帰る場所は、自分で選びます
退任申請書は、引き止める言葉より先に受領印を得ました。
翌朝、十二席評議会の円卓へ提出した書面には、わたくしの名と退任希望日、その理由を簡潔に記してあります。
清算の第一順位から第三順位まで、支払い完了。
王家直轄領の統治権、恒久移管済み。
対外債務の返済日程、確定。
銀板の親板はヴェルデンと十二席評議会の共同保管へ移り、子板十一枚は接続金具を外して王都で管理。井戸の水質確認、水樽専用荷車六台の定期運行、元黒鷲衛兵四十六名の所在と武器返納も、すべて常設部署の帳面へ引き継がれております。
つまり、王国の暮らしはもう、わたくし一人が机へ縛りつけられていなくても回るのです。
「任期は三年だったはずです」
評議席から確認の声が上がりました。
「はい。ですが任用書には、恒久移管が完了し、十二席評議会が後任部署の自立を認めた場合、任期途中の退任を妨げないとございます」
わたくしは引継目録を差し出しました。
「責任を果たすことと、いつまでも責任者の椅子へ座り続けることは別ですわ」
誰か一人がいなければ止まる仕組みは、仕組みとは申せません。それは人質でございます。
かつてのアルデンツ王国は、わたくしが帳簿を閉じれば塩も穀物も止まりました。王家はそれをわたくしの無能の証と考えていたようですが、実際には仕事を一人へ押しつけ、名だけを自分たちのものにしていた証でしかございません。
同じ形を、清算人という肩書きで作り直すつもりはありませんでした。
評議会は引継目録を一項ずつ確認し、最後に全十二席の承認印を押しました。
「王国清算人、セシリア・フォン・アッシュフォード。本日をもって退任を承認します」
「謹んでお受けいたします」
わたくしは立ち上がり、自分から一礼しました。
三年の任期を投げ出したのではありません。三年を待たずとも回るところまで、仕事を終えたのです。
清算庁へ戻ると、ハンナが机の上を見事に空にしておりました。残っているのは、返却する鍵と、最後の受領簿だけです。
「こちらも十二席評議会の常設部署へ引き渡し済みでございます」
ハンナは書簡の束を顎で示しました。
「なお、旧王家に連なる方々から、特別支給、旧来の免税、王宮使用人への優先雇用を求める嘆願が二十七通」
「結果は?」
「二十七通すべて、根拠条項なしとして返却されました」
たいへん清々しい全件一致です。
王冠を失っても、特別扱いだけは残ると思われたのでしょう。けれど、常設部署の役人たちは差出人の家柄ではなく、申請欄の不足を見ます。
わたくしへ直接願えば情で規則を曲げてもらえる、という期待もあったようです。
残念ながら、わたくしは在任中から一度も曲げておりません。
退任後なら、なおさらでございます。
「これで、王都に残した仕事はございませんね」
「はい。帰りの馬車も整っております」
ハンナはそう言ってから、少しだけ声を和らげました。
「お帰りになれますよ、お嬢様」
以前なら、その言葉を聞けば旧公爵邸の門を思い浮かべたかもしれません。
母の部屋。十年分の帳簿。妹が欲しがった金庫の鍵。そして、夜会で浴びせられた笑い声。
けれど今、胸に浮かんだのは別の景色でした。
共通規格の車輪が積まれた交換所。
三百六十二名が自由民として働く北境第一協同宿場。
夜間にも青い荷札を運ぶ早馬。
そして、仕事を終えたわたくしへ、当然のように手を差し出してくださる方。
「ええ。ヴェルデンへ帰りましょう」
それは、かつていた場所へ戻るという意味ではありません。
自分で選んだ先へ進む、という意味でした。
国境を越えたのは翌日の昼過ぎです。
共同検査所では、王都へ向かう穀物車と薬草車が滞りなく受領印を得ていました。水樽の荷車ともすれ違いましたが、御者はわたくしの馬車を止めません。
会釈を一つ交わし、それぞれの道を進みます。
わたくしが見張らずとも、車輪は回っておりました。
それが何よりの成果です。
ヴェルデン大公府へ着くと、執務室には一通の任用書が置かれていました。
大公府筆頭顧問、三か月の試用期間満了。
勤務評価には、関税台帳の再編、共同交易組合の設立、車軸交換所三か所の整備、早馬網の制度化、北境第一協同宿場の収支改善が列記されています。
最終欄に記された判定は、本採用。
けれど、署名欄は空白でした。
「大公府側の印は、すでに揃っております」
背後から聞こえた声に振り返ると、エルネスト様が扉の前に立っていました。
「残るのは君の意思だけだ」
「王国清算人を辞めたばかりの者を、ずいぶん急いで雇われますのね」
「三か月待った。私としては十分に慎重だ」
「評価に私情は含まれておりませんか」
「含めないよう、実務評価は全担当部署に書かせた」
「では、大公ご自身の評価は?」
エルネスト様は少し考えてから、まっすぐ答えました。
「筆頭顧問としては、手放す理由が一つもない」
「それ以外では?」
「その評価は、公務の書面へ書くべきではないな」
低い声に胸が温かくなりましたが、わたくしは任用書から目を逸らしませんでした。
ここに残るのは、求められたからではありません。
王都へ帰れないからでも、旧公爵家に居場所がないからでもございません。
わたくし自身が、ここで働き、暮らし、明日を積み重ねたいと望んだからです。
羽根ペンを取り、正式な名を記しました。
セシリア・フォン・アッシュフォード。
続いて住民台帳の住所継続欄にも署名します。
「大公府筆頭顧問の本採用を、お受けいたします」
「歓迎する、セシリア」
「それから、わたくしはヴェルデンに定住いたします」
エルネスト様の表情が、ほんの少しだけほどけました。
「それも、筆頭顧問としての判断か?」
「いいえ」
わたくしは彼の前で、はっきりと首を横へ振りました。
「わたくし個人の選択ですわ」
その答えを聞いた彼は、わたくしの手を取りました。強く引くことも、逃げ道を塞ぐこともせず、指先へ確かめるように触れます。
「ありがとう」
「礼を言われることではございません」
「それでも言いたい」
わたくしは握られた手を返しました。
選んだ場所で、選んだ方と手を繋ぐ。
それは契約書のどこにも書かれていない、本日の成果でございます。
夕刻、荷解きを終えたハンナが、小さな木箱を運んできました。
「最後の一箱でございます」
蓋を開けると、布に包まれた古い算盤が現れました。
母の形見。
夜会を去ったあの日、宝石より先に馬車へ積んだ、たった一つの私物です。
少し擦れた木枠を指で撫で、筆頭顧問の机の中央へ置きました。珠を一つ弾くと、乾いた懐かしい音がいたします。
肩書きも、家名も、王家との婚約も、すべて外した後に残ったもの。
「結局、わたくしの財産は、数字を読む力だけですわね」
独り言のつもりでしたが、隣にいたエルネスト様には届いてしまったようです。
彼は算盤とわたくしを見比べ、それから机上の予定表を手元へ引き寄せました。
「では明日の、公務を話さない一刻を私にくれないか」
「何をなさるおつもりです?」
「君の財産について、一つ相談がある」
わたくしは明日の夕刻の欄を、自分の手で空けました。
(第35話へ続く)




