第6章の21 暁に浮かぶ月と星
待宵の月が夜空に昇っている。
満月である明日の夜を待つ、待宵の月。
それを弥生は窓枠に腰をかけて見ていた。
不安定になっていた鎖羅も元に戻り、秀斗と二人昼ごろに如月に帰って来たのだ。
普段と変わらぬ調子の姉を見て、安心したのと同時に彼女を苦しめる術が脳裏をかすめた。
姉の、知らなかった部分。知ろうともしなかったこと。
(記憶……か)
鎖羅の記憶は封じられていると言う。記憶という言葉に、浮かんでくる顔がある。
生後一カ月以前の記憶がないという彼。彼に対して美月は、本来は人が持つべき魂の記録も無いと言った。
記憶も記録もあろうがなかろうが、弥生にはとくに問題とは思えなかった。ただ、思いつめる勇輝が気になっただけだ。
だが、鷺は勇輝を敵ではないかと言った。
そして、鎖羅の隠された事実を知った弥生の頭には一つの言葉が繰り返され、消えない。
(封印)
月を見ながら考える。
もし、勇輝の記憶も記録も封印されていれば、と。
自ずと、誰に、何のためにと疑問が湧いてくる。
だがそれに答えてくれる人はいない。
弥生は重い息を吐き出して、視線を少し下に落とした。
部屋の下は鍛錬場。そして下の部屋からの明かりが漏れていた。下の部屋は勇輝。
また夜遅くまでゲームをしているか漫画を読んでいるのだろう。
夕食後に廊下ですれ違った時は、露骨に警戒され、すれ違うと次は避けると宣言された。
いつだって勇輝は向上心が高い。そして、物怖じせずに魔術師である彼らと行動を共にする。
弥生は思考する。
敵であれば、一体いつからなのか。
幹部クラスなのか、密偵の類なのか。
答えなどでない。
そして弥生は思考を放棄した。
(こういうことは、零華が専門だろう……)
弥生は知能が低いわけではない。ただ、直感で行動することが多く、熟考することがないだけだ。
だが、他の仲間にはまだ言えなかった。
あまりにも不確定要素が多すぎる。
弥生はぼうっと月を眺める。
先程よりも少し西に傾いていた。
月が山に隠れ、太陽が顔を覗かせるまで弥生は空を眺め続けるのだった……。
太陽が柔らかい朝日を注ぐ。鳥のさえずりが聞こえ、森の中では動物たちが活動を始めた。
弥生も鍛錬場で素振りをし、終わった頃に如月全体が動き出す。
厨房からは味噌のいい香りがする。勇輝が来るまで知らなかった、みそ汁の香り。
今日は休日、土曜日なので勇輝は一日如月で過ごすと昨晩言っていた。
サクリスとの闘いに向けて、剣や拳銃の腕を上げたいらしい。
癒慰も麻酔銃の試作を見に本部に行くと言っていた。昨日の夕食の席で、メイドイン匠の服をお土産に買ってこようかと言われたが、即刻断った。
弥生は温まった体と、心地よい汗を感じながらシャワーを浴びるために部屋へと戻るのだった。
太陽が南の空へと届き、西へと下っていこうとする。暑さも少しずつ和らぎ、やっと日中にクーラーをつけなくてもよくなった。
簡単な昼食を取り、皿も洗って片付けも終わっている。午前中に晩ご飯の買い出しには行き、掃除も洗濯も全て終わった。
昼下がりは、主婦のくつろぎの時間である。
暁美は椅子に座り、テーブルに新聞を広げてパラパラと読み、暇を潰していた。何かをしようにもすることがない。
これが勇輝であれば、ゲームに始まりアニメ、漫画といくらでも時間を潰せるが、あいにく暁美にはそのような趣味はなかった。
新聞には、猛暑も終わりつつあり、秋の訪れが近づいているとあって、そろそろ衣がえが必要かしらと考える。
勇輝の冬服はあるのだろうかと思っても、勇輝がどれだけ服を持っているのか暁美にはわからない。まだ暁美がこの家に帰って来てから一年も経っていないのだ。
(服のセンスは悪くなさそうだけど)
