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第6章の11 影に蠢くもの

 部屋は薄暗い。開けられた窓からは風が入って来ていた。日は沈み、夜空にはぽっかりと穴を開けたように丸い月が昇っている。

 月の光が差し込む部屋で、弥生は外を見ていた。

 ベッドに腰かけたまま、窓から外へと視線を向けている。だが、その景色が彼女に認識されることはない。

 弥生の脳裏にあるのは、昨夜の記憶。

 勇輝の照れたような表情が頭から消えない。

 彼の言った言葉が、何度も反芻される。

 昨夜の出来事が映像となって再生されていく。弥生はまたぼんやりと、それをながめていた。

 彼が来た時も、弥生は今と同じようにベッドに座って外を見ていた。


「弥生、夕食だよ」


 始業式を終え、一度家に帰った勇輝が如月に来ると、ちょうどいいと癒慰に弥生に夕食を届けるように頼まれたのだ。


「勇輝……」


 弥生は振り向き、視界に勇輝を捉えた。

 その瞬間に彼の緊迫した、今にも泣きそうな表情が脳裏に蘇る。弥生はわずかに眉をよせ、それを振り払う。

 勇輝はりんごが乗った小皿を持ってドアを開けたところだった。

 勇輝が弥生へと視線を向けると、目があった。


(……え?)


