第十二話 迷子の二人
「……ねえ、カーナック。一つ訊いてもいい?」
「何だ?」
「わたしたち、さっきから同じ道をぐるぐる回っているような気がするのだけど」
「……」
意を決して投げかけた問いに返ってきたのは、気まずそうな沈黙だった。
それは王宮からの帰り道。いつも宿泊している宿へ戻ろうと歩き出したはずのわたしたちは目下、道に迷っていた。
カーナックはそれを認めたくないみたいだけれど、どう考えたって先程から同じ道を何度も通っている。わたしたちが今いるのは大通りを逸れた裏道で、初めは大通りの隣の路地を歩いていたつもりが、いつの間にか知らない道に入り込んでしまったみたいだった。
何故今日に限ってそんな慣れない道を歩いていたのかと言えば、王宮での一件で泣き腫らした顔をしているわたしのことを、カーナックが気遣ってくれたからだ。わたしは今日も顔を隠すためのパーを被っているものの、それでも人前を歩くのは気が引けたから、初めはそんな彼の心遣いを有り難く受け取った。
けれど、その結果がこれだ。塔の町は基本的に似たような外観の塔が乱立しているので、土地勘のない人間は迷いやすい。
それでもわたしがここは先程通ったのと同じ道だと断言できるのは、とある塔の上階に設けられた窓、そこに置かれた黄色い花の鉢植えに見覚えがあるからだ。わたしはあの鉢植えを少なくとも三回は目にしている。何度か見逃しているだけで、本当はもっと多くあの鉢植えの下を歩いているかもしれない。
ここまで来たら人に道を尋ねるしかないだろう。そう思ったものの、大通りから外れた裏道はどこも閑散としていて、まず道を尋ねる相手がいなかった。
思わず仰ぎ見た塔の陰で、秋の太陽は空の最も高い位置にいる。つまり今は昼時だ。
この時間、町の人たちはそのほとんどが昼食を取るために出払ってしまうから、人がいないのは仕方がなかった。軽食を売る屋台や食堂のほとんどは町の大通り沿いにあることを考えれば、それは自明の理と言える。
「カーナックはこの町の人じゃないの?」
「いや……町には何度か来てるんだが、このあたりには詳しくない、というかだな……」
「じゃあ、どうしてそんな道を通ろうとしたのよ」
「この間、衛兵に追われたときにナットとこのあたりの道を通ったはずなんだ。だから見覚えのある道にさえ出れば、すぐに……」
と強がってはみせるものの、カーナック自身、既に自信を喪失しつつあることは次第に弱々しくなっていくその口振りから窺えた。
まったく、そんなにあやふやな記憶に頼って道を逸れるくらいなら、わたしのことなんて気にせず大通りを歩いてくれて良かったのに。わたしは変なところで抜けているカーナックの行動に内心ため息をついてから、ふとあることを思いつく。
そうだ。いっそ清々しいまでに人気がない今なら、訊けるかもしれない。
カーナックが真実を答えてくれるかどうかは、分からないけれど。
それでもわたしには王宮へ乗り込む前に、どうしても彼に確認しておきたいことがあった。
そこでわたしは腹を決め、前を行くカーナックの手をきゅっと握ってから、言う。
「ねえ、カーナック。もう一つ訊いてもいい?」
「いや、もう少し待ってくれ。絶対この方向で合ってるはずだから……」
「そうじゃなくて――カーナックは、どうして殺し屋になったの?」
それまで意地になって歩みを進めていたカーナックが、突然ぴたりと足を止めた。
それにつられてわたしも立ち止まる。後ろからじっと視線を注いだけれど、カーナックはこちらを振り向いてはくれなかった。
「……。気になるのか?」
「ええ、少し……」
「それを君が知って何になる?」
そう聞き返してきたカーナックの声には少しだけ、突き放すような響きがあった。
わたしはその冷たい声に一瞬、怯みそうになったけれど。
今ここで聞いておかなければ、もう二度と尋ねられる機会は訪れないかもしれない。
そう心を奮い立たせ、なおも彼から目を離さずに言う。
「ナットが言ってたわ。チャイディ王子暗殺の件、本当はあなたも迷ってるんだって。その理由までは教えてくれなかったけど……あなたが自分の意思で殺し屋になったなら、それを迷う理由がどこにあるのだろうと思ったのよ」
「……」
「それに――わたしはあなたを信じたいの、カーナック。わたしたちはこれからお互いに命を預け合うわけだし、わたしには、その……あなたが本物の悪人だとは思えないわ」
カーナックは沈黙を続けた。その沈黙がわたしにはとても長く、重く感じられたけれど、じっと息をこらしてカーナックの答えを待った。
やがて静かすぎるほど静かな裏路地にカーナックのため息が落ちる。
それから彼はわずかにこちらを振り返り、言った。
「少し休むか」
「え?」
「歩き疲れた。暑い。日陰で休みたい」
急に駄々っ子のようなことを言い出して、カーナックはぱっとわたしの手を放した。
それからつかつかと、通りに長い影を落としている塔の麓へ歩み寄る。そこで塔の壁に背を預けて座り込むと煩わしそうに被り布を外し、息をついて空を仰いだ。
「俺が殺し屋になった理由、だって?」
そのまま再びだんまりを決め込むつもりかと思いきや、カーナックは唐突にそんなことを言う。
戸惑いながらも彼に歩み寄ろうとしていたわたしは、そこでびくりと足を止めた。怯えることなど何もないと分かっていたけれど、何故かそのとき、わたしはそれ以上カーナックに近づくことができなかった。
「逆に君は、どうして俺が殺し屋になったと思う?」
「そ、それは……何か、必要に迫られて……とか?」
「まあ、そうとも言うかな。――俺にはさ、命に代えても守りたい人がいるんだ」
そのとき、ドクンと。
わたしの心臓が、胸を突き破って飛び出してくるんじゃないかと思うくらい大きく鳴った。
――命に代えても、守りたい人……?
