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うさぎ、取れません  作者: 櫻木サヱ
取れないウサギは「問題」ではなくなっていく。

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7/7

問題が問題でなくなるとき

三枝恒一が「困っていない」という事実に気づいたのは、

それを誰かに説明しようとして、言葉に詰まったときだった。


「で、実際どうなんですか」


そう聞いてきたのは、取引先の担当者だった。

定例の打ち合わせ。

オンラインではなく、対面。


相手は三枝の姿を見て、一瞬だけ言葉を止めたが、すぐに名刺を差し出した。


「……御社、自由ですね」


「そうでもないです」


三枝は、ウサギの手で名刺を受け取った。


「取れないんですか?」


「取れないです」


「困りますよね」


そこで、三枝は返事に迷った。


困る。

困っているはずだ。

普通に考えれば。


「……今のところは」


そう答えると、相手は少し拍子抜けした顔をした。


「まあ、安全なら」


それで話は次に進んだ。

契約内容。

納期。

修正点。


ウサギかどうかは、議題に含まれなかった。


打ち合わせが終わり、相手が帰ったあと、山本が言った。


「普通でしたね」


「普通だったね」


「もう、驚かれもしない」


それは、良いことのはずだった。


午後、社内で軽いトラブルが起きた。

資料の数字が一部違っていたのだ。


「誰が確認した?」


いつもなら、少し空気が張りつめる場面だった。


「……俺です」


三枝がそう言うと、周囲の視線が集まる。

一瞬、間が空く。


「まあ、次直せばいいか」


日向部長がそう言った。


それで終わった。


誰も責めなかった。

誰も詰めなかった。


三枝は、胸の奥が少しだけざわつくのを感じた。


それは、安心とは少し違った。


夕方、黒川がぽつりと言う。


「最近、言われないですね」


「何を?」


「三枝さん、前はよく“ちゃんとして”って言われてたじゃないですか」


言われていた。

確かに。


「今は」


黒川は言葉を選びながら続ける。


「ちゃんとしてなくても、大丈夫そうに見える」


その言い方が、やけに優しかった。


帰り道、コンビニで買い物をする。

いつもの店。

いつもの店員。


「こちら、温めますか?」


「お願いします」


レジ横の鏡に映る自分を見る。

ウサギは、相変わらずにこにこしていた。


この顔なら、

強く言われない。

期待されすぎない。

失敗しても、笑って流される。


家に帰り、ソファに座る。

テレビをつけるが、内容は頭に入らない。


ふと、思う。


もし、今、外れたら。

急に、元に戻ったら。


「じゃあ、ちゃんとやろうか」

そう言われる未来が、はっきり想像できた。


ウサギでいる限り、

自分は「問題」ではない。


外れないことは、

もうトラブルではなかった。


それどころか、

周囲にとっては、

扱いやすい状態だった。


三枝は、耳に触れようとして、途中で手を止めた。


外れないのではない。

外さなくても、許されている。


その事実が、

じわじわと重くのしかかる。


問題が問題でなくなるとき、

人は、それを解決しようとしなくなる。


ウサギは、今日も取れなかった。

けれど、世界は静かだった。


その静けさの中で、

三枝恒一は、

「このままでもいい」という考えに、

ほんの一歩、足を踏み入れてしまった。

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