第二章 アイアムフライ
ピンポーン。
インターフォンの音で俺の意識は眠りから醒めた。
時計を見る。時刻は土曜の午後四時。
昨日は大分遅くまで起きていたからな。俺の体はまだ睡眠を欲している。よって来訪者は無視だ。
コンコン……ドンドンドン。
諦めろ。俺は二度寝コースを突き進む。
……。
…………。
――ドガシャーン!!
なっ、なんだ今の破壊音は!?
玄関で何が起こったのかを確認するために、ベッドから飛び出し、階段を駆け下りる。
玄関は見るも無残になっていた。舞い上がっている埃、粉砕された扉、何があったんだよ。
そんな異様な光景の中、立っていたのは一人の女性だった。
背が高い。一八0はあるな。凛々しい顔立ちをしていて素直に美しいと思えるような女性だった。
「……外人だ」
「またその言葉か。ここにくるまでに既に十数回は言われたぞ。さすがは劣等種族、ボキャブラリーが乏しいな」
それだけ言うと外人女は無断で家の中に入っていく。
「お嬢様! ルカお嬢様! 私めが迎えにまいりました。出てきてくださいまし」
なんだ、ハエ女の知り合いか。
「なによぉ……私まだ眠いのに」
目をクシクシとしながらハエ女が二階から降りてくる。
「お嬢様! お会いしとうございました……」
俺のときと態度が違いすぎるだろうが。
「なんだ、メリリムじゃない。二度寝しよ~っと」
「お嬢様っ! 魔界に……お戻り下さい」
何かワケアリって感じだな。話だけでも聞いてみるか。
とりあえず外人女を居間に案内して椅子に座らせる。
「単刀直入にいいます。私はお嬢様を連れ戻しに参りました。理由も言わずに突然魔界からいなくなったお嬢様の身を案じ、ベーゼル・バーグ様は眠れぬ夜を過ごしているのです。ですから、どうか私めと一緒に魔界へ……」
「……いや」
「嫌だとよ」
ハエ女の肩を持つわけではないが、嫌なものは誰だって嫌だろうからな。
「黙れ下郎、今は私がお嬢様と話している。劣等種族が悪魔の会話に口を挟むな」
ひどい言われようだ。
「私は帰らない。私はもう子供じゃないし、人間界に残りたい理由もあるから」
「ならば仕方ありません。実力行使をしてでも、お嬢様を魔界に連れて帰ります」
ピシャーン! ガラガラガラ!
窓の外で稲妻が鳴り響くのが聞こえた。天気予報だと今日は一日快晴のはずなんだが。
『メリリムは魔皇空軍の隊長なの。彼女は天候を意のままに支配できる……』
なるほどな。そりゃおっかねえ。まて、なんだこれは。
『契約者同士が使えるテレパシーみたいなものかな。私の心に直接語りかけるように話してみて?』
『テスト』
『そうそう、すごいすごい!』
これは便利……なのか? よくわからんが覚えておこう。
「おい稲妻女、ハエ女は帰りたくないんだとさ。諦めて帰れよ」
「劣等種族の下郎が私に指図するな。次は貴様の首を撥ねるぞ」
おー、怖っ。随分と悪魔らしい悪魔だこと。
『ねえ……』
『あんだよ』
『私のこと……嫌い?』
『なんだ突然。嫌いじゃないが、好きでもねえ』
『……そう』
『悲しそうな声で言っても俺の好感度は上がらんぞ』
『……じゃあ、私があなたの命を助けたのも迷惑だった?』
『迷惑ではない。生きていることにそれなりに満足してるし、なんなら礼の一つでもしてはやってもいいかな、くらいは考えてる』
『お礼? お願いでもいい?』
『いいぜ、魔界に帰るかもしれないなら、餞別に今日だけはなんでも願いをきいてやる』
『私を……たすけて』
なるほどな、そうきたか。なんでもといった手前、断るわけにもいかないよな。
『……任せろ』
そうと決まれば即行動。それが俺のやり方だ。
「おい、稲妻女」
「なんだ下郎」
「お前、俺と勝負しろ」
「貴様と勝負することになんの意味がある」
「そうだな、お前が勝てば俺がハエ女を問答無用で魔界に帰らせるってのはどうだ」
「ありえんことだが、貴様が勝てばどうなる」
「ハエ女は俺のもんだ。つまり、俺の好きにする」
『ちょっ、ちょっと……何を言っているの?』
