第13話 驚かせたかった
司法書士になって十数年。
それでも、一度しか扱ったことのない手続きがある。
限定承認。
相続によって財産を受け継ぎながら、被相続人の債務については、相続した財産の範囲でのみ責任を負う制度だ。
法律を学ぶ者なら誰もが知っている。
だが、実務では滅多に出会わない。
相続人全員が共同で家庭裁判所へ申し立てなければならない。
一人でも反対すればできない。
相続財産目録の作成、官報公告、債権者への対応。
時間も手間もかかる。
結局、多くの人は相続放棄を選ぶ。
司法書士としても、一生に何件経験するかわからない手続きだった。
◇
午後の事務所。
西原の携帯電話が鳴った。
事務所の電話ではない。
個人の携帯だった。
「もしもし」
仕事とは少し違う声だった。
親戚なのか。
友人なのか。
そこまではわからない。
俺は書類を見ながら、自然と耳がそちらへ向いていた。
「限定承認ですか?」
その言葉で、思わず顔を上げる。
珍しい。
それだけで記憶に残る言葉だった。
「相続人は何人ですか?」
少し間があく。
「三人ですか……。
三人とも限定承認をする意思がないとできません」
俺はペンを止めた。
「相続放棄みたいに一人だけではできないんです」
西原は落ち着いて話している。
「家庭裁判所への申立ても必要ですし、財産目録も作らないといけません。
時間もかかります」
そこまで知っているのか。
少し驚いた。
「それと……」
西原は続ける。
「お父さんの物を処分したり、名義を変えたりしていませんか?
場合によっては、相続放棄や限定承認が難しくなることもあります」
俺は思わず西原を見た。
そこまで具体的な話が出てくるとは思わなかった。
「まずは弁護士さんか司法書士さんに相談してください」
電話が終わる。
◇
「知り合いですか?」
俺が聞く。
「はい」
西原は少し照れたように笑った。
「親戚みたいな人です」
「限定承認なんて、よく知ってましたね」
「あ、少し調べてたので」
それだけ言うと、何事もなかったように仕事へ戻った。
俺もそれ以上は聞かなかった。
「何か手伝おうか?」
声をかけると、西原は振り返る。
「ありがとうございます」
嬉しそうに笑う。
「でも、大丈夫です」
その笑顔が妙に印象に残った。
だが、その意味までは考えなかった。
◇
限定承認。
その言葉で、一件の依頼を思い出した。
父親が亡くなった。
相続人は一人息子。
「先生、軽トラックだけ名義変更してください」
理由は単純だった。
「畑仕事で使うんです」
農家にとって軽トラックは生活そのものだ。
その時は、それで終わった。
だが数か月後。
息子が血相を変えて事務所へ飛び込んできた。
「先生、父に保証債務があったんです」
知人の借金の保証人になっていた。
数百万円の請求。
「相続放棄できますか」
そう聞かれた。
だが、すでに軽トラックの名義変更をしていた。
それが相続財産の処分と判断される可能性があり、相続放棄や限定承認が難しくなることもある。
「そんな……」
息子は肩を落とした。
「畑で使いたかっただけなのに」
悪意はない。
法律を知らなかっただけだった。
それでも、知らなかったでは済まないことがある。
法律は、ときどき残酷だ。
◇
季節が変わった。
忙しかった年度末も終わり、事務所にも少しだけ静かな時間が戻ってきた。
「先生」
西原が封筒を持ってきた。
「少し、お時間いいですか?」
「はい」
西原は嬉しそうでもあり、少し緊張しているようにも見えた。
「実は……」
封筒を差し出す。
「行政書士試験、合格しました」
一瞬、言葉が出なかった。
西原を見る。
目だけが大きく開く。
「……先生?」
「……」
「そんなに驚かないんですね」
少し残念そうに笑う。
違う。
驚いていた。
驚きすぎると、俺は何も言えなくなる。
「……本当に?」
やっとそれだけ言えた。
「はい」
合格通知を見せてくれる。
本物だった。
「おめでとうございます」
ようやく言葉が出た。
西原は安心したように笑った。
「ありがとうございます」
◇
「実は、ずっと内緒にしてたんです」
「どうして?」
「先生を驚かせたくて」
その一言で、数か月前の電話が頭に浮かんだ。
「そういえば……」
西原が笑う。
「あの時、限定承認の電話してたでしょう?」
「はい」
「あれ、勉強してたからですか?」
「そうなんです」
少し恥ずかしそうに頷く。
「行政書士の勉強をしていて、限定承認がどうしても難しくて。
ちょうど知り合いから相談を受けたので、先生ならどう説明するのかなって聞いてみたかったんです」
「ああ……」
すべてが繋がった。
「あの時、勉強してるって言ったら、先生に気付かれそうだったので」
だから詳しかったのか。
だからあんなに熱心だったのか。
あの電話は相談だけじゃなかった。
西原なりの勉強だった。
そして。
今日、この合格を見せて俺を驚かせるための、小さな秘密だった。
◇
行政書士に合格したことも嬉しかった。
それ以上に。
何か月も秘密にしてまで、俺を驚かせようとしてくれていたことが嬉しかった。
そんなことを考えてくれていた。
その事実だけで、胸の奥が少し温かくなった。
◇
「先生?」
西原が不思議そうに覗き込む。
「どうしました?」
「いや……」
言葉にならない。
今まで何度も感じていた、説明のできない胸のざわつき。
銀行員が西原を食事に誘った時。
誰かが西原を褒めた時。
一緒に残業して、他愛もない話をしている時。
その理由が、少しだけわかった気がした。
◇
西原の頭の上には、今日も白い線が見える。
両親。
兄弟。
祖父母。
俺に見えるのは、血の繋がりだけだ。
その中に、俺はいない。
当たり前だ。
けれど、人と人を繋ぐものは、それだけじゃない。
誰かに喜んでほしい。
誰かを驚かせたい。
そんな小さな気持ちもまた、人と人を繋ぐのだろう。
その線は、俺には見えない。
だからこそ、大切なものなのかもしれない。
俺は毎日、人の繋がりを仕事にしている。
それなのに、自分が誰かと繋がっていくことには、驚くほど鈍かった。
ようやく、その一本の線が見え始めた気がした。




