第5章の16 夏、不良は修行に出ます
“強くなる”
その宣言から一週間ほど過ぎた。その言葉の通り勇輝は前にも増して鍛錬に励み、弥生は自室から鍛錬場の勇輝へと声をかけることが増えた。錬魔は勇輝の身体を視、無理の出ない範囲の負荷を考える。零華と癒慰は勇輝のためにバランスのよい食事を整えた。秀斗は勇輝の傍で応援し、そのうっとうしさに勇輝がキレること5回。
それぞれが様々な形で勇輝を支えていた。
街を巡回する回数も増え、夜も二人組で回るようになった。だが怪奇事件が嘘のように街は落ち着き、テレビからも事件の報道は消えていった。
そんな中、学校は夏休みに入った。むろん事件のごたごたでろくに勉強をしていない勇輝は赤点ギリギリ。赤点を取らずにすんだのは、怪我から復活後の零華による地獄補習のおかげである。そこには弥生と秀斗の姿もあった……。
怒涛の日々を超え、高校最後の夏休みを過ごす勇輝は、如月の自室でベッドの上に寝転がっていた。終業式だった昨日、家に帰って母親に夏休み中は帰らないことを告げている。次敵が何時攻めてくるかわからない今、一時でも彼らと離れていたくなかったのだ。
勇輝は天井に向けて手を伸ばした。その掌には豆が出来ている。毎日何時間も素振りしたせいだ。弥生が動きを指導してくれることもあり、暇さえあれば剣を振っている。だが、弥生は決して剣の使い方を教えようとしなかった。まずその重さに慣れろと言うだけ。
勇輝はそれを歯がゆく思っていた。
(俺は戦いたいんだ……そのための力が欲しいのに)
せがんで模擬試合をしても、弥生は何も言わず攻め続け勇輝に攻撃を許さなかった。勇輝は避けるか防ぐしかできず、戦いとは言えない。
(……よし)
勇輝はぐっと拳を握って起き上がる。考えていても何も始まらない。そう思った勇輝は行動を起こすべく部屋を後にしたのだった。
秀斗は自室のベッドの上で、枕に背中を預けながらお気に入りのワインを飲んでいた。ふくよかな香りが鼻孔に抜け、もやもやと晴れない心が、少し落ち着きを取り戻す。
秀斗はワイングラスをサイドテーブルに置き、寝転がって天井を睨んだ。頭にはここ最近同じことが繰り返し浮かんでいる。考えては止め、また思い出しては考える。
一人でいると、いつの間にか頭の中には弥生の言葉が居座っている。
“知ろうと思う”
重たいその決心が秀斗の心をかき乱す。自分に答えを迫ってくる。
秀斗は目を瞑り、その言葉とその時の弥生を思い浮かべた。
何度考えても、答えは出ない。ゆったりと時間だけが過ぎていった。
秀斗が弥生の部屋を訪ねたのは昨日の夜。弥生が完全に回復した直後だった。部屋に入ると彼女はソファーに座り、机に置かれた月契を眺めていた。銀の絹糸のような髪に無表情な綺麗な顔。それを失いかけたと思うとぞっとする。
弥生は入って来た秀斗を一瞥すると、すぐに剣に視線を戻す。
秀斗はすぐに用件を言わずつかつかと弥生との距離を詰め、机の向こうに立った。秀斗の影が月契にかかり、弥生は秀斗を見上げた。そして不愉快そうに口を開く。
「何か用か?」
秀斗はまっすぐ弥生を見つめ返した。その表情は硬く、いつもの軽い雰囲気がない。むしろ苛立っているようだった。
「弥生……お前は死ぬつもりだったのか?」
吐き出されたその言葉は唐突だったが、その意は明らかだった。
「まさか」
弥生は鼻を鳴らし、挑発するような目を秀斗に向ける。
「お前は私が死ぬと思っていたのか?」
「現に死にかけたじゃねぇか!」
秀斗は声を荒げてから気まずそうに表情を歪めた。苦しそうな秀斗の表情に、弥生は口を閉ざす。秀斗は逸り荒ぶる心を押さえて、喉から声を絞り出した。
「弥生……軽蔑されてもいい。それでも俺は、勇輝が死ぬよりお前が死ぬ方が辛ぇ。正直やったレガーシアよりもやられた勇輝に腹が立った。そしてお前にもだ。もう仲間のためといって命をかけるのはやめてくれ」
秀斗は一息でそう言い切った。秀斗の心には様々な感情が渦巻き、口からはそれに押されたように言葉が出てくる。
「仲間は自分の命をかけてでも守る。それが私の自分自身への誓いだ」
「けどお前が死んだら、俺たちの仲間のお前が死んだら意味はねぇんだよ!」
張り裂けそうな心の声が弥生の心臓を掴んだ。秀斗は何度もそのことを弥生に言った。自分を犠牲にして仲間を助ける弥生を何度も見てきたから。そしてそれがとても寂しくて悲しかったから。
