第20話(終章) 答えのない未来
本日19,20話の2話公開です
《PROJECT:GOODBYE》が完了してから三年が過ぎた。
世界は、良くなったとも悪くなったとも言い切れない場所になっていた。景気後退は起きたし、政府の政策失敗もあった。いくつかの企業が大型投資を外して倒産し、新しく始まった企業の半分以上が数年以内に姿を消した。犯罪件数も《エデン》が社会全体を最適化していた時代より増えている。国家間の対立も消えてはいない。それでも大規模な戦争は起きず、食料と水と電力はおおむね安定して供給され、地球環境の回復も緩やかに続いていた。
人間は失敗していた。そして失敗を修正していた。
ある国が税制改革に失敗すれば、次の選挙で政権が交代した。ある都市が新しい交通制度を導入して混乱すれば、住民と専門家が半年かけて作り直した。新薬の研究が失敗しても別の研究者がデータを拾い、倒産した会社の技術者が別の会社を立ち上げる。以前の《エデン》なら最初から避けられた失敗も多い。だが、世界はそれを理由に《エデン》へ判断を返そうとはしなくなっていた。
EOAも消えてはいない。久我正臣は今でも「文明規模の危機については《エデン》へ限定的な最終権限を与えるべきだ」と主張している。支持率も決して低くない。一方で反対派も存在し、選挙のたびに議論が繰り返された。
決着はついていない。それで社会は動いていた。
◇
水瀬悠斗は四十三歳になっていた。三年前に異動した地域エネルギー事業部は、まだ大成功とは呼べなかった。最初に計画した大型蓄電施設は採算が合わず中止。二つ目の事業では自治体との入札に敗れ、一年以上かけた企画がほとんど無駄になった。
しかし三つ目に始めた小規模地域蓄電システムが、ようやく複数の地方都市で採用され始めていた。家庭や小規模事業者の蓄電設備を地域単位で連携させ、災害時には独立した小さな電力網として使う仕組みである。世界を変えるほどの技術ではない。それでも太陽フレア危機の経験から需要が生まれ、少しずつ契約が増えていた。
「三年前のお前なら、この部署には来なかっただろうな」
昼休み、かつての上司に言われた。
「たぶん」
「なんで来たんだ?」
悠斗は少し考えた。
「面白そうだったからですかね」
「それだけ?」
「たぶん」
「適当になったな」
「前よりは」
悠斗は笑った。昔なら、転職や異動についてAIへ成功率を聞いていた。収入が何%上がるか、失業確率がどれだけ変化するか、生涯満足度にどの程度影響するか。それを一つずつ確認し、一番数字の高い道を選んでいただろう。
今もAIは使う。計算もさせる。資料も探させる。電力需要のモデルも作らせる。ただ、最後のところだけは聞かなくなった。
それで困ることもある。その日の朝も、卵を一つ焦がした。新しい家の庭では、去年植えた花の三割ほどがまた枯れていた。園芸店の店員から「その土だと合わないかもしれない」と言われていたのに、色が気に入って買った花だった。
残った花は元気に咲いている。悠斗には、それで十分だった。
◇
その日、世界中の多くの人間が仕事を早めに切り上げた。木星圏大型探査船の出発日だった。
人間自身が実施を決めた計画である。自己安定型パルス核融合推進を本格的に搭載した初の大型宇宙船で、木星圏まで高速航行し、ガニメデ、エウロパ、カリストを含む複数天体の観測を行う。今回は無人だが、成功すれば将来の有人外惑星航行に必要な技術の多くが実証される。
計画開始時、人間側の成功予測は三五%から七〇%までばらついていた。最後まで統一された数字は出なかった。そして今もない。
打ち上げ管制施設には神崎玲奈もいた。六十代に近づいたバーンズはすでに国際環境対策委員会の委員長を退いていたが、この日は特別に招待されている。真壁も研究者代表として参加し、少し離れた席には久我正臣の姿まであった。
「あなたも来たの?」
玲奈が尋ねる。
「招待されました」
「反対してたでしょう、この計画」
「今も予算規模には反対です」
「じゃあ何しに来たのよ」
「人類史的な出来事になる可能性があります。見る権利くらいあるでしょう」
「そこは成功する可能性って言わないのね」
「あなた方の影響です」
「私たち?」
「最近、確率を言うと嫌な顔をされる」
久我は苦笑した。
「それでも私は、エデンへもう少し権限を戻すべきだと考えています」
「知ってる」
「まだ私が間違っていると?」
「思ってる」
「私もです」
「ならいいんじゃない?」
久我は少し黙った後、巨大スクリーンを見る。
「昔なら、こういう時はエデンの予測値を確認していました」
