第1話 父の名前
人の顔を見ると、名前が見える。
頭の少し上。
白い文字。
そこから糸みたいな線が伸びる。
父、母、兄弟、子供。
線は枝分かれして、人を中心に家系図を作る。
昔からずっとそうだった。
最初は、みんな見えているものだと思っていた。
幼稚園の頃。
友達の家で、母親に言ったことがある。
「この人、お父さんじゃないよね」
部屋の空気が止まった。
それ以来、俺は線のことを話さなくなった。
知らなくていいことが、この世にはある。
◇
奈良駅から少し歩いた雑居ビル。
二階の端に、小さな司法書士事務所がある。
朝九時。
シャッターの開く音が下の商店街から聞こえてくる。
缶コーヒーを飲みながら、俺は今日の予定を確認した。
「先生、九時半のお客様来られました」
事務員の西田が顔を出す。
「はい」
ネクタイを直して応接室へ入る。
窓際のソファに、女性が座っていた。
五十代半ばくらい。
紺色のカーディガン。
膝の上に黒いバッグ。
「初めまして。坂下です」
顔を見た瞬間、線が浮かぶ。
坂下 美津子。
そこから白い線が伸びる。
夫。
両親。
そして息子。
俺は、一瞬だけ視線を止めた。
息子の線だけ、夫と繋がっていなかった。
別の男へ伸びている。
「先生?」
「あ……失礼しました」
俺は椅子に座った。
「本日はどういったご相談で」
「主人が亡くなりまして」
バッグから遺影が出される。
穏やかそうな男だった。
遺影を見た瞬間、その男の線も浮かぶ。
やはり、息子とは繋がっていない。
「相続手続きをお願いしたくて」
「かしこまりました」
俺は資料を開いた。
「相続人は奥様と、ご子息お一人ですか」
「ええ」
美津子は少し笑った。
「孝志っていうんです。もう二十八なんですけど、今でも優しい子で」
その言い方が、妙に引っかかった。
愛情と。
少しの罪悪感。
長年、この線を見ていると、なんとなくわかる。
◇
一週間後。
息子の孝志が事務所に来た。
「初めまして。坂下孝志です」
三十前くらい。
黒縁眼鏡。
少し猫背。
柔らかい声。
そして頭上には、別の男へ繋がる線。
「お忙しい中ありがとうございます」
「いえ」
孝志は笑った。
「母から、優しい先生だって聞いてます」
戸籍を確認しながら、俺はなるべく顔を見ないようにした。
見たところで、意味はない。
「お父様とは仲が良かったんですか」
「そうですね」
孝志は少し考えた。
「厳しかったですけど」
「厳しい?」
「礼儀とか挨拶とか。子供の頃、よく怒られました」
懐かしそうに笑う。
「でも、大学も行かせてくれましたし、就職失敗した時も何も言わなかった」
机の上の戸籍。
そこに並ぶ名前。
視界の端で、白い線が揺れている。
「最後、病院で言われたんです」
孝志は視線を落とした。
「『お前は俺の自慢の息子や』って」
窓の外を救急車が通り過ぎる。
赤色灯が、部屋の壁を一瞬だけ染めた。
◇
夜。
事務所には俺しか残っていなかった。
デスクライトの下で戸籍を開く。
もちろん、書類に問題はない。
戸籍は真実を書くものじゃない。
社会的に認められた関係を書くものだ。
だから、ときどき嘘が混じる。
昔の俺は、それが嫌だった。
見えているものと、書類が違うことが。
でも今は。
どっちが本当なのか、わからなくなる。
スマホが震えた。
坂下美津子。
「もしもし」
『夜分すみません』
声が掠れていた。
『少し、お時間いただけませんか』
◇
駅前の喫茶店。
閉店前で、客はほとんどいなかった。
窓の外では雨が降っている。
美津子はコーヒーに口をつけないまま、外を見ていた。
「主人、最後の方……変なこと言ってたんです」
「変なこと?」
「『孝志を頼む』って」
彼女は少し笑った。
「変ですよね。実の息子なのに」
カップに落ちた照明が揺れる。
「あと……」
美津子は言葉を切った。
「『ごめんな』って」
指先が小さく震えている。
「私、ずっと意味がわからなくて」
違う。
本当は、わかっている。
ずっと。
わからないふりをしてきただけだ。
「先生」
美津子が顔を上げる。
「血の繋がりって、そんなに大事なんでしょうか」
店の奥で食器の音がした。
俺はすぐに答えられなかった。
頭の中では、今日も白い線が揺れている。
「……わかりません」
ようやく口を開く。
「でも、一緒にいた時間は消えないと思います」
美津子の目に涙が浮かぶ。
「主人、本当に孝志を可愛がってたんです」
ぽろりと涙が落ちた。
「自分の子みたいに」
違う。
“みたい”じゃない。
あの男は、父親だった。
◇
手続きが終わる頃には、季節が少し変わっていた。
昼間の風が柔らかい。
最後の書類確認の日。
孝志が一人で事務所に来た。
「母、風邪ひいちゃって」
苦笑しながら椅子に座る。
「親父が死んでから無理してたんでしょうね」
「そうですか」
朱肉の蓋を開ける音。
紙をめくる音。
静かな部屋だった。
「先生」
「はい」
「変な話していいですか」
「どうぞ」
孝志は少し笑った。
「俺、小さい頃から親父に似てないって言われてたんですよ」
俺は顔を上げなかった。
「親戚にも、近所にも」
彼は肩をすくめる。
「でも親父、一回も気にしたことなかった」
沈黙。
エアコンの風だけが聞こえる。
「だから俺も、どうでもよくなって」
孝志は印鑑を置いた。
「親父って、不器用でしたけど」
少し笑う。
「最後まで、ちゃんと親父でした」
机の上の戸籍謄本。
そこに並ぶ名前。
白い線は、今日も繋がっていない。
——なのに。
なぜか、切れているようには見えなかった。
◇
事務所の前で二人を見送る。
「本当にありがとうございました」
美津子が頭を下げる。
隣で孝志も頭を下げた。
夕陽が二人の背中を照らしている。
母と子。
頭上の線は、今も別の場所へ伸びたままだ。
それでも。
あの二人の間には、確かに積み重なった時間がある。
血より長く。
戸籍より深い時間。
二人が駅の方へ歩いていく。
俺は空を見上げた。
昔から、この目が嫌いだった。
知らなくていいことばかり見えるから。
でも今日。
少しだけ思った。
見えないものも、人にはある。
そしてたぶん。
大事なのは、そっちなのだ。




