数えられない一項
ヴェルデン大公府筆頭顧問として迎える最初の朝、わたくしの机には、三通の最終報告書が置かれていました。
一通目は、王国法廷から。
レナードの判決は確定し、継承権を失った一私人として法の管理下に置かれました。黒鷲衛兵隊の残党も全員の所在が確認され、武器を預けた四十六名は、監督を受けながら水路清掃と街路修繕に従事しております。
侵攻に用いられた荷車と馬は被害返還へ充てられ、鎖で連れ出された王都民には未払い賃金と帰還費が支給済み。
王命で車輪を回そうとした方は、最後まで、ご自分の足で責任の場所へ歩くことになりました。
まことに妥当な結末でございます。
二通目は、十二席評議会の常設清算部署からでした。
正式に退位した前国王は監督下の離宮で暮らし、政治へ関与する権限を持ちません。王家直轄領の統治権は十二席評議会へ恒久移管され、対外債務の連帯保証人欄も、先日わたくしが記した『C.A.』の署名によって再契約が成立しております。
ただし、わたくしが保証したのは王冠ではなく、民の暮らしを守る返済手順だけです。
第一順位の未払い賃金、第二順位の食糧・医療・孤児院、第三順位の国内小口債権者。その順序を変えない限り、七年の返済は評議会の手で継続されます。
同じ報告書には、旧アッシュフォード公爵家の清算も記されていました。
イザベラが冬越し税を三倍にし、三百六十二名を追放したことで失われた労働力と税収。衣装、宝飾品、夜会、不要な改装に費やされた金額。そして、彼女が握っていた領地金庫の鍵によって開かれた支出のすべて。
それらは一枚残らず、旧公爵家の奢侈債務として確定しました。
領民へ付け替えられる額は、銀貨零枚。
イザベラ自身は旧公爵家の管理下にある住居で、生活費を制限されながら返還手続きに従うことになります。
あの鍵は、金庫を所有する証ではございませんでした。
誰が金庫を空にしたかを示す証拠だったのです。
「鍵にも、ずいぶん正直な一生があるものですね」
お茶を置いたハンナが申しました。
「あなたの商家時代の人脈ほどではございませんわ」
「おかげさまで、マリエルと黒鷲衛兵隊の噂は、役人の早馬より先に拾えました」
没落した商家の娘が守り続けた縁は、最後まで誰かを陥れるためではなく、被害を広げないために働きました。
三通目は、そのマリエルについてです。
三十日の仮保護を終えた彼女は、偽りの聖女ではなく、一人の証言協力者として処分を受けました。私有財産は被害返還のために保全され、提出した二重計上帳簿と証言は情状として記録されています。
亡命を褒美として与えられたわけではございません。
今後は監督下で魔力器具の検品と記録に従事し、自ら得た賃金で暮らします。奇跡ではなく実務によって得た、合法的な居場所です。
借り物の祝福に集まっていた信者は、返還額を記した請求書が掲示されると、きれいに姿を消したそうです。
信仰にも納品書は必要だったようでございます。
銀板の子板十一枚は王都で接続金具を外され、親板はヴェルデンと十二席評議会の共同保管庫へ移されました。親板と子板の接続を切ったことで銀色の水の逆流は半日で止まり、王都北側の井戸十八か所も、朝夕二回の検査で異常なし。
水樽専用の荷車六台は本日も走り、井戸番二名には常雇いの賃金が支払われています。
王冠も、奇跡も、わたくしの署名もなくてよいのです。
明日の水が、今日と同じ手順で安全に汲めるなら。
わたくしは三通すべてに確認済みの印を押しました。
「これで、アルデンツ王国から届く最後の清算報告でございますね」
「はい。王国清算人ではなく、ヴェルデン大公府筆頭顧問としてお受けになる最後の報告です」
ハンナはそう答えると、わずかに誇らしげな顔で空になった盆を抱えました。
「では、わたくしも新しい仕事へ戻ります。北境第一協同宿場の三百六十二名から、今年最初の共同倉庫が完成したと知らせが参りましたので」
「皆様はお元気?」
「ええ。全員、ヴェルデンの自由民として忙しくしております」
追放された者たちは、誰かに赦される日を待つのではなく、自分たちの手で新しい住所に屋根を掛けました。
わたくしも同じです。
王都へ戻れないのではない。
ヴェルデンに残ると、自分で決めたのです。
午前中、わたくしは筆頭顧問として、共同倉庫へ通じる道の補修費と、井戸番の増員案を承認しました。三か月の試用中には意見として提出していた書面へ、今度は正式な権限と責任をもって署名します。
新しい成果は、華々しいものではございません。
けれど、雨の日にも穀物が濡れず、井戸番が病の日にも検査が止まらない。
そういう数字を積み上げる仕事を、わたくしは好ましく思っております。
夕刻、予定表どおりに羽根ペンを置きました。