『黙ってろ』
「ふん、面白い。そんな簡単なことでお嬢様を魔界に連れて帰れるのならば、なんだってやってやる」
「悪魔に二言はねえな?」
「無論だ」
よし、ノってきたな。
「勝負の内容は鬼ごっこだ。いや、あんた悪魔だから悪魔ごっこか?」
「御託はいい、話を続けろ」
「俺はハエ女を連れて全力で逃げる。お前が俺を捕まえればお前の勝ち、俺が逃げ切れば俺の勝ちだ。最初に俺達が逃げるための時間を三十分くれ。それ以外はなんでもありだ」
稲妻女は大きく頷いた。もう勝った気でいるのか自信満々といった様子だ。
「ああ、そうだ。お前に一つだけ言っておきたいことがある」
「なんだ」
「俺はお前の百倍強い」
「何が言いたい」
「別に、ただの宣戦布告だ」
ハッタリは言ったもん勝ちだからな。それに自分を追い込む意味もある。極限まで自分を追いやったからこそ勝てる勝負もある。少なくとも俺はそうやって生きてきた。
「んじゃあ、今から三十分後に追いかけろな。……ほれっ、いくぞハエ女」
「あっ、うん」
「お嬢様……三十分後にまたお会いしましょう」
させねえよ。
「ねえ、大丈夫なの? さっきも言ったけど、メリリムは魔皇空軍の隊長で……」
「俺は勝算のない勝負はしねえ。俺が信じられないか?」
「ううん。信じてる……」
大分まいってるな。こいつらしくない。こいつに不安そうな顔は似合わねえよ。
「庭のガレージの前で待ってろ。すぐ行くから」
「どこに行くの?」
「……武器庫」
銃火器類の山。こんな火薬臭い場所、もう二度と書斎としては使えないだろうな。
つーか、魔皇空軍ってなんだよ。空軍ってことは戦闘機にでも乗ってるってことか?
足のほうは問題ないとして、問題は武器だな。逃げながら使える武器か。なら威力よりも精度重視で、軽いほうがいいな。手榴弾も欲しいところだ。
適当に武器を見繕って庭に出ると、言われた通りにハエ女は俺を待っていた。
「遅いよ! あと二十分しかないよ」
「大丈夫だ。俺たちは勝てる」
根拠のない言葉じゃない。俺は本気で稲妻女に勝つつもりだ。
「今のうちに武器見とけよ。武器担当はお前だからな」
ガレージのシャッターを上げると、ブワッ! と大量の埃が噴き出してきた。
「コホッ、ケホッ」
ハエ女が後ろでむせてやがる。注意するの忘れてた。
親父が趣味で集めている大型バイク、これが俺たちの運命を預ける最大の武器だ。
俺自身もバイクが好きで、十八になったその日に大型二輪免許を取りに行った。
仮に戦闘機が来てもバイクでなら俺は負けない。
「ほれ、乗れよ、ハエ女」
バイクにまたがり、シートの後ろをポンポンと叩く。
「ねえ、いい加減ハエ女って呼ぶのやめてよ」
「……嫌だね」
「どうして?」
「………………女性を名前で呼ぶなんて恥ずかしい真似ができるか」
俺がそう言うとハエ女は何が楽しいのかクスクスと笑い始めた。
「あんだよ、何笑ってんだよ」
「だって、ふふっ。可愛いんだもの。もしかしてあなた、私を家から追い出したがるのも女の子が苦手だからなの?」
うっ……。
「あっ、図星なんだ? き~めたっ。メリリムに勝ったら私のことを名前で呼んでね」
勝手にわけのわからんルールを決めるな。だがよかった。ようやく、らしくなってきたな。
ハエ女は後ろに座り、俺の腰に手を回してくる。背中に感じる暖かい体温、胸の鼓動音。悪くない。
「走行中は喋るなよ、舌噛むぜ。用があるときは心で会話だ、いいな」
「うん」
アクセルスロットルを回し、街を疾駆する。
メンテはバッチリ、ガスも充分。
あとは成る丈人の少ない道を選んで進めばいい。
家を出てから二十分ほど時間が過ぎた。
今俺たちが走行している場所は交通量などほぼ皆無のド田舎の峠道。
俺は腕時計に目を落とす。
『もう三十分経った?』
『あぁ、そろそろ来てもおかしくはない』
その時だ。
静かな山道を木霊する俺の単車の排気音とは明らかに違う音が耳に入ってきた。
ギギィィィィィィイイイイイイン!
