ以外、ほとんど減っていない。
森川幸恵は、金を使わなかったのではない。
使えなかったのだ。
◇
遺品の整理中、小さな紙袋が見つかった。
中には、クリアファイル。
何枚ものコピー用紙。
新聞記事。
地域広報。
全部、奥田恒一についてだった。
『神戸市印刷技術コンクール入賞』
『奥田印刷 新工場設立』
『社員インタビュー』
会社のホームページを印刷した紙まである。
紙の端は、何度も折り直されていた。
会ってはいない。
だが。
ずっと見ていた。
◇
数日後。
俺は神戸の印刷会社を訪ねていた。
工場の奥から機械音が響いている。
「はい?」
出てきた男は、作業着姿だった。
四十前後。
少し疲れた顔。
インクの匂い。
顔を見た瞬間、線が繋がる。
間違いない。
森川幸恵の息子だった。
「突然すみません。司法書士の坂東と申します」
名刺を差し出す。
「奥田恒一さんでお間違いないですか」
「そうですけど」
怪訝そうな顔。
「遺言の件で、お話があります」
「遺言?」
「森川幸恵さんという方が亡くなられました」
奥田の表情が止まる。
「……誰ですか」
「あなたの実母です」
工場の機械が止まる音がした。
急に静かになる。
「会ったこと、ないんですけど」
「ええ」
「なんで俺に」
「遺言が残されていました」
俺は封筒を差し出した。
奥田は、すぐには受け取らなかった。
◇
近くの喫茶店に入った。
奥田はアイスコーヒーに手をつけないまま、封筒を見ていた。
「俺、生まれてすぐ施設に預けられたらしいんです」
窓の外を見たまま言う。
「そのあと、今の親に引き取られた」
テーブルの氷が静かに溶ける。
「育ての親には感謝してます。普通に愛されましたし」
少し笑う。
「だから別に、実の親探したいとか思ったことなくて」
封筒を開く。
中には遺言書の写しと、一枚の手紙。
『奥田恒一様
母と名乗る資格はありません。
あなたを手放したことを、毎日後悔していました』
奥田は、そこで読むのを止めた。
俯いたまま、しばらく動かない。
「……三千万?」
「預金の大半です」
「こんなの……」
通帳コピーを見つめたまま呟く。
「俺のために、こんな生活してたんですか」
俺は答えなかった。
むき出しの板間。
小さなテレビ。
止まった扇風機。
一膳だけの箸。
全部、頭に浮かんでいた。
「先生」
「はい」
「その人、俺のこと……」
言葉が止まる。
最後まで言えなかった。
でも、もう十分だった。
◇
森川幸恵の遺骨は、市の保管施設に安置されていた。
白い棚が並ぶ、小さな納骨室。
骨箱の側面には、黒いマジックで名前が書かれている。
『森川 幸恵』
その下に、行政管理番号のシール。
無機質な数字だった。
奥田は、しばらく骨箱の前で立ち尽くしていた。
会ったこともない母親。
声も知らない。
顔も、遺影でしか見たことがない。
「来てくださってありがとうございます」
俺が声をかけると、奥田は少し苦笑した。
「正直、迷ったんです」
骨箱を見たまま言う。
「でも」
短く息を吐く。
「来ないと、後悔する気がしたので」
納骨室の換気扇が、低い音を立てている。
白い箱は何も答えない。
人生は交わらなかった。
親子として生きた時間もない。
それでも。
最後に、線はここへ繋がった。
◇
帰り際、奥田は小さく頭を下げた。
「先生」
「はい」
「連絡してくれて、ありがとうございました」
その顔は少しだけ、森川幸恵に似ていた。
俺は一人残り、納骨室の白い棚を見上げた。
人は間違える。
逃げる。
捨てる。
戻れない場所まで行ってしまう。
それでも。
完全には切れないものがある。
白い骨箱の向こうで、細い線が静かに揺れていた。
今日もまた、一本の線が、ようやく辿り着いた気がした。




