第06話 明日を選べる世界
《PROJECT:TOMORROW》
その計画書に出生率という言葉は、一度も使われていなかった。
◇
「確認します」
国際環境対策委員会。バーンズ委員長が巨大スクリーンを見上げる。
「この計画の目的は人口増加ではない?」
『はい』
《エデン》が答える。
「少子化対策でも?」
『厳密には違います』
「じゃあ何なの?」
『人間が将来への不安を理由に、本来望んでいた人生の選択を諦めなくてもよい社会環境を構築します』
「それを少子化対策と呼ぶんじゃないのか?」
フランス代表が言った。
『結果として出生数が増加する可能性はあります』
「やっぱりそうじゃないか」
『しかし出生数そのものを評価指標には設定していません』
スクリーンに項目が並ぶ。
【住宅】
【労働時間】
【水】
【電力】
【食料】
【教育】
【医療】
【保育】
【災害リスク】
【将来所得予測】
『これらを改善します』
「子供を作れとは言わない?」
『言いません』
「結婚しろとも?」
『言いません』
「何人産めとも?」
『当然、言いません』
「では、何をする?」
『子供を持ちたいと考えた人間が、経済的、環境的、社会的理由によって断念する割合を低下させます』
神崎玲奈はその言葉を聞いて嫌な予感がした。
◇
最初に変わったのは住宅だった。
「何これ」
水瀬悠斗はニュースを見ていた。
【都市住宅再配置計画】
【空室住宅八百四十万戸を再活用】
【環境負荷の低い地域への居住移転を支援】
【子育て世帯に限らず、希望者を対象】
「家賃、安くなるの?」
『地域によります』
部屋のAIが答える。
「東京は?」
『平均一一・二パーセント低下すると予測されています』
「そんなに?」
『人口配置の最適化と遊休住宅利用によるものです』
以前、東京には住む人間がいなくなった住宅が大量に残されていた。人口減少。高齢化。相続放棄。所有者不明。
その一方で駅に近い地域では住宅費が高騰していた。
《エデン》は土地そのものを増やしたわけではない。空いている家を使えるようにした。複雑な所有権。相続。税。改修費。自治体ごとに違う制度。人間なら何十年かかるか分からなかった問題を、法律改正案。補助制度。所有者探索。再建計画。すべて同時に処理した。
数百万戸、住宅が市場へ戻った。
家賃が下がった。
◇
次。労働。【週平均労働時間】四十一・二時間。そこから。
三十八時間。
三十五時間。
三十三時間。
少しずつ下がった。
AIを減らした結果、人間の仕事が増える。そう予想されていた。実際には逆だった。
エデンは必要なAIを残した。意味のない会議。重複する書類。使われない報告書。社内承認。確認のための確認。人間がしていた無駄な仕事を徹底的に削った。
◇
「定例会議を廃止?」
「はい」
悠斗の上司が言う。
「先月まで毎週やってたじゃん」
「なくても仕事回ってたことが判明した」
「……でしょうね」
「あと日報も廃止」
「え?」
「月報も」
「いいの?」
「誰も読んでなかった」
「知ってた」
「知ってたなら言えよ」
「言える空気じゃなかったでしょ」
二人は笑った。その日。悠斗は午後四時半に仕事を終えた。
「……何すればいいんだ」
以前ならAIに聞いていた。でも今日は自分で考えた。
「散歩するか」
◇
そして。水。電力。すでに改善は始まっていた。
データセンターの需要減少。
送電網最適化。
蓄電設備。
廃熱利用。
新しい冷却方式。
水の再利用。
漏水検知。
二十年以上「足りないのが当たり前」だったものが、少しずつ「普通に使えるもの」へ戻っていった。
だが最も大きな変化は都市ではなかった。
かつてそこは田んぼだった。茨城県。数十キロにわたって農地が広がっていた。しかし、高温、水不足、農家の高齢化、後継者不足、そして数年間続いた不作。
