第1章の5 テンシガキエタ
「やっぱしめはあれでしょ!」
と閉園間近になって彩が指さしたのは観覧車。
日がだいぶ傾いてきたのでイルミネーションが光り、美しく輝いている。
「いいね」
とは答えたものの、勇輝の笑顔はひきつっていた……。それに彩は気付かない。
小さく、可愛いゴンドラに乗り込むと二人は隣同士で座った。そしてゆっくり上昇を始める。
木と同じ高さになり、悪魔のレールを上から見下ろす。屋根がどんどん遠ざかり天がずいずいと近づいてくる。
「うわぁぁ、きれいだよ。はるゆき見て!」
「わー。ほんとだー」
と言いつつも勇輝の視線は外に向けられていない。
そして棒読み感出まくりの言葉に彩がにやりと笑った。
「ふふふ。はるゆき、高所恐怖症なんでしょ」
「ち、違う! 恐怖なんか感じてない!」
勇輝は指摘に慌てふためいて反論するがその様子はその事実を裏付けするだけにすぎなかった。
「やっぱそうなんだ」
「違うって、ちょっと苦手なだけ!」
これ以上彩に弱みを握られてたまるか! と勇輝は最後の意地を張る。
「あらぁ……そうなんだ」
意地悪な彩は新たな情報で勇輝を困らせる遊びをいろいろ考えているらしかった。
「違うからな」
彩はくすくすと笑いながら、隣で意地を張り通す勇輝の頬をつまんだ。むすっとした顔が形を変える。
柔らかい感触、そして女の彩が嫉妬するくらいすべすべな肌……
(念を押して、こっちが気づいてないとか思ってるとこがまた可愛いのよね~)
「地味に痛いんですけど~」
先ほどから自尊心ずたぼろの勇輝は抗議の声を上げた。
そして彩はそっと手を離す。
(もう少し一緒にいたかったんだけどな……)
「彩、今日は楽しかった?」
彩がその声に顔をあげると勇輝は満面の笑みでそこにいた。
「た、楽しかった。すごく!」
不意打ちに彩は言葉を詰まらせた。その笑顔が胸を打つ。
そして、それを裏切る自分が許せなかった。
(どんなに振り回して困らせても最後はいつも笑ってる。ほんと、ずるいよ……)
「良かった。また来ような」
その言葉に彩は瞳を伏せ、髪を指に絡めた。髪をいじるのは彩が考え事をする時の癖。
「彩?」
勇輝は不審に思い、彩の顔を覗き込んだ。その固い表情が、開かないようにしていた不安の蓋をずらす。
「……あのね、はるゆき。伝えなきゃいけないことがあるの」
顔を上げ、勇輝の視線を真正面から受けた彩の瞳は強く澄んでいた。その先を、聞いてはいけない気がした。
「はるゆき。今までありがとね。もう、終わりにしよ」
彩は寂しそうに笑っていた。無理やり作った笑みでも隠しきれていない、泣き出しそうな顔がそれが優しい嘘なのだと伝える。
「彩……。なんで?」
「ごめんね。もう、行かないといけないの」
「どこに?」
口の中が乾いて、うまく言葉が出せない。さっきまで隣にいた彩が、遠い存在に思える。
「還るべき場所。ずっと、言えなくて……だけど、もう、時間が無くなった」
彩が静かに紡いだ言葉は勇輝の頭を素通りしていく。内容がわからない。
だが何かとても重要なことを言われていることは分かった。
別れ話とか、そういう次元のものではない。もしそうならビンタひとつで別れさせられているだろうから。
「時間が無くなったってどういうこと?」
「……私は消える」
少しのざわめきもない二人の世界で、何かが壊れる音がした。
「き、消える?」
「そうだよ。私の存在はこの世界から消える。最初から、期限付きの人生だったから」
彩は息をつくと寂しそうに笑った。その笑顔に勇輝は胸が締め付けられる。
この間から時々彩の顔をよぎるその表情に勇輝は気づかないふりをしていた。
そして告げられたことの意味が外側から染みてくるように分かり始めた。