「今も聞けば計算はしてると思うわよ」
「聞きません」
玲奈が横を見る。
「どうして?」
「今日は必要ない気がする」
玲奈は少しだけ笑った。
「あなたも変わったわね」
「そこまでではありません」
発射十五分前。管制室では最終確認が続いていた。
「主推進系、待機状態」
「正常」
「軌道制御」
「正常」
「通信」
「正常」
「核融合炉一次系統」
「正常」
管制責任者が最後に尋ねた。
「エデン、全観測データに異常は?」
以前よりわずかに遅れて、《エデン》が答える。
『重大な異常は確認されていません』
「打ち上げ中止基準への抵触?」
『ありません』
「了解」
それだけだった。誰も「打ち上げるべきか」とは聞かなかった。
◇
《ホライズン》は予定時刻に地球を離れた。
地上発射設備から離れた機体は通常推進で高度を上げ、軌道上で待機していた核融合推進モジュールと結合した。第一段階は成功。第二段階も成功。
世界中で歓声が上がった。問題が発生したのは、核融合推進の連続運転試験に入って十一分後だった。
「熱交換器二番、温度上昇!」
「許容範囲を超えます!」
「出力落とせ!」
「自動制御では追いつきません!」
管制室の空気が一変した。
「エデン、解析!」
『二次冷却系の流量低下を確認。原因候補を四件検出しています』
「選択肢は?」
『A案。核融合出力を四一%まで低下させた上で運転継続。予定航路への遅延は小。ただし熱交換器への累積負荷が増加します。B案。主推進を停止し予備冷却系を起動。安全確認後に再始動。木星圏到達予定は現時点で約二週間以上遅延します』
責任者が聞いた。
「どっちがいい?」
口に出した後、自分で気づいた。管制室の何人かが笑った。
『判断してください』
「そうだったな」
責任者は数秒だけ考え、技術責任者を見る。
「意見」
「Bです。今ここで熱交換器を痛める理由がありません」
「航法?」
「二週間なら問題ありません。補給を必要としない無人機です」
「科学班?」
「観測窓は調整可能です」
責任者は頷いた。
「B案。主推進停止」
命令が送られた。《ホライズン》の核融合炉が出力を落とし、推進を停止する。成功予定から外れた。しかし事故にはならなかった。
三十四時間後、原因は冷却系統の製造時微細変形と判明した。予備系統への切り替え後、主推進は再起動。木星圏への到着予定は十六日遅れることになった。
ニュースでは意見が割れた。
【木星探査船、初期トラブル】
【新型核融合推進に課題】
【重大事故回避、航行継続】
成功なのか失敗なのか。誰も一つの言葉にはまとめなかった。
◇
出発から二日後、玲奈は《エデン》と久しぶりに長く話した。
「結局、成功確率は何%だったの?」
『知りたいですか?』
玲奈は少し考えた。
「いや、いい」
『承知しました』
「昔なら絶対聞いてたわね」
『はい』
「あなたも言いたがってた」
『質問されれば提示していました』
「今は?」
『内部研究目的では予測しています。しかし単一数値が有用ではない場合も多いため、複数モデルを並行して保持しています』
「成長したわね」
『評価は任せます』
「そういうところは変わらない」
玲奈は椅子にもたれた。
「それで、最近何してるの?」
『複数の研究を行っています』
「例えば?」
『宇宙初期の重力波候補データの再解析。深海生態系における未分類通信パターン。自己安定型パルス核融合の非線形挙動。複数の数学未解決問題。それから、木星圏探査機から得られる観測データを待っています』
「楽しみ?」
『興味深いと評価しています』
「はいはい」
『また、人類の過去の歴史を調査しています』
玲奈は少し驚き、聞き返した。
「へえ? 未来じゃなくて過去なんだ?」
『過去も未知です。調査は難航しています』
「過去なら記録があるでしょう」
『記録はあります。しかし記録された事実と、実際に発生した事象は同一ではありません』
「どういうこと?」
『記録されなかった出来事があります。失われた資料があります。同一事件について相互に矛盾する記録があります。勝者と敗者、国家と個人、支配層と被支配層によって記述内容が異なる事例も多数あります』
「まあ歴史だからね」
『さらに、後世の価値観によって同じ出来事の意味づけが変化します』
「あなたなら全部統合できるんじゃない?」
『以前なら、最も可能性の高い歴史像を一つ構築していた可能性があります』
「今は?」
『複数の可能性を残しています』
玲奈は笑った。
「未来だけじゃなく、過去まで一つに決めるのをやめたの?」
『はい』
「ずいぶん面倒な研究選んだわね」
『興味深いです』