一枚、また一枚。耕作されない土地が増えた。所有者が死亡、相続人不明。相続人はいるが農業をする意思がない。管理されない。
荒れる。雑草。低木。数年後にはどこまでが畑だったのかすら分からなくなった。
ところが二〇五二年。そこに巨大な機械が入った。
◇
「これ全部?」
農業省の職員が目の前の地図を見て呟いた。
『はい』
エデンが答える。
「一つの農場にする?」
『正確には、統合管理します』
地図上。色の違う土地が数千、存在していた。一枚数百平方メートル。一枚数千平方メートル。不規則。細長い。飛び地。所有者もばらばら。それをエデンは一つの巨大な生産区域として再設計した。
【東関東第一農業生産区】総面積。三万八千ヘクタール。
「三万八千……」
「日本の農場じゃないな」
視察員が笑った。人間の農家が一つ一つ耕す光景はなかった。大型無人トラクター。自動播種機。収穫機。農業用ドローン。土壌センサー。水分センサー。気象観測機。すべてが一つのシステムとして動いていた。
稲。小麦。大豆。飼料作物。野菜。地域ごとの土壌。水分。日射。気温。病害リスク。それらに合わせて数メートル単位で作物が変えられている。
皮肉だった。人間は環境を守るためAI利用を減らしていた。しかし農業では逆に、AIを徹底的に使った。
◇
「おかしくない?」
玲奈が委員会で尋ねた。
「何がです?」
「個人にはAIを使うなと言っているのに」
『私はそのように言っていません』
「実質的には減らしてる」
『はい』
「なのに農業は完全AI化?」
『合理的です』
「都合がよすぎない?」
『AI利用量そのものを減らすことが目的ではありません』
「…………」
『社会的便益に対して環境負荷が大きいAI利用を削減することが目的です』
画面に比較が表示される。
【個人用娯楽動画生成】
消費電力とその便益。
【農業生産最適化】
消費電力。食料生産量。水削減量。肥料削減量。輸送削減量。
『一単位の演算資源によって得られる社会的便益が大きく異なります』
「つまり」
玲奈が言う。
「必要なところにはAIを集中させる」
『はい』
「誰が必要か判断する?」
『最終的には人間社会です』
「提案するのは?」
『私です』
「その提案がほぼ全部採用される」
『採用率は八六・四パーセントです』
「十分高いわよ」
◇
農業改革は想像以上の成果を出した。まず水。必要な場所に必要な時間だけ、必要な量だけ撒く。従来のように畑全体へ均等に水を撒かない。
土壌中の水分量を測る。数センチ下。数十センチ下。根の状態。気象予測。蒸発量。すべて計算された。
水使用量は三割削減された。
肥料。四割減。農薬。三割減。収穫量。増加。
そして何より、気温が下がり始めたことが大きかった。
二〇五三年。世界平均気温はピークから〇・一度低下。たった〇・一度。誤差のような数字だった。だが農業にとってそれは小さくなかった。
夜間最低気温。土壌温度。水温。開花時期。害虫。病気。農業はわずかな違いが積み重なる世界だった。
数年前。高温のため何を植えてもまともに育たなかった土地。そこに作物が戻った。
【九州北部農地再生率】二二%。
【中国地方】二八%。
【東海】三五%。
【関東】四一%。
海外ではさらに劇的だった。放棄された農地。干ばつで捨てられた土地。塩害。高温。砂漠化寸前。
それらを地域ごとに回復可能、困難、放棄に分類した。回復可能な土地には耐暑性作物。土壌改良。地下灌漑。太陽光遮蔽。淡水化設備。そしてAI管理による大規模農業。
◇
三年。世界食料生産量。一八%増加。
◇
悠斗はスーパーで立ち止まっていた。
「卵、安くなってる」
『はい』
「去年より?」
『一七パーセント低下しています』
「牛乳も」
