第10話 余裕な顔
年度末だった。
銀行は、住宅ローンの借換案件を大量に抱える時期だ。
借換では、古い銀行の抵当権を抹消し、新しい銀行の抵当権を設定する。
つまり司法書士が動かなければ、融資実行はできない。
だから毎年この時期になると、銀行も司法書士も空気が少し荒れる。
◇
その日の午後。
事務所の電話が鳴った。
「坂東先生!」
若い男の声だった。
焦っているのがすぐわかる。
「今日中に抹消と設定、両方お願いしたいんです!」
西原が受話器を押さえて、小声で言う。
「また銀行っぽいですね」
俺は頷いた。
「書類は?」
『まだです!』
「……まだ?」
『でも、お客様もう引越し業者呼んでまして!』
嫌な予感しかしない。
◇
「印鑑証明は?」
『これから市役所です!』
「登記識別情報は?」
『たぶんあります!』
「“たぶん”で抵当権は消えません」
電話の向こうで、若い銀行マンが完全に詰まった。
西原が吹き出しそうになっている。
◇
それでも銀行側は必死だった。
理由はわかる。
銀行には“数字”がある。
月末。
期末。
実行件数。
一件通るだけで支店の空気が変わる。
融資担当は、その数字に追われている。
だが司法書士が見ているのは別だ。
事故。
本人確認。
書類不備。
もし誤れば、数千万円単位の責任問題になる。
同じ案件を扱っていても、見ている方向が少し違う。
◇
夕方五時過ぎ。
事務所のドアが勢いよく開いた。
「先生!」
若い銀行マンが汗だくで飛び込んできた。
二十代後半くらい。
スーツは乱れ、髪も崩れている。
紙袋を両手で抱えていた。
「全部揃いました!」
その後ろで、西原が「うわ……」と小さく呟く。
本当に走ってきた顔だった。
◇
机に書類を並べる。
印鑑証明。
委任状。
登記識別情報。
住民票。
全部ある。
少なくとも一見すると。
俺は無言で確認していく。
銀行マンが唾を飲む音が聞こえた。
そして。
委任状で指が止まる。
◇
「……銀行さん」
「はい!」
「委任状の日付、未来です」
沈黙。
「え?」
「明日の日付になってます」
銀行マンが固まる。
確認する。
本当に未来日付だった。
「終わった……」
本気で顔が青くなっていた。
年度末の銀行員にとって、“実行できません”はかなり重い。
◇
西原が小さく聞く。
「どうします?」
俺は時計を見る。
午後五時半。
市役所も閉まっている。
普通なら延期だった。
だが借換案件は、既存ローンの完済予定も絡む。
止めると面倒になる。
「まだ終わってない」
俺は立ち上がった。
「今からお客様の家へ行く」
◇
銀行マンが顔を上げる。
「え……?」
「本人確認をやり直します」
「今からですか?」
「今からです」
西原がすぐ鞄を準備し始める。
こういう時、動きが早い。
◇
夜。
郊外の住宅地。
借換のお客様は、夫婦で何度も頭を下げていた。
「すみません、本当にすみません」
「大丈夫です」
俺は免許証を確認する。
住所。
氏名。
本人確認。
委任状訂正。
訂正印。
一つずつ確認していく。
銀行マンは横で縮こまっていた。
◇
事務所へ戻った頃には、夜十時を回っていた。
西原がコーヒーを置く。
「先生、お疲れさまです」
「西原さんも」
銀行マンは完全に燃え尽きた顔だった。
「本当に助かりました……」
「明日の朝一で申請します」
そう言うと、銀行マンは深く頭を下げた。
◇
数日後。
その銀行マンが菓子折りを持ってきた。
「この前は本当にありがとうございました」
以前より少し落ち着いた顔になっている。
「銀行は“今日中”って簡単に言いますけど」
俺は苦笑する。
「本当に怖いのは、急いで雑になることなんです」
銀行マンが頷く。
「でも先生、司法書士ってみんな余裕そうに見えるんですよ」
「余裕じゃない」
俺は答える。
「顔に出さないだけです」
西原が横で笑った。
「先生、確かに顔変わらないですもんね」
「変わってますよ」
「全然です」
◇
そのあと、銀行マンが西原へ向き直る。
「西原さん、今度ご飯でもどうですか?」
自然な流れだった。
だが西原は、一瞬だけこちらを見た。
本当に一瞬だった。
それだけなのに、妙に気になった。
「みんなでなら」
西原が笑って答える。
「いや、できれば二人で」
銀行マンも素直だった。
西原がまた、ちらっとこちらを見る。
俺はなぜか落ち着かない気持ちになっていた。
◇
銀行マンが帰ったあと、西原が書類を整理しながら言う。
「人気者ですね、先生のとこ」
「銀行に振り回されてるだけです」
「でも、あの人いい人そうでしたよ」
「そうですね」
そう答えたが、胸の奥が少しざわついていた。
理由はよくわからない。
◇
窓の外では、街の灯りが続いている。
銀行。
司法書士。
不動産業者。
互いに文句を言いながら、それでも最後は連携している。
銀行は、“お金を動かす責任”を背負っている。
司法書士は、“権利を間違えない責任”を背負っている。
見ている方向が少し違うだけだ。
だから衝突する。
だが現場では、結局みんな同じ流れを止めないために動いている。
◇
白い線が見える。
親子。
兄弟。
夫婦。
だが人は、血縁だけで繋がっているわけじゃない。
仕事。
時間。
積み重ね。
そういうもので、人は少しずつ誰かと繋がっていく。
そして俺は。
人の繋がりを見ることには慣れているのに、自分の感情には驚くほど鈍かった。
西原が、机の向こうで笑っている。
その顔を見るたびに、胸の奥が少しだけ騒がしくなる理由を、俺はまだ知らなかった。




