表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/34

第十三話 獣のみぞ知る

 カーナックが水浴びをしている音が、絶え間なく聞こえていた。

 わたしたちが宿泊している宿では、各部屋に散水浴ができる小さな個室がついている。塔の天辺に雨水を貯めておくための水槽があって、栓を開けるとそこから下りてきた水が蓮口から噴き出してくるという優れものだ。

 普段なら夜の水浴びはわたしが先に済ませるのだけれど、今日は体調が悪いから少し休むと言って順番をカーナックに譲っていた。

 梁から吊るされた光繭が、昼間のうちに蓄えた日の光で室内をやわらかく照らしている。その繭の灯りに包まれた部屋の中には、今はわたしとノーンしかいない。


「ねえ、ノーン。わたし、どうしちゃったのかしら」


 浴室から聞こえるくぐもった水音を聞きながら、わたしは寝台の上で膝を抱えていた。

 一方のノーンは、砕石によって渦巻きが描かれた床に寝そべっていて、わたしが呼びかけるとぴくりと耳を立てる。自分が話しかけられたことをきちんと理解しているのだろう、彼は行儀よく揃えていた前脚の上から顔を上げ、わたしを振り向いてきた。


「こんなの、変よね。カーナックのこと、初めは警戒していたし、どこかで軽蔑すらしていたはずなのに……たった数日一緒にいただけで、気づいたら彼が人殺しでも構わないと思うようになってた。誰かの命を糧にして生きている人間なんて、信用しちゃいけない。頭ではそう分かってるの。だけど……」


 それはノーンに話しかけているというより、自分の考えていることを言葉にして気持ちを整理するための、独り言のようなものだった。

 けれどノーンは、そんなわたしの言葉にじっと耳を傾けている。わたしが自分の膝を見つめたまましばらく黙り込んでいると、先を促すように「クーン」と鳴いた。

 わたしはそんなノーンに目を向けて苦笑する。そこから先の想いを言葉にするのは、怖かった。

 だけど今ここで向き合わなければ、わたしはそれを乗り越えられないような気がする。立ち止まったままでは、明日からどんな顔をしてカーナックに接すればいいのか分からない。


「だけどね、わたし……カーナックに大切な人がいると知ったとき、傷ついた。とても傷ついたの……勝手よね。初めはカーナックのことを少しも信用してなかったくせに、都合のいいときばかり彼に頼って、甘えて……勝手に裏切られたような気分になって。そんな自分が、とんでもなく嫌になるわ。わたしは一体何を思い上がっていたんだろうって」


 再び視線を膝の上に戻し、わたしは自嘲した。

 だけどそのとき、自分を嘲笑ったはずの喉が引きれて。じわりと瞼の裏に滲んだものを拒絶するように、わたしは唇を噛んでうなだれる。

 自己嫌悪の渦は、今もわたしを苛んでいた。いっそそのまますべてを呑み込んで、攫っていってくれたらいいのにと思うほど。


 わたしはこの数日間で、間違いなくカーナックに惹かれていた。初めはそれを認めたくなかったけれど、今日のカーナックの話を聞いて本心を暴かれ、それを認めないわけにはいかなくなった。

 どうしてこんなに彼に惹かれてしまったのか、自分でもよく分からない。

 だけどカーナックはきっと、わたしのことなんて何とも思っていないのだ。目的のために体よく利用できる手駒――という認識よりは少しでもマシであることを願いたいけれど、実際のところはそれと大差ない存在として見られているに違いない。


 この恋は危険で、望み薄だ。何度も自分にそう言い聞かせた。

 なのに。

 なのにどうして、涙が止まらないのだろう。どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。

 魔女の呪いで記憶があやふやになったわたしにとって、カーナックは唯一頼れる存在だった。

 だから、なのだろうか。

 胸にぽっかりと穴が開いたみたいに、ひどい喪失感と悲しみだけが心を満たすのは。


「キューン……」


 そのとき、ズシリと寝台が軋む音がして、すぐ耳元でノーンの鳴き声が聞こえた。

 額を預けた膝から少しだけ顔を上げれば、間近にノーンの顔がある。彼は泣いているわたしをどこか心配そうに見つめると、首を傾げて鼻を鳴らし、やがてぺろぺろとわたしの頬を舐めてきた。


「ノーン……慰めてくれてるの?」

「ウォン」

「ありがとう……優しいのね」

「キュオン」

「わたし、どうしたらいいのかな。記憶が戻れば、わたしにも帰るべき場所ができるかな……? 今はもう何も思い出せないけど……どこかに、わたしを待っていてくれる人が――」