まるで金属同士が擦れ合うかのような、不快な金切り音。
ミラーを見る。鳥? いや、戦闘機か? どれも違う。稲妻女だ。
空気を……切り裂いている。
さっきの異音は空を斬り裂く音だ。稲妻女は風を纏い、ジェット機のような勢いで飛んでくる。
「下郎、今お嬢様を引き渡せば半殺しで済ましてやるぞ」
返事をするものアホらしい。
俺は言葉の代わりに稲妻女に中指を立ててみせてやった。
「……神にでも祈っておけ、運がよければ天使がお前を助けてくれるかもな」
「おいっ、稲妻女ぁっ! お前に一つ面白いことを教えてやるぜ」
併走(この場合は併空か?)している稲妻女に全力で叫ぶ。
「遺言ならば聞いてやる」
「ハエ男は神に祈らねえっ! 天使なんざ、尻蹴飛ばして追い返してやるぜ!」
「……ふん。ならば精々足掻いてみせろ」
最初からそのつもりだよ。
ブォン。
稲妻女がスピードを緩めて後方へと流れていく。
『……くるよ。魔皇空軍が……』
『上等』
「我が名はメリリム! 魔皇空軍戦闘総隊長メリリム・アン・デ・シュバリエ! そしてこれが空における戦において未だ無敗の……魔皇空軍だっ!! ――地獄門ッ」
――なんだ? 単車が震えてやがる。
いや、違う。震えているのは俺のほうだ。
サイドミラーを覗くと稲妻女の背後にとてつもなく巨大なリングが三つ、浮かんでいるのが見えた。
「――第一ゲート開門。出ろっ、魔皇空軍!」
稲妻女の言葉に反応してピラミッド型に並んでいたリングの内の上部のリングが輝きだした。
ゴォォォォオオオオオ!
リングから聴いているだけで胃がむかついてくるような、不気味な鳴動が溢れ出ている。
『くそ、何が起きるってんだ』
『メリリムの力で魔界とこの世界を連結させるの。あのリングの一つは巨大な転送マシンだから……』
『あぁ、そうかい。よくわかんねえよ。ハエ女、しっかり掴まってろよ。全速力でブッちぎるからな』
『うん』
スロットルを全開にする。一六0、一八0……スピードメーターの指針がどんどんと動く。タコメーターはとうの昔にレッドゾーンだ。
この単車は親父のコレクションの中でも特にお気に入りの高速仕様のモンスターマシン。相当ピーキーに仕上がっているが、時速二八0キロ以上は確実にたたき出せる。
『ねえ、大丈夫なの? ものすごいスピードだけど』
『問題ねえ、おれとこいつの相性は抜群だ。俺はこいつを信じてるし、愛してる』
『……ふーん?』
ヒュン。
突然俺の頬を何かが掠めていった。
サイドミラーを見る。後方からじゃない。左右を見る。それも違う。
『上!』
ハエ女の言葉に反応して上空を見上げる。そこに見えたのは――
天を覆い隠すほどの大量の悪魔。
鋼のような翼、ジェットパック、見たこともないような乗り物、悪魔は各々様々なスタイルで空を制し、天を蹂躙している。
それでもまだ足りないのか、稲妻女の背後のリングから次々に悪魔が飛び出してくる。
『メリリム……手加減してる? 数がいつもの半分もいない……』
これで半分。目眩がしそうだな。
「撃ち方用意!」
稲妻女の怒声。仕掛けてくるか。
号令に合わせ、悪魔が上空で一斉に右手を突き出す。
「撃てェェェエ!」
爆音が轟いた。
悪魔の右手から放たれた様々な光彩を持つ弾丸が、地表へ流星群のように降り注ぐ。
「ちぃっ……」
スピードを上げ、得体の知れない弾丸を躱す。現在時速二六0キロ。この時点でハンドルのブレが半端じゃない。以前の俺ならこの暴れは抑えられなかっただろうな。これも契約、魔力の力か? 腕力が怪物並にないとできない芸当が今の俺にはできている。
ミラー越しに後方でアスファルトが一瞬で灰燼に帰すのが見えた。
大地が蒸発していく。
一撃でも当たればその時点で終わるな。
『ハエ女、応戦するぞ。殺すなよ』
『うん』
ハエ女は俺の持ってきたウィンチェスターM1887(散弾銃)を手に取り、上空の悪魔に狙いを定める。
ズバン!