 勇輝はその瞬間、どきりとした。月の柔らかな光が弥生を闇と区別させている。

 弥生はどこか浮かない表情をしていた。長年共にいないと気づかないような、わずかな表情の変化。

 そして次に、雰囲気が違うことに気づく。いつもの研ぎ澄まされた刃のような凛とした雰囲気が感じられない。

 勇輝は心配になって弥生へと近づいた。ベッドのサイドテーブルに小皿を置いて、弥生の前に立つ。

 弥生は勇輝に胡乱気な目を向けた。


「どうかした?」


 勇輝が心配そうにそう尋ねるが、


「別に。どうもしていない」


 弥生は無機質な声でそう返しただけだった。

 こうも冷たく返されると心が折れそうになるが、勇輝はめげない。


「夕食食べなよ。昨日も食べてないんだろ?」


「いらない。食べたい気分ではない」


 弥生は押し黙り、窓へと視線を戻す。

 勇輝はそっか、とひとまず弥生に夕食を食べさせるのは諦め、他愛のない話をすることにした。

 人間界はまだ暑いこと。

 クラスで葉月から嫌みを言われたこと。

 帰りに食べたアイスがおいしかったこと。

 弥生はそれを聞いているのかいないのか、曖昧な様子で弥生は外を見ている。


「そうだ。一度家に帰ったんだけど、母さんはすっかり元気になってたよ」


 父親がいるためまだ包帯は巻いているが、元気に夕食を作っていた。

 弥生は暁美のことになると興味を持ったのか、視線を勇輝へと移す。

 勇輝が母さんと口にする表情は穏やかで、以前の不安そうな表情はどこにもない。


「過去は、もういいのか?」


 勇輝は唐突にそう尋ねられ、虚を突かれた表情をしたがすぐに照れたような表情を浮かべた。


「うん、もういいんだ。母さんが死んだって思った時にわかった。俺の中では、母さんが母親なんだよ」


 勇輝は気恥ずかしそうに少し視線を逸らして言った。

 弥生の眉がぴくりと動く。


「すっげぇ悲しかった。悲しくて、悔しくて、苦しかった。だから本当に俺の過去がなくても、偽りでも母さんは母さんだ」


「……悲しい?」


 弥生が反応をみせた。どこか困惑したような表情で、問いかける。


「お前はあの時、悲しかったのか?」


 弥生の網膜に焼きついている今にも泣きそうな勇輝の表情。

 それが消えない理由は一つ。

 その表情が理解できなかったからだ。


「そりゃ……親が死んだら悲しいじゃん。まぁ親じゃなくても人が死んだら悲しいけど」


 勇輝はあの時はかなり取り乱していたなと今になって恥ずかしくなる。後少しネタばれが遅ければ確実に涙が溢れていた。


「悲しい……」


 弥生は再びその言葉を反芻する。

 いま一つ腑に落ちない表情だった。

 そして勇輝もなぜ弥生がそんな表情をしているのかが分からない。


「人が死ぬと悲しい。……泣くのか?」


「泣くと思うよ」


 弥生はしばらく沈黙し、何かを考えているようだった。

 勇輝が何を言えばいいのか分からずにいると、急に弥生の瞳が揺れ、顔が強張った。


「弥生……?」


「いや……なんでもない」


 弥生はすぐに無表情に戻り、窓の外へと視線を外す。

 また沈黙がおりる。先程よりも重い沈黙。

 勇輝はこれ以上弥生と話すのは無理だと感じ、ひょいっと弥生の顔をのぞく。


「弥生、また明日」


 そして弥生の顔の前でひらひらと手をふると、りんご食べろよと言い残して出ていった。

 一人になった弥生の脳内では勇輝の言葉が繰り返される。


(悲しい……)


 胸の奥が鉛でもあるように重い。蛇のように這いまわり、息苦しくなる。

 ざわり、ぞわり。

 得体のしれない影のような何かが、身のうちで目覚めたような気がした。






 弥生はドアがノックされた音で我に返った。

 また捕らわれていたのかと重い息を吐く。

 先程からどれだけの時間が経ったのか弥生にはわからない。

 ノックに何も答えずにいると、そろっとドアが開き誰かが入って来た。

 弥生は振り返るのも億劫で、窓から視線を動かさない。

 視界の端に金色が入り、彼は隣に腰を下ろした。

 視界の隅で彼を捉え、やけに真面目な顔をしているなと少しおかしく思う。

 そして彼もその手にりんごを持っていた。


「なぁ弥生。ちょっとくらいは食べようぜ?」


 秀斗はりんごをフォークでさすと、弥生の口元に持っていく。

 弥生はわずかに眉をひそめ、秀斗へと顔を向けた。二人の視線が交差する。


「いらん」


「一昨日から何も食ってねぇだろ」


 弥生は少食の上偏食で一日一食もよくあった。だが何日も何も食べないことはほとんどない。

 弥生が食事を拒否するのは何か異常がある時だけだと、秀斗は経験で知っている。

 そしてそういう時は強引にいくのがよい。


「嫌なら俺が口移しで食べさせるけど?」


 フォークにささったリンゴを揺らしながら、秀斗はにぃっと笑う。

 秀斗としてはそのほうが嬉しい。

 そしてその言葉の効果は抜群で、弥生は目つきを鋭くさせると秀斗から皿を奪いりんごに齧りついた。

 ひさしぶりに喉にものが通ったせいで少しむせた弥生の背中を、秀斗は優しく撫でる。


(これはちょっとヤバいな)


 目があった瞬間、ぞっとした。

 瞳の奥に渦巻くもの。弥生の奥底に眠るもの。不安要素が浮上していた。


(やっぱ勇輝か……)