つまりカーナックは、その人を守るために殺し屋になったということ?
そんな人が、カーナックには、いるんだ……。
そう思った途端頭がぐらぐらとして、急速に喉が渇き――けれどわたしは一縷の望みに縋るような気分で言う。
「そ、その、守りたい人っていうのは……あなたの家族? 友達? それとも……恋人?」
「――婚約者だ」
ガツンと、鉄の大鎚で頭を殴られたような、そんな衝撃がわたしを襲った。
婚約者。カーナックの。
彼にそんな人がいるだなんて知らなかった。想像もしていなかった。
――でも、だから何だと言うのだろう?
どうしてわたしは今こんなにも動揺し、訊かなければよかったと、数瞬前の自分の質問を後悔しているのだろう?
「俺は彼女を救うために殺し屋になった。そうする以外に方法がなかった。本当は分かってるんだよ。こんなことをしたって、誰も幸せになれないことくらい……」
「……」
「だけど、もう他にどうしようもないんだ。この際俺はどうなったっていい。こんなことを言ったら、彼女はきっと怒って、悲しむだろうけど……それくらい、大切な人なんだ」
「……どんな」
「え?」
「どんな人なの? その人……」
この動揺を覚られまいと、自分を見失うまいと、わたしは必死に平静を装って尋ねた。
でも、本当はそんなこと聞きたくない。カーナックの方を直視できない。わたしは胸がズキズキと痛むのを感じながら、自らの腕を掴んで震えを殺し、あらぬ方向に目を向けてカーナックの答えを待つ。
「少し、君に似てるかな」
「……え?」
「顔も、性格も。特に見た目は大人しそうなのに、いざとなると脇目も振らず突っ走るところとか」
そう答えたカーナックの口調には、揶揄の響きが多分に含まれていた。
けれどわたしは、それに言い返すことができない。いつもなら間違いなく反論している場面だと自分でも分かっているのに、何も言葉が出てこない。
だって、それってつまり。
今の私は、彼にとって〝彼女〟の代わりだということ――?
「そ……その人は、今、どうしてるの……?」
「俺を待ってる。……約束したから」
「それじゃあ、あなたがわたしを助けたのは――わたしがその人に似てたから?」
ああ、何を訊いているんだろう。
自分でも何を言ってるのか、正直よく分からなかった。
まるで思考がぼやけてるみたいに、何も考えられなくて。
ただ、今もぐらぐらと揺れるように騒ぐ頭がうるさくて、
「そうだよ」
わたしは、息が詰まった。
喉が熱い。ちょうどさっき、王宮前で泣き崩れたときもこんな感じだった。
だけど今はあのときとは少し違う。涙の代わりにただただやり場のない感情が溢れて止まらない。
わたしは馬鹿だ。
一体カーナックに何を期待して――
「――嘘」
「……え……?」
「嘘だよ」
そう言ってカーナックは立ち上がった。
脚衣についた汚れを払いながら、茫然と立ち尽くしていることしかできないわたしを見て、うっすらと笑う。
「まさか、今の話も信じたわけじゃないよな?」
「どういう、意味……」
「殺し屋の言うことなんて、いちいち真に受けるなってことだよ」
そのときわたしは彼の前で、一体どんな顔をしていたのだろう。
本当は文句の一つも言ってやりたかった。けれど色んな思考と感情が絡まって、わたしはからからに渇いた喉からたった一片の言葉を拈り出すこともできなかった。
そんなわたしの目の前までやってきて、彼は笑う。
苦笑のような、冷笑のような、自嘲のような、そんな笑みで。
「そんな顔しないでくれ。俺には君だけだよ、スーリヤ」
耳元で囁いて、それからカーナックは再びわたしの手を取った。
そうしてふいと前を向き、歩き出した彼の背中が滲む。
けれどわたしは唇を噛み締めて、その背中に毒づいた。
ああ、嘘つき。