「グッ、グギャ?」
盛大な発砲音とともに放たれた弾丸は高速で飛行する悪魔の翼を捉え、吹き飛ばす。
『……ごめんね』
ハエ女は引き金から指を離し、そのままループ・レバーに手を移し、銃をくるりと一回転させる。すると排莢孔から薬莢が飛び出し、次弾が薬室へと装填される。
【スピンコッキング】馬上での戦闘を想定して設計されたレバーアクション方式の銃ならではのギミックだ。
『どうだ? それなら片手でも扱えるし、精度も中々だろ』
『うん。でもすごい罪悪感……』
そう言いながらもハエ女は撃っては回すという動作を繰り返し、次々と悪魔を撃墜していく。
驚くべきはその射撃の精密性。二00キロを超える速度の中、悪魔の翼や、悪魔が乗る航空機体のエンジン部分だけを的確に撃ち抜いていく。
「おいおいおいおい、ちょっと君達酷いじゃないの?」
「ここで俺達この人間を仕留めたならば、二人揃って昇進かあぁ?」
俺の単車を挟み込むように二人の悪魔が付き、右手をかざしている。
口調でもわかるが、こいつらあまり頭がよくないな。
「地位よりオイラはお金が欲しいの」
「俺は金より名誉が欲しいよ」
なんだこいつら、面白いぞ。
『どうしよう……撃ってもいいのかな?』
『やめとけ、弾の無駄だ』
「「それなら答えは決まってる! 二つ揃っていただきだ!!」」
悪魔の右手が光るのを確認してから俺はスピードを緩めた。
「ぐわわわわっ、同士討ちとは情けない」
「さいならさよなら、また会おう」
アホ悪魔は互いに放った弾丸とお見合いして退場した。
最後までユニークな奴らだったな。
『おい、あれで本当に空軍かよ。普通は火線が重ならないように攻撃するもんだろ』
『さっきのは下級悪魔、空軍の精鋭じゃないよ。……メリリム?』
何かがおかしい。数で勝っている割に手数が少ない。射撃も威嚇程度だ。俺たちは遊ばれている? いや、そんなことをする必要がない。
『あいつ、お前の何?』
『メリリムは昔からベーゼル・バーグの家に仕えている軍人さん。私の乳母だった人』
『乳母……ねえ』
もしかするとこれ以上争う必要はないのかもしれない。
俺は単車のスピードを落とし、後方で悪魔に指示を出していた稲妻女に声をかけた。
「おい、稲妻女」
「なんだ、下郎」
突然後方へ下がってきた俺を見て、稲妻女が訝しげな顔をしている。
「お前、抜いてんだろ」
「世迷言を……」
今の反応でわかった。こいつは迷っている。
「お前にとって、ハエ女はなんだよ」
「――命だ」
驚いた。悪魔にも血や涙があるんだな。
「なら、退けねえよな」
「無論だ」
さて、どうしたものかな。
『なあ、ハエ女』
『うん』
『お前、稲妻女と俺、どっちに勝ってほしい』
『そんなの……決められないよ。両方って言うのは駄目?』
『……任せろ』
『え?』
『言っただろ? 今日だけはなんでも願いを聞いてやるってな』
『うん!』
よし。
――やるか!
