表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

第1話 父の名前

人の顔を見ると、名前が見える。


 頭の少し上。


 白い文字。


 そこから糸みたいな線が伸びる。


 父、母、兄弟、子供。


 線は枝分かれして、人を中心に家系図を作る。


 昔からずっとそうだった。


 最初は、みんな見えているものだと思っていた。


 幼稚園の頃。


 友達の家で、母親に言ったことがある。


「この人、お父さんじゃないよね」


 部屋の空気が止まった。


 それ以来、俺は線のことを話さなくなった。


 知らなくていいことが、この世にはある。


     ◇


 奈良駅から少し歩いた雑居ビル。


 二階の端に、小さな司法書士事務所がある。


 朝九時。


 シャッターの開く音が下の商店街から聞こえてくる。


 缶コーヒーを飲みながら、俺は今日の予定を確認した。


「先生、九時半のお客様来られました」


 事務員の西田が顔を出す。


「はい」


 ネクタイを直して応接室へ入る。


 窓際のソファに、女性が座っていた。


 五十代半ばくらい。


 紺色のカーディガン。


 膝の上に黒いバッグ。


「初めまして。坂下です」


 顔を見た瞬間、線が浮かぶ。


 坂下 美津子。


 そこから白い線が伸びる。


 夫。


 両親。


 そして息子。


 俺は、一瞬だけ視線を止めた。


 息子の線だけ、夫と繋がっていなかった。


 別の男へ伸びている。


「先生?」


「あ……失礼しました」


 俺は椅子に座った。


「本日はどういったご相談で」


「主人が亡くなりまして」


 バッグから遺影が出される。


 穏やかそうな男だった。


 遺影を見た瞬間、その男の線も浮かぶ。


 やはり、息子とは繋がっていない。


「相続手続きをお願いしたくて」


「かしこまりました」


 俺は資料を開いた。


「相続人は奥様と、ご子息お一人ですか」


「ええ」


 美津子は少し笑った。


「孝志っていうんです。もう二十八なんですけど、今でも優しい子で」


 その言い方が、妙に引っかかった。


 愛情と。


 少しの罪悪感。


 長年、この線を見ていると、なんとなくわかる。


     ◇


 一週間後。


 息子の孝志が事務所に来た。


「初めまして。坂下孝志です」


 三十前くらい。


 黒縁眼鏡。


 少し猫背。


 柔らかい声。


 そして頭上には、別の男へ繋がる線。


「お忙しい中ありがとうございます」


「いえ」


 孝志は笑った。


「母から、優しい先生だって聞いてます」


 戸籍を確認しながら、俺はなるべく顔を見ないようにした。


 見たところで、意味はない。


「お父様とは仲が良かったんですか」


「そうですね」


 孝志は少し考えた。


「厳しかったですけど」


「厳しい?」


「礼儀とか挨拶とか。子供の頃、よく怒られました」


 懐かしそうに笑う。


「でも、大学も行かせてくれましたし、就職失敗した時も何も言わなかった」


 机の上の戸籍。


 そこに並ぶ名前。


 視界の端で、白い線が揺れている。


「最後、病院で言われたんです」


 孝志は視線を落とした。


「『お前は俺の自慢の息子や』って」


 窓の外を救急車が通り過ぎる。


 赤色灯が、部屋の壁を一瞬だけ染めた。


     ◇


 夜。


 事務所には俺しか残っていなかった。


 デスクライトの下で戸籍を開く。


 もちろん、書類に問題はない。


 戸籍は真実を書くものじゃない。


 社会的に認められた関係を書くものだ。


 だから、ときどき嘘が混じる。


 昔の俺は、それが嫌だった。


 見えているものと、書類が違うことが。


 でも今は。


 どっちが本当なのか、わからなくなる。


 スマホが震えた。


 坂下美津子。


「もしもし」


『夜分すみません』


 声が掠れていた。


『少し、お時間いただけませんか』


     ◇


 駅前の喫茶店。


 閉店前で、客はほとんどいなかった。


 窓の外では雨が降っている。


 美津子はコーヒーに口をつけないまま、外を見ていた。


「主人、最後の方……変なこと言ってたんです」


「変なこと?」


「『孝志を頼む』って」


 彼女は少し笑った。


「変ですよね。実の息子なのに」


 カップに落ちた照明が揺れる。


「あと……」


 美津子は言葉を切った。


「『ごめんな』って」


 指先が小さく震えている。


「私、ずっと意味がわからなくて」


 違う。


 本当は、わかっている。


 ずっと。


 わからないふりをしてきただけだ。


「先生」


 美津子が顔を上げる。


「血の繋がりって、そんなに大事なんでしょうか」


 店の奥で食器の音がした。


 俺はすぐに答えられなかった。


 頭の中では、今日も白い線が揺れている。


「……わかりません」


 ようやく口を開く。


「でも、一緒にいた時間は消えないと思います」


 美津子の目に涙が浮かぶ。


「主人、本当に孝志を可愛がってたんです」


 ぽろりと涙が落ちた。


「自分の子みたいに」


 違う。


 “みたい”じゃない。


 あの男は、父親だった。


     ◇


 手続きが終わる頃には、季節が少し変わっていた。


 昼間の風が柔らかい。


 最後の書類確認の日。


 孝志が一人で事務所に来た。


「母、風邪ひいちゃって」


 苦笑しながら椅子に座る。


「親父が死んでから無理してたんでしょうね」


「そうですか」


 朱肉の蓋を開ける音。


 紙をめくる音。


 静かな部屋だった。


「先生」


「はい」


「変な話していいですか」


「どうぞ」


 孝志は少し笑った。


「俺、小さい頃から親父に似てないって言われてたんですよ」


 俺は顔を上げなかった。


「親戚にも、近所にも」


 彼は肩をすくめる。


「でも親父、一回も気にしたことなかった」


 沈黙。


 エアコンの風だけが聞こえる。


「だから俺も、どうでもよくなって」


 孝志は印鑑を置いた。


「親父って、不器用でしたけど」


 少し笑う。


「最後まで、ちゃんと親父でした」


 机の上の戸籍謄本。


 そこに並ぶ名前。


 白い線は、今日も繋がっていない。


 ——なのに。


 なぜか、切れているようには見えなかった。


     ◇


 事務所の前で二人を見送る。


「本当にありがとうございました」


 美津子が頭を下げる。


 隣で孝志も頭を下げた。


 夕陽が二人の背中を照らしている。


 母と子。


 頭上の線は、今も別の場所へ伸びたままだ。


 それでも。


 あの二人の間には、確かに積み重なった時間がある。


 血より長く。


 戸籍より深い時間。


 二人が駅の方へ歩いていく。


 俺は空を見上げた。


 昔から、この目が嫌いだった。


 知らなくていいことばかり見えるから。


 でも今日。


 少しだけ思った。


 見えないものも、人にはある。


 そしてたぶん。


 大事なのは、そっちなのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