「いなく、なる? この世界から? 俺の傍……から?」
言葉は勝手に出てくるが頭は空回ってばかりで“いなくなる”その一言だけが渦巻いていた。
「ほんとはずっと前から気づいてたんだ。はるゆきを傷つけないように、もう少し前に別れて、転校でもすればよかったのに」
彩の声は震えていた。
「でも、はるゆきと一緒にいたくて。悲しませるって分かっていても、最期までいたかった!」
その瞳からはとめどなく涙があふれ始める。頬を伝う涙に、勇輝はもうこれが避けられないのだと悟る。
勇輝はかけるべき言葉も分からずただ、泣いている彩を引きよせ、強く抱き締めた。
「あのねはるゆき、ほんとは私の人生はとっくの前に終わってたんだ……でも、期限付きで生き返らせてもらえた……そのおかげではるゆきにも会えたんだ。だから、けっこう感謝してるんだよ?」
生き返った。もう死んでいる。普通なら信じられないことでも、彩の口から紡がれれば全てが真実となった。
「だけど……消えるんだろ?」
彩は押し黙り、やがてぽつりとつぶやいた。
「私も、消えたくないよ……」
「ならなんで!」
「そういう約束だったんだ。十年の間だけ、私は桜田彩として生きられる」
「誰がそんなことを!」
勇輝は彩を抱く腕にますます力を込めた。
(いやだ! 彩を放したくない! 失いたくない!)
「わからない。彼女も何も教えてくれなかった……」
「彼女って?」
「……あ、もう時間だ。ごめん、もう行かなきゃ」
「彩?」
勇輝は彩を放してその顔を見つめた。彩はいつもの小悪魔な笑みを浮かべている。
「はるゆき、笑って送ってくれなきゃ嫌だからね。私ははるゆきの笑顔が好きなんだから」
彩はとびっきりの笑顔で勇輝を見つめ返した。
その笑顔は今までのなかで一番綺麗で、苦しいほど恋しくて、壊れそうなほど儚かった。
勇輝もそれにつられて笑ったが、顔が引きつり上手く笑えない。
「もう、ちゃんと笑ってよ」
少し口を尖らせて拗ねる彩が呆れるほどいつもどおりで思わず笑ってしまった。
「うん。それでいい。やっぱりはるゆきは笑ってなきゃね」
眼尻の涙を拭った彩の指は、透けていた。
「う、嘘だ」
勇輝はおそるおそる手を伸ばした。
今触れて、彩が消えてしまうことが怖い。なのにそれよりも愛しい、この手で掴んでいたい。
「笑って。それと、忘れないでね。私がはるゆきを大好きだったことも。わたしがはるゆきの笑顔が大好きだったことも」
「ちょ、ちょっと待って。彩! 彩!」
「も~。笑って、て……言ってるじゃない。はるゆきが笑ってくれないと、私が笑えないじゃない……」
彩は再び涙をこぼした。その雫は窓の向こうを透かしていた。
「はるゆき……大好きだよ」
彩はそっと勇輝に口づけをし、その瞬間淡い光とともに消えてしまった。
「うっ、あっ、彩?」
勇輝は立ち上がって周りを見渡す。そこに彩の姿はない。ゴンドラからは地上が見えた。
「うそ、だろ?」
音も、色も全てが遠ざかっていく。まるで夕暮れが全てを飲み込んでしまったかのように。
(もう何も見えない、彩がいない! いやだ! 嘘だ! どうして彩がいない? 今まで、俺の傍にいてくれたのに……)
勇輝の頬に涙が伝った。声も出ない。泣いていることにすら気付かなかった。
(俺は……どうしていけばいい……?)
その夜、緩やかに動いていた空気に突如波動が走った。常人にはわからないほど微量の空気の震え、それは確実に世界全土に伝わった。
「……こいつは、あいつか?」
それは町の片隅で。
「ほう。これは懐かしい覇動だ」
それはビルの一室で。
「幕が上がる」
それは深い闇の中で。
「帰って来やがった!」
それは誰も知らない場所で。
変化の余波はゆっくりと動き出していた。