第3章の16 月を失った人々は闇の道を惑う
氷騎の屋敷、そのホールに悲痛な声が響いた。彼らの表情は蒼白となり、今見たものを信じられずにいた。
鏡には弥生の姿は無い。たった今、闇と化した弥生はその闇に包まれて鎖羅とともに姿を消したのだ。
そしてそれと共に彼らを取り囲んでいた人々と女が消えた。役目は終わったとでも言うように……。
「いやっ、そんな、弥生ちゃん!」
癒慰が鏡に近寄り、その面に触れる。叩いても返事はなく、そこには誰も立っていない。
“月の気配は途絶えた……追えない”
癒慰は嘘……と力なく呟いた。
「ちっ……恐れていたことが起こった」
錬魔は苦虫を噛み潰したような表情で鏡を睨んでいる。
「早く弥生ちゃんを元に戻さないと手遅れになります!」
零華が切羽詰まった声を上げ、視線を秀斗に向ける。他の二人も秀斗へと視線を移した。
弥生との付き合いが長く、同じ黒騎に属していた者としての秀斗の言葉を待った。。
だが秀斗は呆然と鏡を見ているだけで、何の反応も見せない。秀斗の口はカラカラに乾き、足は小刻みに震えている。現実が信じられなかった。
「秀斗君!」
癒慰に名前を叫ばれて我に返った秀斗は、とたんに焦ったように周りを見渡し、一番近い窓に飛びかかった。
「待って!」
癒慰の制止も聞かず、窓ガラスを強引に開け、身を乗り出す。
「弥生を助けねぇと! あいつは、ダメなんだ! 俺が行かねぇと! 俺は弥生を死なせねぇ!」
「秀斗! 外は闇の気が!」
錬魔が引き戻そうと秀斗に手を伸ばすが、秀斗は一足早く窓から飛び出した。
女の子二人も窓に駆け寄り、あることに気付く。
「錬魔君、闇の気が薄くなっています」
「これなら動けるわ」
三人は暗黙の了解で窓から外に出る。秀斗は先をがむしゃらに走っていた。
何か感じるものがあるのか、先ほどの映像に見覚えがあるのか、ただ一つの方角にまっすぐ走る。
三人もすぐに秀斗を追い、森へと入っていった。
(弥生……! 死んだら許さねぇからな! お前を殺すのは俺だって、約束したじゃねぇか!)
秀斗の脳裏には闇に染まった弥生の表情がこびりついて離れなかった。弥生は最後に笑っていた。
秀斗の記憶から、弥生の言葉が蘇る。
それは弥生が憎しみを口にする前の、たった一度の言葉。小さく、弱く紡がれた独り言だった。
“なぜ、私を殺してくれなかったのだろう……”
聞き間違いかと思った。驚いて顔を向けた時の弥生の瞳が、憎しみを宿していたから。
そしてその口が、憎いと呟いたから。
だが今は、その言葉が嫌なものを想像させる。あの時弥生の目に映っていた覚悟の意味を考えてしまう。
「弥生! 約束破ったら、地獄の果てまで追いかけてやる!」
秀斗は森の中を突き進む。森の開けた場所を目指して。かつて、姉妹が剣の修業をしていた場所。そこで二人が剣で撃ちあうのを見るのが好きだった。
秀斗は奥歯をくっと噛みしめて、ひたすら走った……。
時は少し遡る。勇輝は阿修羅の後をついて森を歩いていた。
阿修羅は無言で足早に、それでいて優雅に足を進める。だがそれは足の長い阿修羅だから出来ることであって、付いていく勇輝は半分小走りだ。
(反則だ! 横暴だ!)