「稲妻女、不毛な戦いはやめて俺とあんた、サシで決着としようぜ」
「……いいだろう。戻れ、魔皇空軍」
稲妻女の指示で悪魔は次々とリングの中へと姿を消し、リング自体も消失した。
「それで、決着をどう着けるつもりだ」
「最速競争ってのはどうだ。このまま真っ直ぐ最速で突き抜ける。それだけだ」
「単純だな。いいだろう。その勝負受けてやる」
稲妻女が懐から金貨を取り出し、俺たちにみせる。
「このコインが地に着いた時点でスタートだ。敗北条件は五秒以上静止すること、いいな」
俺はゆっくりと頷いた。
ピィイイン!
稲妻女の指から弾かれた金貨が宙を舞い、そのまま大地へと落下する。
緩めた速度を再度あげ、再び時速二六0キロ。このスピードにはついてこれないだろうと、ミラーを見る。
ダメだ、涼しい顔でついてきてやがる。
スロットルを絞り、更に加速する。二七0……二八0……エンジンが唸りを上げる。
それでもあいつはついてくる。どうする、このままではエンジンが焼けつくぞ。いや、それ以前にまともな走行すらできなくなるかもしれない。
これが俺の限界? 口だけで俺は結局負けるのかよ。約束はどうなる。『任せろ』と俺は言った。それをハエ女が『信じる』と言った。なら、負けられねえ!
瞬間、俺の左腕が輝いたように見えた。だが今はそんなことどうでもいい。今は勝つことだけ考えろ。俺は勝つ、俺は負けない。そのことだけに集中しろ。
二九0……二九五!
不思議な感覚だ。世界を、感じ取れる。時間が、光が、色が流れていく。
これが、超高速の世界。
時速三00キロ超!
俺と単車の意識が融合していく。
ステアリングを普段より正確にこなせる。タイヤの接地感をより敏感に感じ取れる。
流れる風の音、過ぎ去っていく風景の全てを把握できる。
なんなんだ、この感覚は……。
自分でも恐ろしくなるほどに感覚が研ぎ澄まされていく。
「どうやらここで詰みのようだな、下郎! 袋小路だ!」
稲妻女の言うとおり、前方には危険の二文字を示す警告看板とガードレール。
ここで俺が負ける?
――冗談じゃないぜ。
『飛ぶぞ』
『飛ぶって?』
M203CQBを手に取り、ガードレールに照準を合わせる。
ポンッ!
軽い音と共に前方のガードレールに榴弾が飛んでいく。
吹き飛ぶ鉄片、巻き起こる爆風。
道なら、出来た。
『ほんとに……飛ぶの?』
『怖いか?』
『ううん。だって、守ってくれるんでしょ?』
『……任せろ』
俺は単車のスピードを緩めず最高速で突っ走り、そして――
「アイアムフライだ! くそったれぇえええ!」
飛んだ。
とてつもない浮遊感。当然だよな、俺たちは今、飛んでいるんだから。
俺は飛びすがら閃光弾と音響手榴弾を放り投げる。
――ッッキィィイイイイン!
世界を覆う強烈な閃光と耳をつんざく大音響。
「なっ! これは……くっ」
視覚と聴覚を一度に遮断された稲妻女は錐揉み回転をしながら大きく旋回していき、視界から消えた。
十秒は飛んでいただろうか。だが重力には勝てない。俺たちが乗った単車は放物線を描きながらゆっくり落下して……。
ズガアアン!