 弥生が籠るようになったのは暁美が襲撃され、病院に駆け付けた後から。

 そして昨日勇輝は弥生に会っている。

 弥生はなんとかりんごを三つ食べ終わると、皿を秀斗に突きかえした。

 秀斗ははいはい、と立ちあがってサイドテーブルに皿を置き、また隣に座る。

 隣に座ると伝わってくる弥生の不安定さ。

 弥生が不安定になる理由に思い当たるものがあった。

 だから秀斗は弥生を刺激しないように当たり障りのない話からしていく。

 学校で来月に体育祭と文化祭があること。

 葉月が頼むから学校に来てくれと嘆いていたこと。

 秀斗は楽しそうに話すが、弥生は何の反応も返さない。

 秀斗は頭をかくと、弥生へと顔を向けた。

 沈黙がおり、秀斗は弥生の横顔を眺める。

 しばらくそのままでいると、弥生がぽつりと沈黙を破る。


「秀……人が死ぬと悲しいのか?」


 秀斗はその問いに、はっと目を見開き知らず知らず拳を握っていた。


「……そーだな。悲しいな」


 そう答えるしかない。


「勇輝の、泣きそうな顔が消えないんだ……」


 秀斗は弥生の頭に手を伸ばした。優しく触れて、まるで壊れものを扱うように撫でる。

 いつもなら、短剣が飛んでくる。

 だが弥生はされるにまかせていた。


「私には、悲しいというものはわからない」


 親が殺された時は何も感じなかった。

 仲間が傷つけられれば、怒りが沸き起こる。

 まして死ねば、制御できない怒りと憎しみが弥生の全てを支配する。

 秀斗は弥生の話に耳を傾け、頭を撫でた。

 昔、鎖羅がそうしていたように。


「あの時からおかしいんだ。胸の奥になにかがいるみたいで……嫌な感じだ」


 弥生は胸元に手を置き、眉根を寄せる。

 どこか不安げな表情に秀斗は思わず抱き寄せそうになるが、理性を総動員して留まった。

 秀斗は触れる手を頭から頬へと滑らせ、柔らかな頬をみょんっと伸ばした。


「なっ!」


 弥生は驚いて秀斗の手を打ち払った。

 秀斗は喉の奥で笑い、また弥生の頭へと手を置く。


「あまり考えすぎんじゃねぇよ」


 弥生は少しむっとした表情で秀斗を睨んでいる。

 秀斗はこんな表情もできるのかと、新鮮な気持ちになった。氷騎にいたころには絶対に見せなかったもの。

 弥生は人に近づいてきている。


(ほんとに、壊れるかもしれねぇな……)


 秀斗はそっと弥生から手を離すと、その瞳をまっすぐ見つめる。

 弥生の灰色の瞳には、自分の顔が映っていた。


「弥生、俺はお前が好きだ。知ってるだろ?」


 突然の告白でも弥生は表情を変えなかった。氷騎にいる頃から何度も聞いた言葉。


「だからいなくなんなよ。俺はお前が必要なんだ」


「……あぁ、わかっている」


 秀斗は最後に弥生の頭を優しく二度叩くと、ベッドから腰をあげた。


「明日からは少しは部屋から出てこいよ」


 秀斗はそう言うと、皿を持ってドアへと歩いて行った。


「秀」


 ドアノブに手をかけようとした時、名を呼ばれ秀斗は振り向いた。


「な……」


 振り向くと同時に顔のすぐ横を何かが通り抜けた。背後で壁に何かが刺さった不穏な音がする。


「次すればどうなるか、分かっているよな」


 今日はいけると思ったが、結局は短剣を投げられた。


「はいはい。じゃぁな、おやすみ」


 だが秀斗はそれに動じることなく部屋を後にする。

 パタリとドアをしめ、秀斗はゆっくりと息を吐いた。最初の危うい雰囲気はだいぶましになった。だが、不安はぬぐいきれない。


“弥生は一度、壊れなくてはならない”


 昔、鎖羅に言われた言葉が蘇る。

 氷騎に入ってしばらくした時に、鎖羅が秀斗に言ったのだ。

 弥生はこれまで多くの人を殺してきた。だが、人の死に対して悲しみや悼みを持っていないと。

 だが仲間が傷つけられた時の怒りは激しかった。

 それを鎖羅は、おもちゃを壊されて怒る子どものようだと言ったのだ。

 そう言われて秀斗も納得した。弥生は人を平然と殺す。それがあたり前のように。

 時々それがうすら寒く思えたこともあった。

 鎖羅が話したのはもしもの話だった。

 弥生はいつか人の悲しみに気づくかもしれない。だがその時に心が耐えられるかは分からない。


“秀斗、もし弥生が壊れそうになった時は傍にいてやってくれ”


 鮮明に覚えている、鎖羅の言葉。


(今が、その時なのかもしれねぇな)


 秀斗はゆっくりと歩き出した。

 掌には弥生の髪の柔らかさ、頬のふにふにした感触がまだ残っている。

 秀斗はぐっと手のひらを握って歩く。


(あいつを守れるのは、俺だけだ)