勇輝は懸命に黒い背中を追いかける。だが徐々に息は上がり、また頭痛がし始めた。耳なりまで起こってくる。
(くそっ……闇の珠入れたら大丈夫なんじゃなかったのかよ)
さすがに口には出せないので勇輝は心の中で悪態をつく。だが前のように体が動かないということはなかった。ただ気分が非常に悪い。
それは進むにつれて酷くなっていった。耳なりは大きくなり、やがて声へと変わっていく。不明瞭なそれも、進みにつれてしだいに聞き取れるようになった。
“憎め憎め。殺し合え殺し合え”
呪文のように聞こえた声は、まさに呪祖だった。勇輝はぐっと頭を押さえる。
変調をきたしている勇輝には気づかずに、阿修羅は先へと進む。どうやら彼は何も感じていないらしい。
“闘え。悲しみ、絶望、恨み、憎しみ、全てがわしの力となる”
低い男の声だった。悪意に満ちた声が延々と勇輝の頭の中に響く。
“憎め、憎め。その闇を解放しろ”
「あ、あの阿修羅さん」
勇輝はがんがんと頭に響く声に我慢できずに阿修羅を呼びとめた。
彼は苛立たしげに勇輝を振り返る。そして勇輝の顔色の悪さにも一つ不機嫌そうな顔になった。
「あの、ここなんかおかしいです。すっごく気持ち悪いし、なんか声が聞こえるんです」
阿修羅は眉をひそめ、辺りを見渡す。普通に見る限りおかしなところは無い。
「それはどんな声だ?」
「低い男の声で、憎め、殺せって」
“闇を強くせよ。堕ちよ、墜ちよ。わしの下へ来い”
勇輝が離す間も、頭の中では声が響いている。
阿修羅はしばし視線を彷徨わせ、すっと進行方向に顔を向けた。広場の辺りの空を見上げ、そこが真っ黒な雲に覆われていることに気付く。
(まさか……)
阿修羅は一度瞼を閉じ、眼を開けた。白目部分が黒く染まり、瞳が金色に輝く。
彼の能力の名を闇誡と言い、錬魔と同じく自身の力が具現化せず憑依したタイプだった。
彼の眼は真実を映す。覇動も全て色彩となって視野に現れた。
錬魔の目と違うのは、錬魔は治療の補助として物質を視るのに対し、阿修羅の目は対象を知るために物質を視ること。
故に錬魔よりも深く視え、用途も広い。
彼はその眼で空を見上げた。そしてはっと息を飲む。
広場と思われるところから、黒い覇動が雲に吸い込まれるように昇っているのが視えた。そしてその雲は他と違い色を持っている。辺りの空気もそうだ。
それは術がかけられていることを意味していた。
(何故だ……)
混沌とした色だった。普通術者は固有の一色しか持たない。それに固有の波長が混ざりあって個性となるのだ。だが阿修羅の眼に映る色は……。
(どれが本質だ……?)
阿修羅は術のさらに深いところを見ようとしたが、何かに弾かれた。くっと呻いて目を押さえる。
「子ども……まずいことになるかもしれない」
「勇輝です……うわっ!」
勇輝がぼそっと呟いた時、森の奥から覇動が押し寄せてきた。森の木を揺らすほどの衝撃波に、勇輝はなんとか踏ん張って耐える。
「ここまで覇動が押し寄せるとは……なんて闘いだ」
阿修羅は闇誡の発現を解くと、つれを振り返った。彼が飛ばされていないかと思ったのである。本当に飛ばされていたら洒落にならないが……。
「……ありえないって」
勇輝は無事だった。だいぶ押されたらしく、地面に線が残っていたが、飛ばされることは免れたらしい。
「弥生、まだ闘ってる……早く行かないと」
“最高だ。闇が、禍々しい闇が生まれた。あぁ、力が漲る”
勇輝が割れるように痛い頭痛を堪えながら足を前へと出す。
それを見て阿修羅も足を踏み出した時、大きな覇動の変化を感じ取った。視なくても分かる。月が圧倒的な闇に呑まれたのだ。
それと同時に、ピキッと勇輝の胸の辺りから音が聞こえた。
「なんだこれ! 珠に罅が!」
その音にひかれてお守りを見た勇輝が目にしたのは、罅割れた黒い紡命珠だった。黒は阿修羅の物。だが今お守りには二つの黒い珠がある。その位置にあったのは、弥生の物だった。