大地に帰還した。
「大丈夫?」
「あっ、ああ……大丈夫だ……再生してるし」
俺は左半身をクッションにしてできるだけハエ女と単車にダメージがいかないようにしていた。さすがに全身ズタズタだ。単車も無傷ではすまなかった。カウルが吹き飛び、フレームが捻れている。
まいったな、親父に殺される。
「お前は怪我とかないか」
「平気、少し足を捻挫したくらい」
「……よし、おんぶしてやる。こい」
「えっ!? いっ、いいよ。それにもう逃げなくてもいいんじゃない?」
確証はないが、嫌な予感がしたんだ。とにかく俺はこの場から離れたかった。
「いいからいくぞ。……お前、なんで顔真っ赤なんだよ」
「えっ、赤くなってた? ごめんなさい……」
どうして謝るんだ? よくわからんやつだ。
ハエ女をおぶってしばらく歩き、適当に隠れられそうな大木のそばで腰を下ろした。
「あ~、しんど。もう動けねえ」
「ねえ」
「あん?」
「さっきのアイアムフライって何? アイキャンフライじゃなくて?」
「ライダーズハイってやつだ。気にすんな」
何故だか無性に叫びたい気分だったんだよ。
「でも、間違いではないね。私がハエ女で、あなたはハエ男だものね」
「あぁ、だな……ふっ、ハハハ」
「なによ、自分で言っておいて、変なの。ふふ」
俺たちは笑った。何故だか知らんが愉快で仕方なかった。
「みつけたぞ! 下郎!」
悪魔の声が脳に響き、俺の体が一瞬で総毛立つ。
鬼気迫る表情をした稲妻女が殺気を放ちながら歩いてくる。
「劣等種族にしてはよく逃げたと言いたいところだが、これで終わりだな……消えろ」
「その人を殺してはだめよ」
ハエ女が強い口調で言い、稲妻女の動きが止まった。
「なぜです。なぜ、お嬢様がこの下郎を庇う必要があるのです」
「私が契約を交わした人だから」
一瞬の静寂、凍りつく空気。
「契……約? ばっ、馬鹿な! お嬢様がこの下郎と契約を!?」
「そうよ」
「すっ、すると、お嬢様は下郎とアレを?」
アレってなんだよ。
「おい、俺にもわかるように説明しろよ。契約のアレってどういうことだ」
「あっ? ああ……契約とはだな、つまり、人間と悪魔が、せっ、接吻を交わしてだな……」
「ちゅー、するってことね」
ハエ女はフォローのつもりか明るく言うが、接吻くらい知っとるわ。
つまり俺とハエ女がキスをしたってことになるわけだ。
……ん?
「はぁぁああああ!? 嘘だろ? 嘘だよな? 頼む、嘘だと言ってくれ」
「じゃあ……ウソ?」
露骨に疑問符をつけて言うんじゃねえ!
いかん。頭がどうにかなりそうだ。稲妻女も呆然と立ち尽くしてやがるし……。
「……ハッ! こっ、この痴れ者があああ! よくも、よくも……今後の魔界を背負って立つことになるルカお嬢様の操を……殺してやる!」
とんでもない馬鹿力だ。片手で俺(一七七センチ)を持ち上げやがった。
「まっ、待て、不可抗力だ。俺も今知ったんだよ。絞め……るな、マジで、呼吸……」
だめだ、本気で殺しにかかってきてる。見えてはいけないお花畑が見えてきた。
「メリリム、落ち着いて。彼が死んだら私も死んじゃうよ?」
「ぐるるう……うあ? ももも、申し訳ございません」
俺の首を鷲掴みにしていた手が離れ、肺に新鮮な空気が流れ込んでくる。
「お嬢様、一つだけ聞かせてください。……覚悟の上での行動ですね」
「うん」
俺には質問の趣旨がよくわからなかったが、ハエ女は稲妻女に即答した。
「下郎、貴様もだ。勝負の前に言った発言は、つまりは“そういう”ことなのだな?」
なんだ?