執務室には、母の形見の算盤だけを残します。
扉を叩いたエルネスト様は、書類を一枚も持っていませんでした。
「公務を話さない一刻ですわ」
「ああ。だから印章も置いてきた」
「大公殿下が手ぶらとは、珍しいこと」
「今日は、大公として契約を結びに来たわけではない」
彼は机の前まで来ると、古い算盤へ目を落としました。
「初めて君を探したとき、私が欲しかったのはC.A.の才だった」
「存じております」
「帳簿を読み、流れを整え、誰も見落とす損失を拾う者。その力をヴェルデンに迎えたかった」
彼の指が、擦れた木枠の手前で止まります。大切なものだと知っているから、勝手には触れません。
「だが、共に働くうちに、私は君が数字にしないものを知った。追放された者の誇りも、過ちを認めた者の働く場所も、帰り道で手を繋ぐ時間も、君は決して損得だけでは切り捨てない」
胸の奥に、静かな熱が広がりました。
互いの想いを告げたあの日も、この人と一緒に帰りたいと自ら選んだ夜も、彼は答えを急がせませんでした。
わたくしが自分の住所を、自分の仕事を、自分の明日を選び終えるまで、隣で待っていてくださったのです。
「昨日、君は、自分の財産は数字を読む力だけだと言った」
「ええ」
「ならば、君の算盤で数えられないものになりたい」
エルネスト様は、わたくしの前で片膝をつきました。
王家が署名を求めて頭を下げたときとは違います。
そこにあるのは権威でも、債務でも、取引でもなく、一人の方の選択だけでした。
「セシリア。君の財産の目録に、数えられない一項を加えてほしい」
まっすぐに見上げる瞳が、わたくしだけを映しております。
「才を持つC.A.ではなく、迷い、怒り、笑い、自分の居場所を自分で選ぶ君と、この先を生きたい。私と結婚してくれないか」
母の算盤へ目を向けました。
あの夜、わたくしは婚約も家も失ったのではなく、不要な帳簿を閉じたのだと思っておりました。
それは間違いではございません。
けれど、閉じた後に残ったのは、数字を読む力だけではありませんでした。
わたくしを名で呼ぶ方。
毒舌とお茶で支えてくれる侍女。
働いた分を受け取り、自らの家を建てる人々。
そして、誰かに与えられたのではない、わたくし自身が選んだ場所。
数えられないから価値がないのではございません。
数え切れないほど大切なものを、ようやく財産と呼べるようになったのです。
わたくしは算盤の珠を一つ、自分の指で弾きました。
乾いた音が、静かな執務室に響きます。
「その一項には、評価額を記せませんわ」
「承知している」
「売却も譲渡も認めません」
「望むところだ」
「途中解約の条項もございません」
「なお望ましい」
真剣なお顔のまま答えるものですから、わたくしは笑いました。
笑ってから、自分の意思で彼の手を取りました。
「エルネスト様」
「ああ」
「あなたを、わたくしの財産の目録へ加えることを――承認いたします」
彼の指が、確かめるようにわたくしの指を包みます。
「ありがとう、セシリア」
「礼を申し上げるのは、わたくしも同じですわ」
立ち上がった彼へ、今度はわたくしから一歩近づきました。額が触れ、互いの息遣いが分かる距離で、彼はもう一度わたくしの名を呼びます。
かつて、笑い声の中で婚約を捨てられたわたくしは、「かしこまりました」と答えて、その場所を去りました。
今日、静かな部屋で差し出された未来には、同じ服従の言葉を使いません。
これは誰かの命令を受け入れる返事ではなく、わたくしが選び、わたくしが帳簿へ加える決定だからです。
窓の外では、仕事を終えた荷車が石畳を進んでおります。明日の穀物も、水も、賃金も、定めた手順で届くでしょう。
机の上には母の算盤。
扉の向こうには、ハンナの足音。
握った手の中には、これからを共に数えてくださる方の温度。
失ったものを数える帳簿は、もう必要ございません。
わたくしは、自分で選んだ場所と人を残し、新しい頁を開きました。
(完)
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最後までお読みいただき、ありがとうございました。
同じ日々を"捨てた側"から描いたスピンオフ短編を公開しています。
『【スピンオフ・読切】「無能な君との婚約は破棄する」と笑われた夜、勝ったのは私でした
――偽聖女が銀板三枚目で奇跡の正体に気づき、王都の井戸が濁った日に殿下の帳簿を差し出すまで』
セシリアが一礼して去ったあの夜、殿下の腕の中にいた女の話です。
彼女がいつ「祝福」の正体に気づき、なぜ最後に殿下の帳簿を差し出したのか。
本編では書かれなかった側を、一本の読みきりにまとめました。




