十六話 与えられた日常
耳障りな音が聞こえる。
この音―――。
目覚まし時計の機械音だ。
アナログ式目覚まし時計の音は眠っている人間にとって非常に耳障りだ。
手を伸ばし、目覚まし時計を叩く。
朝7時。
いつもの変わりない起床時刻だ。
ベッドから這い出て机に置いてあるタバコに手を伸ばす。
箱の中身から一本を取り出し、窓を開ける。
カーテンは閉めていなかった様で室内が若干明るい。
タバコに火を点ける。
一月の気温は寝起きの体を震えさせる。
肺に入れた紫煙を吐きながら空を見る。
灰色だ。
「今日は天気が悪くなるかもな」
いつもより気温が低い気がする。
呼吸をしていると紫煙とは別に白い息が漂う。
タバコを吸い終え灰皿で火をもみ消し部屋を出る。
素足が何を蹴った。
心地良い音を立てて転がっていく物はアルコールの空き缶だ。
昨日、酒を飲んでいたのか。
数は多くないが酔ってそのまま眠ってしまったのかも知れない。
片付けは今度の機会に回し部屋を出る。
階段を下り、リビングへ向かう。
リビングに入り暖房の電源を入れ、テレビを点ける。
チャンネルはここ最近変えた覚えが無い。
朝も夜もテレビをつけるとニュース番組だ。
いつもの女性アナウンサーが原稿を読み上げている。
ソファに腰をおろし画面を見つめる。
何か、気になる。
何かが、つっかかる。
いつものこの光景に変化がある訳ではない。
俺が目覚まし時計に起されるまでの話だ。
夢を見ていた気がする。
だけど、その内容を覚えていない。
「またか」
ここ最近、毎日同じ夢を見ている気がする。
決まってこのソファに座ると夢を見ていたのではないかと思わされる。
しかし、それもあくまでそう思うだけで断言は出来ない。
うなされていたとは思えないし、内容を覚えている訳でもない。
夢のおかげで夜中に目覚めたこともないし、睡眠妨害を受けた訳でもない。
気のせいなのだ。
ただ、同じ経験を繰り返している事が気にかかるだけだ。
学園に向かっている。
見慣れたこの通学路に吹き抜ける風が俺の体を横切る。
先ほどのニュース番組内での天気予報で、今日は雪が降ると予報されていた。
気温もそれに見合った低さらしい。
傘を持ってきていない。
通学路の半分に差し掛かった時点で気がついた。
しかし後戻りをするのにも時間が足りない。
割と早い時間に起きるにも関わらず、家でゆっくりしている時間が長い。
そのため教室に辿り着く頃には時間がギリギリだ。
「アーサー」
教室に辿り着き、自分の机に向かう途中に声を掛けられる。
それを無視する。
答える必要はない。
無駄な時間と精神を削るだけだからだ。
「この前渡した連絡先、どうだった?」
連絡先とは、おそらく俺に関わっている仕事関係だろう。
「中々に簡単だったんじゃないか?」
窓際に俺の机はある。
席に着き、鞄の中から封筒を取り出す。
「え、なに?」
それを声帯主に差し出す。
「マジで? いいの? 俺は大したことしてないよ? マジで貰っちゃうよ?」
早く受け取れ。
そして消えろ。
そう願いながら空を見上げる。
まだ、雪は降っていない。
人は何故生まれ、何処に向かうのか。
人がそれを知ることは許されない。
知ってしまったらきっと、なす術もなく消えてしまうからだ。
世界は残酷だ。
その残酷さを人は知らない。
知らないからこそ、生きていけるのだ。
だけど俺は知ってしまった。
あの時、俺は生きていく力を必要とされた。
しかし力を持たない俺にはどうしようもなかった。
幸いにも救いの手が差し伸べられた。
もし、それがなかったら俺は今頃家畜になっていただろう。
いや、今でも家畜なのだ。
扱いが違うだけで、同種の家畜。
生きることを義務付けられ、与えられた日常を生きる。
その日常から脱するためには力が必要だ。
力は要するに金。
衣、食、住。
全てにおいて金が必要だ。
金はどんな形だっていい。
自分の物、他人の物、奪った物、形を問わない。
必要とされた時に差し出せる、それが力であり金だ。
それを知った俺はこの世界に絶望し恐れた。
逃げることは簡単である。
だが人は逃げずに戸惑ってしまう。
どうにもしよう。
なんとかなる。
生きていれば必ず明るい未来が切り開ける。
そう思ってしまうからだ。
否定はしない。だが肯定もしない。
様々な生き方がある。
その生き方の中で俺は逃げることを選択した。
