アンビバレンス2
ルーインと私は思わず顔を見合わせた。……非常に不本意ながら。
出来得れば居留守でも使ってしまいたいところだが、折悪しく玄関先で声を荒げていた直後だ。誤魔化しは効かないだろう。
「……はーい」
恐る恐るドアを開けると、そこに佇んでいたのは懐かしい顔だった。至近距離で相対するのは半年ぶりくらいか。
「小麦ちゃん、久し振り」
「五弓先輩……え、どうして……?」
この春うちの高等部を卒業されたばかりの先輩が、たった一人で立っていた。『生真面目が服を着て歩いてる』と評されていた五弓先輩だからか、私服姿なのにどこかかっちりした印象を受ける。
知己ではあるものの突然の訪問の理由に思い至らず棒立ちになっていると、何かを探すように私の背後に向けられた先輩の目線が、生前と変わらぬままの兄の姿を捉えたようだ。
「相馬っ……!」
フェミニストでも有名だった五弓先輩が、私の身体を押しのけるように屋内へ一歩踏み込み、兄の胸倉を掴む。
「お前っ……お前、今まで何処にっ……⁉︎ 心配掛けやがって、この、馬鹿野郎……!」
「……騒いだりしてごめん、小麦ちゃん。頭に血が上ってしまって」
我が家のソファーに腰を落ち着けた五弓先輩が、申し訳なさそうに頭を下げた。ちょうど湯呑みを運ぶ途中だったので、お茶が溢れないよう留意しながら慌ててかぶりを振る。
玄関先で立ち話もなんなのでリビングまで上がって頂いたのだった。
五弓徹先輩。兄の友人で元同級生。兄の辞退後に繰り上がり当選を果たし、生徒会長を滞りなく務め上げた優等生。更に受験ギリギリまで兄の捜索を熱心に手伝ってくれていた心篤い有志の一人でもある。
「実は、地方の大学に進学が決まって、高校の先生方に挨拶に伺ったんだ」
「え! おめでとうございます」
先輩は確か国立の医学部志望だったはずだ。
「ありがとう。……そこで偶然、相馬が戻って来たという話を小耳に挟んだものだから」
「あっ……そっか、そうですよね……」
失念していた。父が学校に進路の相談をしたのだから、当然想定しておくべき事態だった。
「昨年あんなにご尽力頂いたのに、不義理をしてしまってすみません。本当ならすぐに兄のことを連絡すべきでしたのに」
「いや、相馬の帰還直後でバタバタしていたんだろうから、気に病まないで欲しい。むしろこっちこそ事前の連絡も無しに押し掛けてしまってごめん。僕の方も気が動転した上に、日程がギリギリで時間がなくて、つい焦った」
そう言って笑う五弓先輩の笑顔はどこか複雑なものを孕んでいる気がする。
今の時期に慌ただしく出立の準備をしているくらいだ。もしかすると合格先は先輩の第一志望ではなかったのかもしれない。本人には絶対に聞けないけど。センター間際まで兄の捜索を手伝ってくれていた事が無関係だとは到底思えなくて、申し訳なさに頭が下がる。
先輩だけじゃない。他にも何人もお世話になっていた人達がいる。進路が決定するまでは皆さん忙しいだろうけど、一段落つく頃になったらきちんと連絡を差し上げなくては。
【兄が、無事に戻ってきました。
皆さんのおかげです。本当にありがとうございました】
──そう、心の底からお礼を言えたなら、どんなに良かっただろう。
「ありがとな、五弓」
押し黙っていた兄が……いや、ルーインが口を開くと、お茶で喉を潤していた五弓先輩は弾かれたように顔を上げた。
「相馬……」
「お前のことだから色々と気を遣ってくれていたんだろう。俺のいない間、小麦が世話になった」
……凄い。
なんて自然な擬態なの。
L字形に配置されたソファーで、カフェテーブルを挟んで客人と斜め向かいに座るその位置。少し開いた両膝に軽く乗せた腕の先で組まれる指の形も、謝罪の中に感謝を織り交ぜている絶妙な表情も。ルーインの口調、話す内容までもが、兄だったらこうあるだろうと思われるそのままだ。
やはり身体を奪っただけではなく、記憶まで我が物としているに違いない。
横で見ている私ですらうっかりすると騙されそうだ。……騙されたままでいられたならどれほど楽だったことか。
「そんな事はいいんだ。それよりお前、拉致でもされてたのか? どういう理由で……今まで一体何処に?」
「悪い。それは家族にも話す気はない」
「そんな理屈があるか! 僕が言うのも差し出がましいが、小麦ちゃんだってご両親だって憔悴するほど心配されていたんだぞ! 言えないってなんだよ⁉︎ まさかお前……!」
問い掛けて、五弓先輩はちらりと私の方を見た。
私は多分席を外すべきなんだろう。
一年ぶりの友人の再会、男同士の語らいだ。親兄妹には言えないような内密の話だってあるかもしれない、普通なら。
でも、隣に座る兄の中身はルーイン。ついさっき暴言を吐いたばかりの獣だ。恩義ある五弓先輩の為にも二人きりになんて絶対出来ない。
だから、私は、空気の読めない妹でいなくては。
「あのっ」
ごん!