「闇に呑まれたか」
阿修羅が軽く舌打ちをし、そして続いて感じた変化に目を見開いた。表情が強張り、くっと奥歯を噛みしめる。
闇の気が膨大に膨れ上がり、消滅したのだ。鎖羅の覇動もともに……。
「他のみんなのも黒が混じってるんだけど!」
“終わりだ……切断しろ、感付かれた”
並々ならぬ事態だと感じた勇輝は、他の紡命珠の変化に気がついてさらに緊迫した声を上げる。そのせいで脳内に響く声を理解することが出来なかった。
「外に出て来たのか……無理をすると呑まれるぞ」
阿修羅はそう吐き捨て、ぶつぶつと呟く。最後に何か言った気がしたが、小さすぎて勇輝には聞こえなかった。
「どうしよう! 弥生を早く助けないと!」
勇輝は逸る思いを抑えきれずに走りだす。
だが阿修羅が勇輝の前に立ちはだかり、行く手を阻む。
「何するんですか!」
「走るより速いものがある」
阿修羅はそう言うと、眼を発現させ闇を創り出す。ゆらゆらと揺れる闇は、煙のように阿修羅の周りに立ち込めた。
「蘭犀」
阿修羅がそう呼ぶと、闇の中から一匹の獣が姿を現した。勇輝はぽかんとその獣に見入る。
それが何かと問われれば、虎と答えるかもしれない。だが、それは体型がという意味だ。
毛はつややかな黒で、やや長めだった。
犬歯が発達し、鋭く突き出ている。そして勇輝を見据える一対の大きな目は、ランランと光っていた……。
(俺、食われたりしないよな)
しばし奇妙な睨みあいが続いたが、その獣、蘭犀は地面にゆっくりと伏せた。それに阿修羅がまたがり、勇輝に来いと手招きする。
(マジで?)
動物に乗るという経験は動物園の馬でしかない。しかも今回は虎のような獣で鞍もなければ手綱もない。
だが迷っている時間は無かった。勇輝は意を決して蘭犀に跨り、阿修羅の腰に手を回す。
バイクの二人乗りの要領だ。
阿修羅が蘭犀の毛を一撫ですると手綱が現れた。それをしっかり握って阿修羅は蘭犀の脇腹を蹴る。
「落ちるなよ」
その言葉と同時に、蘭犀は飛翔した。
「空飛ぶなんて聞いてないしぃぃぃ!」
勇輝は慌てて阿修羅にしがみつく。頬を風が撫でて、空が近づいていく。翼も無い獣が空を駆けていた。空に足場が有るかのように空を走り抜けていく。
空から見渡せば、場所は一目瞭然だった。少し視線をやったところに森にぽっかりと穴が開いている場所がある。そして二人の背後には屋敷が見えた。
あたりをきょろきょろと見渡している間に広場はどんどん近付いていく。
蘭犀が降下し始めた。ずんずん地面が近づき、蘭犀はふわりと着地した。
(うおぅ、安全運転)
激しい衝撃を予想していた勇輝はほっと安心して、蘭犀から降りる。そして闘い跡を見て息を飲んだ。
二人の姿は無い。だが二人は生生しい爪痕を残して行った。
「弥生……どこ?」
勇輝は周りの森へと視線を移すが、人の姿はない。そして、地面に血が付いていないのを見て、少し安心した。
ふともう頭が痛くないことに気が付く。変な声も聞こえなくなった。
「阿修羅さん……あの変な感じがなくなりました」
「……だろうな。逃げられた」
阿修羅は広場を歩き、大きなクレーターの中で足を止める。彼はそこに落ちていた刃を拾うと、目線の高さまで持ち上げた。
「こいつは、いよいよまずいな」
「それ、もしかして弥生の?」
勇輝は阿修羅に駆け寄り、その手にあるものを確認する。
「おそらくは。弥生は完全に闇に呑まれたらしい」
阿修羅は自身の眼で辺りを検分する。だが、覇動はここでぷっつりと切れ、二人がどこへ行ったのか教えてくれるものは何もなかった。
「二人は、生きてますよね」
「死んではいない……だが、危ないぞ」
勇輝が顔を強張らせた時、しげみから大きな音がした。人が近づいているのが分かる。
(弥生……?)