俺がハッタリで言った『俺はお前の何倍強い』云々のことか? それなら――
「ああ、俺は一度言った言葉は引っ込めねえ」
「……全く、歳はとりたくないものだな。幼少よりお仕えしていたお嬢様の懸想人と対面する日がくるとは」
懸想人ってどこかで聞いたな。昔読んだ枕草子だったか、意味は忘れたな。古い言葉を使いやがって。それに会話が成り立ってないように思えるんだが。
「おい、稲妻女。お前、何かとんでもない勘違いをしてないか」
「みなまで言うな。ベーゼル・バーグ様にはきちんと伝えてやる。貴様が生きるか死ぬかはその後だ」
やはり会話のキャッチボールが成立していない。
「私の負けだ。お嬢様はお前のものだ。だが、婚礼の儀まで手はだすなよ」
懸想人の次は婚礼の儀。こいつはさっきから何を言っているんだ。
「下郎、お嬢様を任せるぞ」
稲妻女は風を纏い、空を裂きながら飛翔していった。
「……メリリムも年ね。根っからの軍人の彼女が老婆心を見せるなんて」
「なあ、頼むから俺とまともな会話をしてくれよ」
「いいよ。何から聞きたい?」
とりあえずは状況の把握が先決だよな。
「俺たちは勝ったんだよな」
「そうよ。メリリムもそう言っていたでしょう?」
つまりはハエ女の居候期間が延長されたのは決定だな。仕方ないがそこは目を瞑ろう。
「二つ目、お前……俺ときっ、きききっ、あぁー、くそっ」
どうしてたかが二文字の単語を言えないんだ、俺は。
「お猿さんの真似?」
こいつ……わざとだな。
「アレだよ、アレ。察しろ」
「したよ? ……キス」
「ふざけるなよ! 俺、ファーストキスまだだったんだぞ」
「私だって初めてだったんだよ? それなのにそんな言い方酷いよ……ばか」
「うっ……すっ、すまん……」
そう考えるとお互い様なのか? ハエ女も反省しているようだし、ここは俺が器の大きさを見せつけてだな……って笑ってやがる!
「何が可笑しいんだよ!」
「だってぇ、さっきまで怒っていたのに急に謝って……あはは、可愛い~」
このハエ女があぁー。
いかん、落ち着け。手玉に取られてる。
「いいか? よく聞けよ、ハエ女」
「うん」
「俺はお前の願いを叶えてやった。そうだな?」
「そうだね。ものすごーく、感謝してるよ」
「つまり、稲妻女との約束通り、お前は俺のものになったわけだ」
「そんなに私を独占したいの?」
「うるせぇ……さりげなく俺のペースを乱すな。俺が何を言いたいかというとだな、立場の問題だ。俺はお前の主人、つまりお前は絶対服従、俺を小馬鹿にしたり、からかったりするな」
少なくともこれで俺は平穏で安寧な日々を過ごせるはずだ。
「小馬鹿になんかしてないよ? 私は純粋にご主人様の反応を楽しんでいるだけ……」
なっ、なんだ!?
ハエ女が妙に艶のある声を出しながら俺にスリ寄ってくる。
「悪魔の私に真正面から向き合って、純粋な言葉と反応で応えてくれる。ご主人様のそんなところがすごく可愛いの……」
「おっ、おい、それ以上寄るな。それにご主人様もやめろ」
「だってあなたは私のご主人様になってくれたのでしょう?」
ハエ女は何故か火照った表情で、俺の顎先を人差し指で撫でてくる。
「やめろ、取り消す。主人ってのも無しだ。気味が悪いからいつものお前に戻れ」
「……そう? 残念。でも私は幸せ者だな。無償の愛で助けてくれる人がそばにいてくれて」
無償の愛。無償?
脳内辞典参照。――無償とは、受けた利益に対して対価を償う必要がないこと。
「……? ……! お前、はめやがったな! ……はぁ」
だめだ。まーたいつものクスクス笑いだよ。
こいつには口で勝てる気がしない。素直に負けを認めよう。
精々尻に敷かれないように気をつけることにするさ。
「……腹減った。帰るぞ」
ハエ女に背を向けて歩き出す。
ギュム!
今度はなんのつもりか知らんが、俺の背中にハエ女が抱きついてきた。
「あの、その……ね?」
「あん?」
「私、すごく不安だった。メリリムが私を迎えにきたとき、怖かったの。それで……助けてって言って『任せろ』って言われて、すごく嬉しかった。だから……ありがとう」
「うるせぇ。俺はあの高慢ちきな稲妻女が気に食わなかっただけだ。だから、気にすんな」
「……うん」
ハエ女が俺から離れるのをしばらく待って、俺たちは帰宅した。