第3章の12 誘い(いざない)
弥生が引きこもりを止めて、三日が経った。
だが弥生は一度もホールには姿を見せず、廊下ですれ違っても影のように通り過ぎるだけだった……。
秀斗は自室でカレンダーを睨んでいた。今は午前中のため、勇輝、零華、癒慰は学校に行っている。 弥生は外で剣を振っていて、窓から顔をだせばその姿を確認できた。
「明日は、新月か」
カレンダーには月の暦も書いてあり、今日は細い月が見えるぐらいだ。
秀斗はベッドに腰を下ろし、指をからませた。耳を澄ませば、弥生が丸太を薙ぎ倒す音が聞こえる。
(俺は……どうすりゃいいんだろな)
弥生は鎖羅を憎んでいる。秀斗は彼女に恩がある。だが弥生の願いは……。
秀斗の脳裏に屋敷を出ていった後の記憶が蘇っていく。
“私は、いらないものだったのだ……私は月である自分を呪う”
あの時、弥生は絶望の中にいた。秀斗を見ることもせず、ただ虚空を見つめていた。
そして空間を渡っていく内に、弥生の心は変化し始めた。
“憎い……鎖羅が憎い。この空虚を埋めてくれるのなら、憎しみでもかまわない”
髪は灰色にくすみ、憎いと何度も繰り返す。
秀斗にはただ傍についているだけしか出来なかった。愛しい思いを言葉に乗せて、弥生の心を慰めた。
「好きだ……弥生」
何度口にしたか分からない言葉を呟く。
人間界に来た時、剣で守ってくれた弥生は抱きかかえられるくらい小さくなった。体は大きくなっても、心は……。
“弥生は強い。だけど弱い”
その弱さを、秀斗は愛情で埋めようとした。支えて強くしようとした。
鎖羅はその弱さを鍛えることで強くしようとした。弱さを受け入れられるほど強くしようとした。
弥生を大切に思う思いは同じだったはずなのに、どこで変わってしまったのか。
(俺は、止めるべきなのか? それとも、一緒に戦うべきなのか?)
敵だとは単純に割り切れない。だが……。
秀斗はもう一度カレンダーに目線を向けた。
(明日が、新月……)
秀斗ははぁと重い溜息をついて、窓の外に視線を飛ばした。空は皮肉なほどに青く澄んでいる。太陽はちょうど南の空を渡り切ったところだ。
「……光」
光があれば、弥生の闇をなくすことができるかもしれない。そう思ったが、すぐに首を横に振った。
(光は存在しねぇ。たとえあっても、俺たちには届かっ……!)
秀斗は急に顔を歪めて胸を押さえた。低いうめき声が漏れ、苦しそうに胸を掴む手が、服にしわを作っている。胸の奥が熱く、暴れまわっていた。息が荒くなり、肩が上下する。
(……やっぱ、新月が近づくと、つれぇな)
秀斗は発作が治まるとベッドに倒れ込んだ。
新月が近いと訪れる発作。誰も知らない、秘密。悟られてはいけない秘密。
秀斗はそっと目を閉じた……。
太陽が西に傾き始めたころ、弥生は出窓に腰をかけ本を読んでいた。視線は本に注がれていても、内容はろくに頭に入ってこない。思考は、ただ一つのことに囚われていた。
(憎い……どれだけ敬愛していても、この真っ黒な感情が塗りつぶす)
優しさも、愛情も、全て偽りだった。裏切られた事実は変わらない。
(鎖羅が私を憎んでいるなら好都合だ……私の望みは果たされる)
開け放たれた窓から風が吹きこみ、優しく弥生の髪を撫でていく。
「憎しみこそ、私の力」
幼いころ、心にあったのは虚無だけだった。
一人だという事実に耐えるには、ただ心を閉ざすことしかできず、何も与えられなかった心は虚無を掴んだ。
その虚無が、憎しみに喰らわれようとしている。
弥生がめくろうと指を次のページにかけた時、扉がゆっくりノックされた。その音に、弥生は苛立ちを覚える。すぐにしつこく訪れる二人の顔が浮上した。が、その覇動は彼らのものではなかった。
弥生はパタンと本を閉じて、扉へと近づく。
彼がここに来ることはめったにない。それだけ、重要な要件なのだろう。
弥生はそっと扉を開け、彼を見上げた。赤い髪から覗く瞳が弥生を見降ろしている。
「髪を下ろしたままにしているのは珍しいな」
錬魔の白衣には長い赤髪がかかっている。彼は寝るとき以外は髪を下ろすことはなかったのだが……。
「弥生……もう、決めたんだな」