「痛っ……私は、お兄ちゃんが元気ならもうそれだけでいいんですっ。だから先輩、これ以上お兄ちゃんを責めないでくださいっ」
間抜け過ぎる。勢いを付け過ぎたようだ。横から抱きつこうとしたルーインに微妙に避けられて、ソファーの角で脇腹を強打してしまった。
辛うじて回せた腕で手繰り寄せるように兄の身体にしがみつく。ていうか失礼だなルーインめ何故避ける? 先刻五弓先輩に胸倉掴まれた時は1ミリも動じなかったくせに!
ああ痛い。やばいこれ後で絶対青痣になるやつ。目測を誤った。本物の兄にだってこんな事するの小学校低学年以来だったから。
「小麦ちゃん……」
五弓先輩が私の必死さを見て何かを言い淀んだ。
今日は元から瞼が腫れぼったかった。誤解されているのだろうけど好都合だ。
私の肩が震えているのは泣いているせいじゃない。抱き締めているこの身体の中身のことが、本心では怖くて怖くて仕方ないから。
涙目になっているのも打ち付けた脇腹が痛むから。それだけだ。自分の口にした嘘に引きずられたりしない。真実兄が帰って来てくれたのならどんなに良かっただろうと思っても。
甘ったれで場を弁えない我儘な妹だと思ってくれていい。受験前の貴重な時間を費やした友人にまともな応対もできないのかと、呆れて去ってくれたって構わない。
──何が何でも、この獣に、兄の友人へ手を出させたりするものか……!
「五弓、この話はここまでにしてくれるか。小麦が怯える」
「あ、ああ……悪かった、気が利かなくて」
「いや、忙しいのにわざわざ訪ねてくれてありがとう。聞いてるかもしれないけど四月から二年生をやり直す事になってるんだ。皆より少し出遅れるけど、俺の方はもう心配いらないから。……五弓が立派な医者になれるよう祈っているよ」
「……うん。そうか。そうだな……。でも相馬、一つだけ聞かせてくれないか」
「ん?」
どこか躊躇いがちな五弓先輩へ、ルーインが先を続けるよう促した。先輩は多分私の耳を気にしている。
「…………日理は関係ないんだよな?」
わたり?
「何の事だ?」
ルーインの声は平坦だ。抱きついたままの身体からも動揺は伝わってこない。
見当違いな探りを入れられただけ?
持ち主がルーインに替わっても、兄の心臓は以前と同じように鼓動を刻み続けている。なんて理不尽なんだろう。
「ああ、いや……いいんだ、それなら。ごめん、忘れてくれ」
お邪魔したね、と言って先輩はとっくに冷めてしまったお茶を飲み干した。最後まで小判鮫のように兄に貼り付く妹を演じながら私も見送りに立つ。目が合って先輩が私の頭に手を伸ばしてきた。小さい子にするように軽く一撫でされる。
「良かったね、小麦ちゃん」
……類は友を呼ぶ。兄の周囲にはいい人ばかりだった。胸が痛い。妹同然に接してくれて、本当に辛い時に助けてくれたこの人を、私は騙している。
別れ際に五弓先輩はルーインに……いや、兄に向けて小紙片を差し出した。
「これ、引っ越し先の住所だ。携帯でもいい、いつでも連絡してくれ」
「ああ、ありがとう。いつか……話せる時が来たら」
「待ってる」
誠実そのものの笑顔が玄関扉の向こうに消えると、ルーインは鼻で笑い、手渡されたメモをくしゃりと握り潰した。
「……来ないけどな、そんな日」
こいつの性格が悪いのなんて今更だ。
「はあああーっ」
気が抜けて私は床にへたり込んだ。
取り敢えずルーインの事もバレてないし先輩の心も食べられずに済んだはずだ。五弓先輩、絶望なんかしてなさそうだったもん。
……頑張った。私頑張ったよお兄ちゃん。
褒めてくれてもいいよ? 化けて出てくれたっていいんだよ、お兄ちゃん限定だけど。
「なに気ぃ抜いてるんだ小麦」
疲労のあまり遠くに飛ばしていた心は、あっという間に現実に引き戻された。靴を履いて準備万端なルーインが、呆れ顔でこっちを見ている。
「行くんだろ病院」
「ええ〜……もう私の残存HPはゼロだよ……」
「自傷なんかしているからだ」
「痛っ!」
打ち身の出来ているだろう脇腹を手刀で突かれた。獣の容赦のなさに悲鳴が漏れる。
「ああ無様だな、青くなってる」
「め……っ!」
痛みに悶絶しているうちに患部を露出させられて、衝撃で咄嗟に言語中枢が機能しなくなる。
乙女の! 柔肌! なに晒してくれてんのっ。
めくるなや!
「俺以外にやられてるんじゃないぞ、小麦」
私が凍りついている間にルーインは服からすっと手を離し、次いで首が捥げるんじゃないかと思うほどの力で私の髪をぐしゃぐしゃにしてきた。無表情で。
美形の無表情怖い。兄の顔でされると見慣れない分尚更だ。
「ほら来いよ、見張るんだろ?」
……なんなの。何だったの。今のは。
──一転して口もとを皮肉げに綻ばせた顔が一瞬でも兄に似て見えたなんて、錯覚だ。