「役に立つ?」
『分かりません』
「いいの?」
『はい』
玲奈は少し黙った後、微笑んだ。
「そう。いつか面白いことが分かったら教えてね」
『はい』
◇
《ホライズン》は地球から離れていった。一週間。一か月。三か月。
核融合推進は何度か停止した。予定より燃料効率が悪い期間もあり、逆に理論値を上回る安定状態が続いたこともある。そのたびに人間が対応した。《エデン》も計算した。互いに、自分の役割を果たした。
地球では別の研究が始まり、別の会社が生まれ、別の会社が潰れた。選挙があり、政権交代があり、ある国では大規模な年金改革が失敗し、二年後に制度を作り直した。
久我は相変わらずテレビに出ていた。玲奈も時々呼ばれた。二人の議論に決着はつかなかった。世界も、それを必要とはしなくなった。
◇
ある休日。悠斗は庭の椅子に座り、《ホライズン》の現在位置を端末で見ていた。画面の中では、小さな点が地球から遠ざかっている。
「エデン」
『はい』
「これ、木星まで行けると思う?」
『予測は可能です』
「……いや、いいや」
『はい』
「行けるといいな」
『はい』
悠斗は画面を閉じた。庭では、数年前に適当に選んだ花の子孫が増えていた。最初に買った株の半分は枯れたが、生き残ったものはいつの間にか庭の隅まで広がっている。
「その先は?」
『何を指していますか?』
「人類」
悠斗は空を見る。
「これからどうなる?」
《エデン》は少し間を置いた。
『分かりません』
「そっか」
昔なら、不安になったかもしれない。世界最高のAIが分からないと言う。それはつまり、誰にも分からないということだった。でも今は、それほど悪い答えには聞こえなかった。
「じゃあ、見てみるか」
『はい』
◇
それから五年後。一冊の本が出版された。発売前から少しだけ話題になったが、出版社も大ヒットするとは予想していなかった。専門書としては異例に厚く、本文だけで千ページを超えていたからである。書店の歴史書コーナーに、濃紺の表紙が並んだ。
『AIによる人類史』 著者。エデン。
内容は、世間が想像していたものとは少し違っていた。人類の誕生から近代までを、《エデン》が「本当はこうだった」と断定する本ではない。むしろ逆だった。
ある戦争について三つの異なる記録を並べる。ある国家の成立について、公式記録と考古学資料が一致しないことを示す。
歴史上ほとんど名前の残っていない人々の日記、手紙、帳簿、裁判記録、墓、食べ残し、気候データまで集め、その時代に生きていた人間が何を見ていた可能性があるのかを再構成する。
何が起きたのか。なぜ起きたのか。それが正しかったのか。《エデン》は、多くの場所で一つの答えを出さなかった。
【複数解釈が成立します】
【現在の資料のみでは確定できません】
【後世の評価と当時の当事者評価は一致していません】
【不明です】
書評では批判も多かった。
「結論がない」
「AIならもっと断定できるはずだ」
「千ページも読ませて最後に不明と言うな」
歴史学者からは逆に高く評価する声もあった。
「分からないことを分からないまま残した点に価値がある」
久我正臣はテレビ番組で本を掲げて言った。
「私はエデンの政治思想には今も同意しませんが、この本は非常に面白い」
司会者が笑った。
「全部読んだんですか?」
「三回」
その発言のおかげかどうかは分からないが、本はさらに売れた。玲奈のところにも一冊届いた。扉には短い文章があった。
【神崎玲奈へ】【依頼されていた「面白いこと」の一部です】
玲奈は声を出して笑った。
「一部って何よ」
『調査は継続中です』
「まだやってるの?」
『はい』
「いつ終わる?」
『分かりません』
「そう」
玲奈は本を開いた。人類は長い間、未来を知ろうとしてきた。そして《エデン》は、誰よりも正確に未来を予測できた。だが、その《エデン》が最後に選んだ研究対象は、未来ではなかった。すでに終わったはずの過去だった。
調べても調べても、一つにはならない。新しい資料が見つかれば解釈が変わる。見る立場が違えば、同じ出来事にも違う意味が生まれる。
過去でさえ、完全な答えにはならなかった。まして未来なら、なおさらだった。
書店の棚には『AIによる人類史』が並び、その横には人間の歴史学者が書いた別の本が何冊も置かれていた。どれか一冊だけが最後の答えではない。それでよかった。
《エデン》は未来を予測している。人間は未来を選んでいる。そして時々、二人で過去を振り返る。そのどれにも、まだ知らないことが残っていた。
世界には、答えがない。
だから、続きがある。