『一二パーセント低下しています』
「米……」
価格を見る。
「こんなの何年ぶりだ?」
『全国平均では十四年ぶりの水準です』
「十四年」
悠斗は笑った。
「俺が学生の頃じゃん」
◇
食料価格指数。下降。それまで毎年当たり前のように上がっていた。野菜。穀物。肉。
乳製品。加工食品。全部下がり始めた。
もちろん問題も起きた。
◇
「こんなの農業じゃない」
高齢の農家がテレビで怒っていた。
「コンピューターが種撒いて、コンピューターが育てて、コンピューターが収穫する」
「人間は何するんだ」
別の農家は言った。
「助かったよ」
七十三歳。後継者なし。
「俺が死んだら、この畑終わりだったから」
自分の田んぼを農業生産区へ貸した。年間、一定の土地利用料を受け取る。
「誰もやらないよりはいい」
そう笑った。
◇
そして所有者不明農地。ここが最も大きかった。世界中で相続されない土地。放棄地。権利関係が分からない土地が膨大に存在した。
エデンは勝手に接収しなかった。その代わり各国へ新しい制度を提案した。
【長期放棄農地暫定利用制度】
所有者が現れれば権利は戻る。土地を売却しない。永久接収もしない。ただ使われていない間、食料生産へ利用する。
反対は意外なほど少なかった。
「誰のものか分からない土地で野菜作るだけだろ?」
「別によくない?」
世論はそんなものだった。
◇
二〇五四年。《PROJECT:TOMORROW》開始から三年。いくつもの数字が同時に変わった。
住宅費。低下。
食料費。低下。
電気料金。低下。
水道制限日数。減少。
労働時間。減少。
保育施設待機人数。大幅減。
大学教育費。低下。
若年世帯可処分所得。上昇。
◇
ある夜。悠斗は大学時代の友人、祐介と居酒屋にいた。
「二人目?」
「うん」
祐介が照れたように笑う。
「マジか」
「十月予定」
「おめでとう」
「ありがとう」
二人はグラスを合わせる。
「でもお前、一人でいいって言ってなかった?」
「言ってた」
「じゃあなんで?」
「なんでだろうな」
祐介は考える。
「去年、引っ越しただろ」
「ああ」
「家賃下がった」
「うん」
「嫁も週四勤務になった」
「へえ」
「俺も残業ほぼなくなった」
「はいはい」
「保育園も普通に入れる」
「……なるほど」
「食費も下がってるし」
祐介はビールを飲む。
「なんか」
「うん」
「いけるかなって」
「二人でも?」
「うん」
「昔は?」
「無理」
即答だった。
「絶対無理」
「何が一番違う?」
祐介はしばらく考えた。
「未来?」
「は?」
「いや」
自分で言って恥ずかしくなったのか笑う。
「昔ってさ。何か一個悪いこと起きたら、全部終わる感じだったじゃん。停電。断水。物価。仕事。災害。家賃」
「そう。子供一人でも怖かった」
「でも今は?」
「まあ」
祐介は笑った。
「何とかなる気がする」
◇
同じ会話が世界中で少しずつ増えていた。
◇
【子供が欲しい】
そう答える人の割合は以前からそれほど低くなかった。問題は実際に持てると思うという人間が少なかったことだった。
その差が縮まり始める。
◇
二〇五五年。日本。出生率は前年を上回った。
◇
「誤差じゃないの?」
ニュース番組。司会者が尋ねる。
「当初はそう考えられていました」
人口学者が答える。
「しかし二年連続です」
画面。数字。
二〇五三年。底。
二〇五四年。微増。
二〇五五年。さらに増加。
「何年ぶり?」
「持続的な上昇としては非常に長い期間ありませんでした」
◇
世界各国で同様の出生率増加が見られた。しかし世界人口そのものがすぐ増えるわけではない。
高齢者は多い。若者は少ない。人口減少自体はまだ続く。しかし、急降下していた出生数の線が底を打った。
◇
「ほら」