春服、夏服と見てきたが、動きやすく活発な印象を与える服装だった。
だが、母としてはもう少しフリフリしていてもいいと思っている。
それをお茶を飲みながら癒慰に零したら、意気投合した。実は暁美も密かに癒慰監修、勇輝のドキッ女装コレクション一、定価千二百円を持っているのだ。
あれがばれたら反抗期が来そうなので、本棚の奥底に隠してある。
そうやって取りとめもないことを考えていると、リビングのドアが開く音がした。
家には今誰もいない。玄関が開く音も聞こえず、考えられるのは一人だけ。
暁美は驚いて、新聞から顔を上げながら言う。
「勇輝、帰って来るならメール……」
暁美は一瞬、自分が勇輝に可愛さを求めたために、勇輝が女の子になって帰って来たと錯覚してしまった。
だが可愛い女の子は、すぐに無表情の女の子に変わる。
「どうしたの、弥生ちゃん」
驚き半分、疑問が半分。
弥生とは大人の中ではだいぶ話せる方だが、弥生から訪ねてきたことはない。少し、外に干してある洗濯物の心配をしてしまった。
「あの、暁美さん……」
「そうだ、お茶飲む? いい日本酒があるんだけど」
おずおずと言葉を発する弥生を遮って、暁美は立ち上がった。ここに座って、と暁美の向かいの椅子を指す。
弥生は、はあと曖昧に返事をして、椅子に座った。
初めて入る勇輝の家。如月とは全く違う建築様式に、弥生は物珍しそうにキョロキョロと部屋を見回している。
暁美はそれを微笑ましく見ながら、ティーポットの形をしたものを取りだした。
形状はティーポット、柄は和風、持ち手の下から伸びるプラグ。熱燗器で手軽に熱燗が楽しめる。
暁美は湯のみに温まった日本酒を注ぎ、弥生に出した。弥生は軽く礼をし、受け取ると一口飲む。
どこか肩の力が抜けた弥生を見て、暁美は何があったのかと気を回す。
半分ほど飲んだ弥生は静かに湯のみを置くと、視線を暁美へとやった。
いざ暁美を目の前にすると、言いたい言葉は喉につかえて出てこない。
勇輝は、何者なのか。人間か、そうでないのか。仲間か、敵か。そして、暁美の息子なのか。
気になることはたくさんある。
「何かあったの?」
暁美が気づかってそう言葉をかけてくれたが、
「いや……」
と弥生は言葉をぼかした。すると暁美はますます不思議そうな顔をする。
しばらく無言の時が流れ、ちびちびと飲んでいた日本酒も無くなったころ、ようやく弥生が口を開いた。
「勇輝は……」
「勇輝?」
暁美は思わず訊きかえした。口にしてから、しまったと思う。せっかく話そうとした弥生の出鼻をくじいてしまった。
「あの任務の時の、赤子は勇輝ですよね」
「え、あぁ。そういえば、そんなこともあったわね」
魔術師の子を宿した妊婦を警護する任務が終わった時、暁美が抱かせてくれた赤子。
暁美は懐かしそうに、目を細めた。
「あの時の母親も、子どもも元気にしてるわ」
「それは、よかったです」
魔術師と人間の間にできる子は真血と呼ばれ、闇の子と同様に怖れられる。幸いにその赤子は真血ではなかったこともあり、記憶に強くは残らなかった。
弥生はまっすぐと暁美を見て、言葉を紡ぐ。何かを訊くために、言葉を選ぶのがこれほど大変だとは思わなかった。
「暁美さんは、人間……。勇輝は……暁美さんの、息子ですよね」
息子、という言葉に暁美の眉が動いた。そして柔らかく笑い、えぇと頷く。
「なんの力もない、馬鹿息子よ」
弥生が口にした、単語としての息子ではなく、心が、そして年月がつまった息子。
弥生は言葉の持つ重みを感じて、再び口を閉ざす。弥生は零華や錬魔ほど人を見抜く力はないが、暁美が嘘をついていないことぐらいはわかった。
(勇輝は暁美さんの息子。だが、なぜ記録がない? なぜ、魔術が効かない?)