 ふわりと夜風が秀斗の髪を揺らした。それにつられて窓のほうへと視線をやる。

 開いた窓からは雲がかかった月が覗いていた。空高く、淡い光を放っている。

 秀斗はしばらく月を見ると、また歩きだした。心の中の思いを強くして。












 季節からも時間の流れからも切り離された空間。夜空に星はなく、月は常に満月で淡い光を注いでいる。

 ランタンの火だけが灯る薄暗い廊下。

 大理石の廊下は足音を響かせ、それがまた静けさを際立たせる。

 阿修羅は目的の場所へと足を進めていた。

 ほどなく自分の足音とは違う足音に気づき、阿修羅は前方に注意を向けた。

 時は深夜に近い。

 普通の隊員は外を出歩くはずはなかった。

 靴音は重なり合って響いていく。

 阿修羅よりも少し低い靴音。

 ゆったりとした歩調。

 近づくにつれて徐々に明らかになる輪郭。


(!?)


 ざわりと、本能が違和感を告げた。

 阿修羅は反射的に闇誡あんかいを発現させ、目の前に現れたものに目を見開く。


「よう阿修羅。久しぶりだな」


 軽い調子で手をあげたのはサクリスだった。


「あぁ」


 阿修羅は驚きを隠し、闇誡を解いてサクリスと対峙する。

 二人とも足を止め、視線が交差する。

 阿修羅はサクリスがめずらしく帯刀していることに気づいた。

 そしてその剣が何かに気づいて、ぴくりと眉が動く。

 阿修羅の視線を追ったサクリスは、合点がいったように剣を取り上げた。


「レガーシアの剣だぜ。忘れ形見にもらったんだ」


 いいだろとサクリスは口角をあげて笑う。


「あの女のか……」


 阿修羅が気づいたのは、これが弥生の月契だということだった。だが言われてみればこの月契は雰囲気が違う。


「また俺ら二人になっちまったな。男だけじゃつまんねぇぜ」


「じきにロビナシアが目覚めるだろう」


 ロビナシアの名を出すとサクリスの顔がぱっと明るくなった。


「そーそ。俺も楽しみにしてんだ」


 サクリスは腰に剣を戻し、声を弾ませる。


「妹は可愛がりてぇじゃん?」


 ぜってぇ可愛いと妄想を膨らませるサクリスに、ロビナシアを見たことがある阿修羅はあえて何も言わなかった。


(実際にあえば分かる)


 楽しそうに未来を語るサクリスを放置していると、そうそうと思いだしたように話題を変えた。


「俺王命を受けたんだぜ? 妹のためにもがんばらねぇと」


 誇らしげなサクリスに阿修羅はそうか、と答える。

 黒騎において王命は任務の最上級にあるものだった。難度が高く、ほとんど幹部しか受けない。

 王命を授かるのは信頼されている証であり、大変名誉なことだった。

 サクリスはにぃっと挑発するような笑みを浮かべる。


「アフラン。今にお前を超えるから、見てろよ」


 そう言い置いて、サクリスは阿修羅の脇をすり抜ける。

 阿修羅は振り向き、サクリスの背に声をかけた。その目つきは鋭く、声には威圧感がある。


「サクリス。お前何人いる?」


 呼びとめられて振り向いたサクリスは、驚きに目を見開いたがすぐに勝気な笑みをつくる。


「さぁ、もう数えるのをやめちまった」


 闇誡を発現させた阿修羅の瞳に映ったのは、何色もの色が混ざった魂。

 以前は一色だったものが爆発的に増えていた。


「俺もお前のように完成させたんだよ、サクリスを」


 サクリスはじゃぁなと手を振って歩きだした。阿修羅はその魂をもう一度闇誡に映す。


(おぞましいな。あれが思念体か)


 話には聞いたことがあった。他人の魂を取りこみ、支配することができる。

 その段階に達したものが思念体。

 阿修羅の融合体とは別の完成形だった。

 阿修羅は闇誡を解き、歩きだした。

 王の間は近い。

 阿修羅はアフランとして、その扉の前へと立った……。






 

 


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