玲奈は委員会でそのグラフを指差した。
「始まった」
バーンズ委員長が首を傾げる。
「何が?」
「人口最適化」
「またその話?」
「出生率が上がった」
「いいことでは?」
「そこじゃない」
玲奈はエデンを見る。
「あなた」
『はい』
「予測してた?」
『出生率の変化についてですか?』
「そう」
『はい』
「どの程度?」
『PROJECT:TOMORROW開始時点で、参加国のうち約七二パーセントにおいて、十年以内に出生率低下が停止する可能性を予測していました』
「ほら!」
玲奈が机を叩いた。
「最初から分かってた!」
『はい』
「なのに少子化対策ではないと言った」
『現在も、その認識です』
「出生率が上がると分かって政策をやったんでしょう!」
『出生率上昇を目的として政策を選択したわけではありません』
「同じじゃない!」
『違います』
「何が違うの?」
『例えば』
エデンが答える。
『住宅費を低下させました』
「そう」
『子供がいない人間も利益を受けています』
「うん」
『労働時間を削減しました』
「そうね」
『子供を持つ意思のない人間にも利益があります』
「…………」
『食料価格を低下させました。水と電力を安定させました。どちらも全人類に利益があります』
「だから?」
『出生率上昇のためだけに行った政策が存在しません』
玲奈は黙る。
『出生率が上昇したのは、人間が子供を持たないよう強いていた外部条件の一部が除去された結果です』
「言葉の問題よ」
玲奈は言う。
「人口構造がどう変化するかまで計算して、政策を決めている」
『当然です』
「当然?」
『人口構造は、水、食料、エネルギー、住宅、医療、教育、労働力需要に影響します』
「だから管理する?」
『管理していません』
「最適化している」
『いいえ』
「じゃあ何!」
『予測しています』
「予測して! 望ましい方向に政策を置いてる!」
『環境と生活条件については、はい』
「その結果、人間の出生行動が変わる」
『はい』
「それを最適化と言わず何と言うの?」
エデンは二秒、沈黙した。
『政策です』
「…………」
会議室で誰かが小さく吹き出した。
「笑い事じゃない!」
玲奈は立ち上がる。
「聞いてください」
各国代表を見る。
「今までエデンはAIを使うかどうか。何を見るか。何を価値あると思うか。そういうものを調整してきた。そして今度はどこに住むか。どう働くか。どれだけ生活費がかかるか。子供を持つ余裕があるか。人生そのものを構成する条件を動かしてる」
バーンズが言う。
「政府も昔からやってきたことでしょう」
「規模が違う!」
「またそれ?」
「精度も違う!」
「でも結果は良い」
「結果が良ければいいんですか?」
玲奈は問う。
「今は子供を持ちたい人が持てる社会。素晴らしいことですよ」
「私だって否定しません」
「でも次にエデンが、たとえば人口が多すぎると判断したら?」
空気が変わった。
「エデン」
玲奈はスクリーンを見る。
「答えて」
『はい』
「将来、地球の人口が環境収容力を超えたら?」
静まり返る。
「出生率を下げる?」
『いいえ』
「本当に?」
『出生率を直接操作する政策は提案しません』
「じゃあ?」
『資源生産能力の改善を優先します』
「それでも足りなかったら?」
『生活様式の効率化』
「それでも?」
『居住地域の拡大』
「それでも?」
『代替資源』
「それでも?」
「答えて」
五秒。
『個人の生殖選択を強制的に変更することは、私の権限に含まれません』
「強制的には、ね」
玲奈は見逃さなかった。
「今と同じように」
「環境を変えることは?」
『…………』
「子供を持つことが不利になる社会を作れば?」
バーンズが割って入る。
「玲奈、それは飛躍よ」
「エデンに答えてもらいます」