勇輝は警戒をしつつ、期待した。
だがしげみから飛び込んできたのは、銀髪の美女ではなく、金髪の血走った眼をした秀斗だった。
「勇輝⁉」
秀斗が足を止め、その顔に安堵の表情を浮かべた。だがすぐに隣にいる人の存在に気づいて怒り、鋭い眼差しで阿修羅を射抜く。
「阿修羅! お前勇輝に何かしたのか!」
喧嘩口調で阿修羅に詰め寄ろうと、一歩大きく踏み出した。だがその瞬間、心臓が大きく跳ねる。金の髪に黒色が混じった。
「違うって! 阿修羅さんは倒れてた俺を助けてくれて、ご飯もくれたんだ!」
勇輝が必死に否定して、秀斗に駆け寄ろうとしたが腕を阿修羅に掴まれた。
「近づくな」
勇輝は驚いて阿修羅を振り向く。彼は真剣な目で秀斗を見据えていた。
「勇輝の手を放しやがれ!」
秀斗は激高し体が熱くなる。胸の奥が熱い。血管を何かが這っているような感覚。
その何かは、一気に頭から足の先まで駆け下りていった。プツリと何かが切れる。
「うわぁあぁぁ! うがぁぁ!」
突然秀斗の髪が黒く染まり、足元から闇の触手が出現した。それは獲物を求めるように四方八方に手を伸ばす。
「ちっ、まともに感情の制御が出来ないまま出てくるからこうなるんだ」
阿修羅は苦しみに悶える秀斗に大股で歩み寄り、その頭を鷲掴みにした。闇の触手は阿修羅の闇に触れると、その強さに負け霧散していく。
阿修羅は秀斗の中に自身の覇動を送り込んだ。中で暴れる闇の力を、さらに上の力で相殺させ鎮める。
それが阿修羅の知る、闇化への対処法だった。
「秀斗君!」
「勇輝!」
三人がしげみから出てきたと同時に、秀斗は意識を失った。バランスを崩して倒れる秀斗を阿修羅が支え、蘭犀の背に預ける。
「勇輝君、無事だったのね!」
「本当に心配しました」
「うん、元気。阿修羅さんが助けてくれた」
二人は驚きを隠さずに阿修羅を見た。敵ではなかったのかと、その目が語っている。
「阿修羅、二人の居場所がわかるか」
錬魔は鋭い眼差しを阿修羅に向けた。
「残念だが追えない。だが、まだ生きてはいる。両方な」
「あの様子では、どこかの異空間に飛んでしまったのかもしれませんね」
「何にしろ、弥生は鎖羅がどうにかする」
阿修羅は月契の切っ先を持つ指に力を入れる。少しの力だったが、刃が消耗していたのかいとも簡単に砕け散ってしまった。
「それは、生かすも殺すもという意味か」
「あぁそうだ」
阿修羅は纏う闇を濃くし、魔獣の名を呼ぶ。
「蘭漢、蘭慎」
その呼びかけに応じて、すぐにニ匹の獣が姿を現した。蘭犀と同じ種類の魔獣だ。
「乗れ。ここにいても無駄だ。屋敷で二人の帰りを待つ」
言うが早いか阿修羅は蘭犀に跨り、秀斗を乗せて空へ駆け上がった。
残る四人は互いに顔を見合わせ、一つ頷いてそれぞれ二人ずつ魔獣に乗った。
錬魔が手綱を持ち、その後ろに勇輝が乗る。
女の子の方は、零華が手綱を握っていた。
「弥生は、必ず帰ってくる」
空を駆けながら、勇輝は誰にでもなく呟いた。それは願いではない。確信だった。
阿修羅、そんな便利なもんがあるなら最初から出しとけよ。
そう思ったあなた、正解です。なんで優雅に早歩きをしていたのでしょうかね、彼は。性格でしょうね……。
だいぶ大詰めです。では次回「月は闇の中で光り輝く」で。