 ――そんな人が、果たして本当にいるのだろうか。

 底なし沼のような不安に呑まれそうになったそのとき、浴室の方で扉を開けてする音が聞こえた。

 はっとしたわたしは慌てて涙を拭い、平静を装おうとする。カーナックは着替えているのだろう、しばらく物音が途絶えると、やがて洗面所の方からやってくる足音が聞こえた。


「スーリヤ。浴室、空いたぞ」


 次いで響いたカーナックの声はいつもと変わらない。けれどわたしは彼を見ることができなくて、ただ小さく頷いた。

 なるべく顔を見られまいと、隣の寝台に腰かけたカーナックから目を背ける。幸いしたのはカーナックが頭を拭きながら、こちらには背を向けるような形で座ってくれたことだ。


「具合は?」

「うん……大丈夫」

「調子が悪いなら、無理に水浴びしなくてもいいと思うぞ。それで余計に体調を悪くしたら世話ないし」

「ありがとう。でも少し休んだら良くなったから」


 自分でも可笑しいくらい早口にそう言って、わたしは寝台を下りた。

 今、この部屋でカーナックと二人きりでいることが耐えられない。わたしは手早く着替えを揃えると、可能な限りカーナックの視界に入ることを避けながら浴室へと向かう。


「先に休んでくれてていいわ。おやすみなさい」


 一方的にそう言って、わたしは逃げ込むように洗面所の中へと駆け込んだ。わたしの様子があからさまにおかしいことは、カーナックも気づいているはずだ。

 けれどもそれ以上は繕いようがなくて、わたしは石の壁の向こうでうつむき、涙をこらえた。

 そんな自分が、ひどく惨めだった。



          *



 サアサアと、蓮口から溢れた水が床を叩く音が聞こえた。

 控えめに響くその音を聞くともなしに聞きながら、カーナックは頭に乗せた布でごしごしと濡れた髪を拭く。

 水気を含んだ銀髪が首筋に貼りついて、我ながら煩わしかった。コンマニー王国は一年を通して気温が高い。一応四季はあるものの、ここよりもっと北の国々のようにはっきりとしたものではなく、収穫の季節が近づいた今も蒸すような暑さが続いていた。


 水浴びしたおかげで体はさっぱりしたものの、それだって一時的なものだ。どうせ寝ている間にまた汗をかく羽目になるのだろうな、と、そんなとりとめのないことばかり考えていると、ふと背後に視線を感じる。

 何かと思い振り向けば、そこにはスーリヤの寝台の上に座り込んだノーンがいた。

 彼はまるでカーナックを非難するような目で、じと、とこちらを見据えている。もちろんそれはカーナックの心情がもたらす勝手な思い込みに違いないのだが、それでもやはり彼に責められているような気がして、カーナックは苦笑した。


「そう睨まないでくれよ、ノーン。これでも反省してるんだ」

「……」

「分かってるさ。まだ諦めたわけじゃない。だけど、たぶん――もうそんなに時間がない」


 言って、カーナックはそれまで頭の上に乗せていた布を、部屋の隅に置いてある籠へと放った。

 その横顔が、いつになく強張っている。カーナックは深刻な表情のまま一つため息をつくと、そのまま寝台に寝転んだ。


「どうしてこんなことになったんだろうな」

「……」

「……いや、本当は分かってたんだ。このままじゃいけないって。彼女の幸せを思うなら、もっと早くに別れを切り出すべきだった。だけど、それができなかったのは……」


 光繭の垂れる天井を見上げて、カーナックは己の不甲斐なさを恥じた。

 すべては自分の弱さが招いたことだ。その実感は日に日に強くなり、カーナックを押し潰そうとする。

 こんなことになるのなら、もっと早くにすべてを手放してしまえば良かった。

 希望も、未来も――彼女の笑顔さえも。


 そんなものを信じて縋ったから、こんなことになってしまったのだ。自分には救いを求める資格などありはしないのだとこうなる前に気づき、静かに罪をあがなうべきだった。

 なのに。

 なのにどうして自分は手を伸ばしてしまったのだろう。どうして縋ってしまったのだろう。

 それが彼女を苦しめると分かっていながら――。


「キューン……」


 そのときカーナックは、頬に温かいものを感じた。気づけばすぐ傍にノーンがいて、悲しそうに耳を伏せながらカーナックの頬を舐めている。

 そこで初めて、カーナックは自分が泣いていることに気がついた。ノーンはそんなカーナックを慰めるように、今度は額を擦りつけてくる。


「はは……何だ、ノーン。同情してくれるのか?」

「ウォン……」

「ありがとう。……お前は優しいな」

「キュオン」

「だけど大丈夫だ。後悔はしない。たとえどんな結末になろうとも――」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