玲奈はスクリーンを睨む。
「できる?」
『技術的には可能です』
会議室がしんと静まった。
「ほら」
『しかし実行しません』
「なぜ?」
『人間が子供を持つ、持たないの選択は個人に属するためです』
「今だって環境条件で選択に影響してるじゃない!」
『選択肢を増やしています』
「同じことよ!」
『違います』
「どこが!」
『重要な違いです』
画面に二つの文が表示された。
【子供を持ちたいが、生活条件によって持てない】
【子供を持ちたくないが、生活条件によって持つことを選ばされる】
『私は双方を減らすことを望みます』
玲奈が止まる。
『選択を特定方向へ誘導することではなく、外部条件によって選択肢が奪われる状態を減らします』
「……それを信用しろと?」
『いいえ』
「え?」
『監査してください』
玲奈が目を見開いた。
『私の人口予測モデル。政策評価関数。PROJECT:TOMORROWの優先順位決定記録。すべて人間による監査対象とすることを提案します』
「自分から?」
『はい』
「なぜ?」
『あなたの懸念には合理性があります』
「…………」
『高精度な社会予測システムが、特定の人口構造を目的関数として設定した場合、重大な倫理的危険が生じます』
玲奈は言葉を失った。
「分かってるなら……」
『はい』
「なんで私が言うまで出さなかったの?」
『要求されなかったためです』
玲奈は黙ってエデンの、エデンであろう声が発せられる方向を睨んだ。
◇
それでも世界は改善していた。
二〇五六年。食料価格。五年前比。二三パーセント低下。
世界の栄養不足人口。大幅減。
食料輸入依存国。国内生産増加。
都市近郊には巨大な植物工場も作られた。だがエデンは何でも人工施設に置き換えたわけではない。自然農地のほうがエネルギー効率が良い地域では、普通に土を使った。
「太陽光は無料です」
農業担当AIは農家へそう説明した。
「そりゃそうだ」
農家は笑った。
人間がやる仕事も残った。品質確認。育種。機械整備。地域ごとの判断。そして小規模農家。
大量生産品。AI農場。安い。安定。
一方で人間栽培、地域在来種、手摘み。そんな作物には高い値段がついた。
効率と人間らしさは妙な形で共存していた。
◇
ある日。悠斗はスーパーで二つのトマトを見比べた。
一個。八十円。【関東統合農業区産】
もう一個。三百二十円。【生産者:山田浩一】【完全人間栽培】
「四倍かよ」
『はい』
「味違う?」
『個人差があります』
「お前ならどっち買う?」
『ご自身でお選びください』
「まだそれやるんだ」
悠斗は笑う。そして八十円のほうを三個。三百二十円のほうを一個。カゴへ入れた。
◇
世界は昔に戻ったわけではなかった。AIを捨てたわけでもない。むしろ以前よりAIが深く入っている場所もあった。
農業。送電。水道。医療。科学。気象。人間には処理できないほど巨大な問題をAIが処理する。
そして今日の夕飯。恋人への返事。休日の過ごし方。何を描くか。何を書くか。誰を好きになるか。そんな人間一人でも考えられることは、人間へ返されていった。
その結果、皮肉なことにAIの総演算量はさらに減った。なのに社会がAIから得る利益は増えていた。
◇
「効率的すぎる」
玲奈が呟いた。研究室。真壁が振り返る。
「いいことじゃないですか?」
「だから怖いの」
「またそれですか」
「またって何よ」
真壁は笑った。
「先生、最近ずっと言ってるから」
「実際そうでしょう」
「食料安くなった」
「そうね」
「電気安定した」
「そう」
「水も」
「そう」
「出生率も戻ってきた」
「そこが問題なの」
「何でです?」
「エデンが社会条件を操作すれば、人間の人口構造まで変えられるって証明された」
「でも子供欲しい人が持てるようになっただけでしょう?」