いっそ訊いてしまおうかとも思う。だが、その決心がなかなかできない。自分でも不思議なくらい、言葉にできない。
「暁美さん……勇輝は、勇輝を……信じてもいいですか」
勇輝は敵ではない。勇輝は如月の仲間で、人間。
(敵と思うのは、敵になってからでいい)
暁美はとっさに言葉が返せなかったが、
「あの子をお願い。変なことをしたら、斬っちゃっていいから」
と母親の顔で笑うのだった。
弥生はこくりと頷き、静かに椅子から立ち上がる。もともと長居をするつもりはない。
「あら、もう帰るの?」
「はい。勇輝が剣の稽古をしたいと言っていたので」
暁美は名残惜しそうにしたが、また如月に行くわと言って、手を振って微笑む。
「では、また」
弥生は軽く礼を取ると、踵を返す。リビングのドアを開けると、その先は廊下ではなく暗い空間。無限の空間へと続く、廊下のような場所だった。
弥生は最後に一礼してドアを閉めた。
リビングはまた暇な昼下がりの主婦のものになる。
(ひさしぶりに魔術を見たわ)
そして暁美は深々とため息をついた。
弥生は勇輝が息子かと訊いた。そして、遠まわしに人間かどうかも。
とっさに笑顔で隠したが、これが零華や錬魔なら隠した表情がばれていたかもしれない。
(運命は、定まっている……のよね)
暁美はどこか、自嘲気味に笑うのだった。
狭間の空間を歩くと、すぐに明るく光るドアが見えてきた。如月と懐かしい魔術界の文字で書かれており、そこを開ければ自分の部屋に帰れる。
少し向こうを見れば、もう一つ明るいドアがあった。氷騎につながるドアだ。
狭間の空間には、今まで行ったことのある空間とのドアだけがある。
弥生はいつものように上を見上げた。暗い空間に、星のように弱い光を放つ点が一つあった。
弥生の丁度真上にある。
(遠い……な)
あの小さな点こそが魔術界だった。人間界に付随する空間は平行に並んでいる。だが、大界をなす魔術界は遥か上空にあった。
落ちてくることは簡単でも、戻ることはできない。
「くだらない」
弥生はそう吐き捨て、如月のドアを開いた。
「おかえり、弥生」
突然かけられた声に驚いて、弥生は声がした方に首を向ける。
出てきたところは弥生の部屋。何もない空間が裂け、弥生の姿がある。
前もってそうなることが分かっていたように、彼は待っていたのだ。
「なぜここにいる、秀」
弥生が両足を床につけると、空間の裂け目は跡かたもなく消える。
「弥生が出ていったのがわかったからな」
そう言って、秀斗は自身の胸を拳でトントンと叩いた。
秀斗の言わんとすることがわかった弥生は、不愉快そうに眉を顰める。昔、弥生が憂さ晴らしに人を斬りに出歩いていた時から、秀斗は弥生が帰るとそこで待っていた。
秀斗は弥生に間合いギリギリまで近づいた。一応月契も防げるが、念のためだ。
「弥生、何があったんだ?」
暁美が襲われたことによる精神の揺らぎ。数日前の引きこもりの予兆。そこに関わる鷺の存在。
鎖羅に会って少し気が晴れたようにも見えたが、弥生が出ていったことでその認識も変わった。
人を斬りに行ったようではなかったので、一安心ではあるが。
「別に」
弥生は素っ気ない態度でそう返すが、秀斗は引き下がらない。
「なぁ弥生。鷺の野郎に何を言われた。お前、何を考えてんだ」
「お前には関係ないだろ」
そう言って、弥生は秀斗の隣を通り抜けて部屋から出ようとする。
「弥生!」
秀斗は振り返り、弥生の左手を掴んだ。弥生が足を止め、肩越しに秀斗を振り返る。その瞳には怒気が宿っていた。
「それ、本気で言ってんのか。関係ねぇって、本気で思ってんのか」
だが弥生の怒気は、秀斗のものに当てられて少し弱まった。秀斗は目をつり上げ、掴まれた手は痛い。
激しく、真っ直ぐな怒り。秀斗がこれほど怒りを露わにすることは珍しい。それこそ、再会した時以来か。
「秀……」
「弥生。もう、お前に守られるのは嫌なんだ。お前が傷つくところを見るのは、嫌なんだ……」
秀斗は無意識に手を胸に当てた。
地面に倒れ伏し、闇に侵されている弥生の姿が脳裏に再生される。
守られてしまった途方もない怒りと、守り切れなかった無力感。そして、失ってしまう恐怖。
もう二度と、味わいたくない。
「秀。すまない……今は、話せないんだ」
弥生はそう落とすように告げると、秀斗の手を振りほどいて歩いて行った。
無機質な、ドアの閉まる音。
「弥生……」
知らず知らずのうちに奥歯を噛みしめていた。ほんの一瞬見せた弥生の表情が秀斗をかき乱す。
何かを悟ったような、諦めたような、それでいて悲しい表情。
(弥生が、変わろうとしてる)
今までのことが崩れてしまいそうな、そんな不安。秀斗は弥生を掴んでいた右手をぐっと握り、
「守る」
と覚悟の滲んだ声が部屋に吸い込まれていった……。
早く戦闘にならないかな。最近主人公が出てこない……。