錬魔は何の前置きもなく話し始めた。抑揚に欠けるいつもの口調。そして、弥生を映す瞳には受け止める強さがあった。
「あぁ。私は、いく」
弥生は何も隠さずそう言った。
「俺は止めない。俺も憎しみを抱いたことがある。それは今でも胸の奥にある……だから、俺にはお前を止められない」
錬魔はすっと視線を逸らし、自分の髪に手を当てた。己も、闇に堕ちてもおかしくなかったのだ。
一瞬、錬魔の瞳に苦しみがよぎったが、すぐにそれは消え医者の顔になる。
「弥生……俺は止めない。だが、これ以上闇に堕ちれば戻れなくなるぞ。もって、あと二回……それを越えれば月であるお前は死ぬ」
重たい宣告。だが弥生はたいして気にした様子もなく、ただそうか、と頷いた。
自身も自覚していたことではあった。闇の力の増幅。それに押されかけている月の自分。
あの夜から、髪の色は完全な銀色には戻らず、少しくすみが残ってしまった。
弥生は自身の髪を見て、少し口角を上げる。その笑みは自嘲に近かった。
「……弥生。お前にこれを貸す」
錬魔は反応の薄い弥生の手を取って、無理やり握りこませた。弥生は怪訝そうな顔をし、ゆっくりと掌を開けてそれを見た。
「……これ、お前の髪留めではないのか?」
だからこの髪型かと合点がいったが、何故渡されたのかが分からない。
「それは指輪だ。お守りとして持っていろ。そして必ず返しに来い……怪我なら、喜んで治す」
弥生は無言のままそれを上着の胸ポケットに入れた。彼の思いの分、ポケットが重くなった気がした。
「ありがとう」
「弥生、必ず帰ってこい。お前にもしものことがあったら、心を病む者がいるからな。俺はあいつの看病などしたくない」
「あいつは面倒な奴だからな」
二人は幽かに笑い声を上げた。徐徐に小さくなり、沈黙が降りる。
二人はしばらく、何も言わずに互いを見ていた。
思いを語るには、言葉は軽すぎる。そして自らの背負うものを語るには、互いに分かりすぎていた。 それは共有できるものではなく、互いの苦しみをより濃くするものだということを。
自分たちの過去、背負うもの、背負わされたもの、心の闇、流れる血。それは他人事ではない。他者は合わせ鏡なのだ。
弥生は彼の内に自分が見えた気がして、視線を下げた。
「……錬魔。わざわざすまなかったな。これは、壊さないように持っておく」
「あぁ。頼んだぞ」
錬魔は弥生の頭を二度軽く叩いた。頑張れと言うように。
「あぁ」
錬魔は弥生からゆっくり手を離し、体の向きを変えて歩きだした。さらりと歩くたびに髪が揺れる。
弥生は彼の姿が角を曲がって見えなくなるまで見ていた。指輪がさらに重みをました気がする。
錬魔の足音が遠ざかると弥生は扉を閉め、再び窓辺に戻った。夜は遥か彼方まで続き、そこから風がそよそよと流れてくる。弥生はしばらくその風を肌で感じていた。
胸を抑えると、布越しに指輪の輪郭を感じる。彼の思いの形。弥生を繋ぎとめようと、帰ってこれるようにと。弥生は瞳を閉じ、しばらく胸に吹くしっとりとした風を感じていた。だが、ぶわりと一際強い風を肌に感じ、目を開けた瞬間下から上に何か黒いものが飛んで行った。
(なんだ⁉)
弥生はとっさに腕で顔を覆い、すぐに目で追う。
それは大きく旋回して窓枠に留まった。
黒い鳥。カラスのように見えるが、尾が長く嘴が細い。そして目が金色だった。
鎖羅が使役する唯一の魔獣だ。
弥生は見覚えのある鳥の足についていた紙を取り、広げた。胸は予感と期待で高鳴っている。
細長い紙に書かれた数行。
“屋敷のある空間で待つ。九つの鐘がなる時に来い”
弥生は無意識に首筋の傷にそっと手を触れ、爪を立てた。そのまま傷をなぞる。
(この借りは必ず返す。この憎しみも……)
弥生が紙を握りつぶすと、鳥は仕事は終わったと窓から飛び立っていった。
弥生は窓から空を見上げた。鳥が飛んで行った空には細い線のような三日月が浮かんでいる。
(……明日は新月か)
弥生は月契をその手に呼び出し、その刀身に月を映した。
「月契……明日は共に」
“御意”
弥生の頭に響いた男の声。それは思念を持った剣、月契のものだった。