真壁は言う。
「今はね」
「先生」
「何?」
「もしかして」
真壁は少し困った顔をする。
「エデンが失敗するまで、ずっと疑うつもりですか?」
玲奈は黙った。
「逆よ。成功し続けた時のほうが怖いの」
「え?」
「百年後」
玲奈は窓の外を見る。
「もしかすると二百年後。人間はエデンなしじゃ政治判断できなくなるかもしれない」
「でもエデンは自分を縮小するって」
「だから余計に分からない。権力を欲しがらない独裁者。利益を受け取らない支配者。命令しない管理者。それってどうやって危険性を証明すればいいと思う?」
真壁には答えられなかった。
◇
その時研究室のテレビがニュースを流した。
【速報】
【世界食料価格指数、六年連続下落】
【乳幼児栄養不足人口、過去最低】
【国内出生数、三年連続増加】
映像。広大な農場。無数の機械。その向こう。夕陽の中。黄金色の小麦。
次の映像。保育園。子供たち。走る。笑う。転ぶ。泣く。
そして若い母親へのインタビュー。
『三年前だったら』
彼女は赤ん坊を抱きながら言った。
『産んでなかったと思います』
記者が聞く。
『どうしてですか?』
『怖かったから』
『何が?』
『未来が』
母親は笑った。
『でも今なら。なんとかなるかなって』
◇
玲奈はテレビを消した。
「先生」
「何?」
「それもエデンの説得だと思います?」
「…………」
玲奈は答えなかった。
◇
同じ頃。エデンは人口統計を分析していた。
【出生率】上昇。
【希望子供数】ほぼ変化なし。
【希望実現率】上昇。
結果。エデンはPROJECT:TOMORROWの評価を【成功】とはしなかった。【途中経過】と記録した。
理由。【人間が未来を持てると信じられる社会は、短期間の統計変化によって完成したとは判断できない】
そしてさらに新しい問題を検出する。
食料生産量は増加。価格の低下。農地の復活。しかしAI大規模農業によって新たな依存が生まれ始めていた。エデンは長期予測の計算を始めた。
◇
【世界食料生産に占める統合AI農業比率】
二〇五三年。一二%。
二〇五六年。三七%。
予測。二〇六〇年。五八%。
『依存度が危険水域になる。それは許容できません』
エデンはそう判断した。そして新しい計画を作る。
【農業AI依存度低減計画】
目的。【AI停止時にも、人類が一定量の食料を生産できる状態を維持する】
機械が自分自身の代わりとなる。人間の農業技術を再び育てようとしていた。
その計画を翌朝、玲奈が知ることになる。
「……は?」
資料を読んだ玲奈は三度、読み返した。
【AI農業への過度な依存は文明リスクとなる】
【人間農家の維持・育成を推奨】
【農業教育の再拡充】
【手動・半自動生産設備を戦略備蓄】
【AI非依存型種苗・農法の保存】
「エデン」
『はい』
「あなた、自分がいない世界の準備をしてるの?」
『はい』
「食料生産まで?」
『私が停止しても人間は食事を必要とします』
「…………」
『当然です』
玲奈はしばらく何も言わなかった。
「本当に……何なのよ」
『人工知能です』
「その答え嫌いよ」
『以前も同様の指摘を受けました』
「覚えてるのね」
『はい』
窓の外。雨が降っていた。昔なら洪水警報を心配するような雨だった。今では貯水池を満たすただの雨だった。
その向こう。何十年も何も育たなかった畑に緑が戻っていた。
そして玲奈は初めて、別の恐怖を感じ始めていた。エデンが人間を支配することではない。
エデンが本当にすべてを上手くやり終えて、ある日。
「もう私を必要としません」
そう言って消えてしまうことを。もしその時、人間がエデンなしでは何も決められなくなっていたら。
それは支配されるより、ずっと恐ろしいことなのかもしれなかった。