だが、すぐには実行しない。
目的がある。
その目的が力の返還だ。
俺には家畜ながらも力を与えられた。
本来、人は生まれながらに生きる力を蓄えていく。
俺も初めは力を蓄えていた。
しかしそれを失い、奪われたと同時に絶大な力を手に入れた。
反面、絶大な力を使った人物がいる。
その人物に力を返還しないといけない。
しかし必要ないと拒まれる。
その人物は力を使ったところで問題はない。
ほんの数分ですぐに取り戻せるのだ。
だが俺はそれを肯定はしない。
俺が生きるために使われた力を力でもみ消す。
誰かが決めたことではない。
俺が決めたことだ。
逃げるために、塞がれた道を切り開くのだ。
学園で当たり前の様に行われる授業は物静かだ。
真面目に教師の語る内容に耳を傾け、ノートを取る。
なぜ、そこまで必死に学ぶのか。
生きるための何が学べるのか。
俺にはわからない。
必要としなければ欲しない俺には勉学は皆無だった。
いつしか、授業を終わらせるための合図が教室に設置されているスピーカーから響いた。
素直にチャイムと呼ぶとしよう。
黒板の前で熱弁をふるっていた教師は退室し、喧騒が生まれる。
机の上に置かれている教科書とノートを鞄にしまう。
何も書かれていない白紙だらけのノートはあの時から存在意義を失っている。
開かれる事のない教科書も同様に存在意義をあの時から失っている。
形だけなのだ。
それだけで満足する教師は多い。
次のチャイムが鳴る。
教師が現れると同時に喧騒に包まれていた教室が静寂に変わる。
10分の休憩時間は休憩とは呼べない。
「メシ、どうする?」
気付けば午前の授業が終わっていた。
再び喧騒が生まれる。
弁当を広げる者、購買や学食に走る者、形は様々だ。
「いやぁしかし、かったるいよなぁ授業」
視界に人物が入る。
目を合わせることなく鞄に手を伸ばす。
予め買っておいた昼食を取り出し封を開ける。
「んでさぁ―――」
ふと、雪が降っている事に気付いたのは学園の校門を出た時だった。
ゆらゆらと地上に舞い降りる白き物が俺の鼻の頭に着く。
午後3時10分。
他の学園は午後の4時を過ぎても授業を行っている事が多いが、ここ桜蓮は早く終わる。
ある程度のゆとりを持って学業に望むことが望ましいと学長が決めたそうだ。
日本人と外国人の違いからなのか、それとも自分が楽をしたいからなのか。
俺にはわからない。
「朝美くん、こんにちは」
自動ドアの先にある受付業務の女性が声を掛けてくる。
適当に返事をして先に進む。
エレベーターのボタンを押し到着を待つ。
向かう先は18階。
自分に与えられた部屋だ。
朝山ビル、18階、副社長室。
かつて、親父がいた場所だ。
そもそも、この会社の役職に副社長と言う名目は必要ないらしい。
だが社長としての朝山誠一郎と共に起業を行った親父の存在意義がないとして与えられた名ばかりの役職らしい。
エレベーターが到着しボタンを押す。
扉が閉まり18階へと昇っていく。
副社長室に着くと同時に内線が鳴った。
大方、誰からか判っている。
仕事机のイスに座り、受話器を取る。
『朝美、今日の仕事分の書類は無いぞ』
「何故だ」
『単に仕事がない』
となるとやるべき事は一つだ。
仕事がないと言うのは反語で自分で仕事を見つけろと言う意味だ。
「わかった」
受話器を置き、早速机の引き出しにしまってある資料を取り出し目を通す。
「ここか」
蛍光ペンをペン立てから取り線を引く。
さらに他の箇所にも線を引いていく。
「全部で6件か。そのうちの5件は契約を結んだはず」
線の引いた場所にはとある企業の連絡先が載っている。
パソコンの電源を入れ、メールボックスを開く。
案の定5件の未開封メールがあった。
「軽い」
全てのメールを読み、内線に手を伸ばす。
連絡先の番号を打ち込み、メールを送ってきた相手に電話をする。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
全ての用件が済み、改めて資料に目を通す。
難関だ。
最後の一軒とは未だに契約が結べていない。
特別無理に契約する必要もないのだが、どうしても俺にはこの会社が必要だった。
親父がやり残した仕事だからだ。
「どうもお手数おかけします。常盤です」
電話が繋がり、簡単な挨拶を済ます。
簡単だ。
本当に。