弥生はヒュンと剣で空を斬って、光の粒子に帰した。弥生は出窓に腰をかけ、ゆっくりと目を瞑った……。
時を同じくして、ホールでは勇輝が女の子二人を相手に口泡を飛ばしていた。
「なんか俺間違ってる⁉ 何で弥生はあんなにへそ曲がりなんだよ!」
怒りの原因はもちろん弥生。一時間ほど前に部屋へ訪ねてみたが、冷たくあしらわれご立腹なのだ。
「あぁんの自己中。人がどんだけ心配してると思ってんだ!」
昨日剣を突き付けられたことも相まって、怒りは最高潮だ。
「弥生ちゃん頑固だからね」
「本当に勇輝君には気を使わせてすいません」
ソファーにどかっと腰をかけている勇輝の正面に座っている二人は苦笑いを浮かべていた。
「そんなに憎しみって強いもんなの? 正直俺、彩が消えた時は弥生を憎んだし、腹立たしかったけど、今は仲間だと思ってる。それはダメ? 俺が甘いわけ?」
勇輝は腕を組み、右手ひとさし指の上下運動が彼の苛立ちを際立たせていた。この時ばかりはさすがの癒慰も、勇輝を怖いと思った。
背後に猛犬が牙を出して唸っている姿が見えた気がする。
「勇輝君は強いから、たとえ憎しみがあっても弥生ちゃんを受け入れられたのよ」
「憎しみというものは、なかなか消えないと思います」
勇輝は弥生を弁護する二人にぶーたれて、唇を尖らせた。
「弥生は、憎しみが辛くないのかよ」
「……来た当初、彼女は憎しみを糧に生きているようでしたから」
「逆に、憎まないと生きてられなかったんだと思う」
しばしの間の後、三人は同時に溜息をついた。全く出口が見えない迷宮に迷い込んだ気分だ。何をすれば弥生の状態が良くなるのか分からない。
「手詰まりって感じだよな」
暁美の忠告もあまり効果は得られなかった。
その後勇輝と秀斗が代わる代わる弥生の様子を見に行ったが、その度に弥生の機嫌は悪化した。
「そうですね。もういつ向こうが仕掛けてくるか分からない以上、最悪の状態も想定した方がいいでしょう」
零華は物憂げな表情で最後の問題を水面上に引き上げた。
「闘いが起った場合のこと?」
勇輝が確認するように訊いた。否定してくれるのを望んでいるように。
「はい。その時、私たちは」
「もちろん止めるさ!」
勇輝は零華の言葉をさえぎって強い口調で言い放った。
「……残念ですが、それは無理だと思います」
だが零華は、勇輝に冷や水を浴びせるように、そう言った。
「なんで」
「止めていい闘いと、止めてはいけない闘いがあるってことよ」
力なく呟いた癒慰に、勇輝は顔を向けた。
「……なんでだよ。なんで二人はそんなに落ち着いてるんだよ。弥生は負けるかもしれないんだろ? じゃぁなんで止めないんだ!」
勇輝の言葉に二人は表情を硬くする。
「これは、弥生ちゃんの闘いです。私たちが止めに入るのは、無粋でしょう」
零華の瞳は、もう勇輝を見ていなかった。ただ真っ直ぐ虚空を見つめている。
「二人は冷たい! 俺は誰が何と言おうが弥生を止めるからな!」
勇輝は立ち上がり、そう宣言すると踵を返してホールから出て行った。
荒々しくドアが閉められ、静寂が際立つ。
「止められるものなら、止めたいわよ」
「ですが、もし自分だったらと思うと……私も同じことをしたと思います」
「……だよね」
今回の闘いはただの命のやりとりではない。弥生の過去と心がかかった闘い。
二人は静寂の中で自らの闇を見つめた。
まだ出ない、答えを求めて。
前話のあとがきで次回に(仮)とかつけておきながらそのままで投稿。
作者の独り言
たまに、作者がびっくりするカミングアウトをしだすキャラがいます。
今回は錬魔くん。あ、それここで言うんだって、打ちながら思った。
髪留めが指輪だって話は、二章で勇輝がテストの日にみんなを起こすところで明かそうと思ってました。最初は秀斗とともに錬魔を起こすことにしており、そこで秀斗が教えてくれるはずだったのですが。秀斗も起こされる側に回りました。
彼らがかなり自分のことを隠すので、作者はやりにくい……。
彼の指輪が誰のものかはもっと後で明らかにできるかと。
えっと、次回は「月は闇夜に紛れる一つの道を照らす」です。