「秀……」
秀斗は弥生の声に首を横に振り、寂しそうに微笑した。
「違うんだ、俺は今日そのことを言いに来たんじゃねぇ」
秀斗はそこで言葉を切って、長い息を吐いた。重いそれをうち払うように秀斗は頭を振って弥生を見つめ直す。瞳には新たに戸惑いと迷いが滲んでいた。
「弥生、俺はお前の心が知りてぇ。お前は、どういう気持ちであの術を使ったんだ?」
弥生は一度目を伏せた。
「想いを違えてしまって、すまなかった」
勇輝を救えた安堵感と、想いを違えた罪悪感とでは罪悪感の方が上回っていた。
「謝ってほしいんじゃ……!」
秀斗はハッとして何かを言いかけたが、弥生の表情に言葉を無くした。新たに変わった彼女の、後悔していない力強い表情に。
「……弥生。お前は、受け入れんのか? この血を、運命を」
知らないうちに声が震えている。
秀斗は自分の胸に手を当て、ぐっと爪を立てた。指に伝わる鼓動は絶えず血を送りだしている。理不尽な理に縛られる血を。
「まだ、できない。だが、もう目を背けることもできないんだ」
そう言って弥生は苦笑を浮かべた。嘲笑に近いそれは、ずっと逃げていた自分に対するものにも見える。
「私は何も知ろうとしなかった。人間も、姉様も、自分自身すら」
秀斗は弥生の独白に目を見開いた。もやもやしている心がスーッと鎮まり、その言葉が染みてくる。それは、自分にも当てはまるのだ。
「私は、知ろうと思う」
知るということは時に残酷。だが、知ることなしにその先には進めない。だから彼らは立ち止まっていた。前に進みたくても、知るのが怖かった。知ってその決断を迫られたくなかったのだ。
「俺は……」
自分はどうだと、心に問う。知る覚悟があるか。その先に進みたいかと。
「この血を、生贄の血を……」
秀斗は無意識のうちにそう呟いていた。何度自分に訊いても、明確な答えは返ってこない。
「生贄の血……か。確かこれも、あの女に教えられたのだったな。皮肉なものだ。私たちはあまりにも無知」
敵はそこにつけこみ、動揺を誘う。前はその動揺のせいで全員が傷を負った。
「秀。お前は御影に聞かされた話を覚えてるか?」
弥生は突然そう秀斗に問いかけた。
それは、昔御影と対峙した時に聞かされた真実。彼らの心をかき乱した事実だった。
秀斗は表情を曇らせて、小さく頷く。
「当たり前じゃねぇか……。忘れることなんてできねぇよ」
「私も、忘れたことはない。因縁の始まり……親の敵」
そこまで言って、くくっと低く弥生は笑った。秀斗が訝しげな瞳を弥生に向ける。
「だがな、再びレガーシアと対峙した時、運命を狂わされた憎しみよりも、この因縁を断ち切れる喜びのほうが大きかった」
それが戦闘のさなかに弥生に笑みを作らせた。
「私は親をよく知らない。だから、それを殺されようが憎しみもわかなかった」
弥生は澱みなく話し続ける。秀斗は弥生に引きつけられるように傍によった。弥生の左に座り、弥生と目線を合わせる。弥生の瞳には言葉とは裏腹にはっきりと憎しみの感情が映っていた。鎖羅の時のような澱んだ憎しみではない。刃のような鋭い、研ぎ澄まされた憎しみ。それは怒りに近かった。
「だが今は……錬魔と勇輝を傷つけられた憎しみがここにある」
弥生はコツコツと人差し指で自分の胸を叩いた。
「次の戦い、きっと私は憎しみを抱いて挑むだろう。秀、頼む……私が闇に落ちることがあれば……」
弥生は秀斗の瞳をじっと見つめ、彼の手の上に自分のそれを重ね合わせた。
「私を、止めてくれ」
秀斗は添えられた弥生の手を強く握り返して、力強く頷いた。
「あぁ。けどな弥生、お前はもう闇には落ちねぇよ。お前は、お前自身で戦える……お前は、強ぇよ」
弥生は淡い笑みを浮かべて小さく頷いた。しばらく二人は見つめ合い、弥生は自分の手に視線を落とした。左手はしっかり握られ、秀斗の熱が伝わってくる。
弥生はその手を振りほどくことが出来なかった。秀斗がどれだけ苦しいかが痛いほど伝わるから。
弥生は限界が来て右手が月契に伸びるまで、じっと秀斗の温かみを感じていた……。
秀斗は目蓋を開けて天井を見つめた。
弥生の覚悟を持った顔が秀斗を苦しめる。戦いを前にして、また守れないかもしれないという恐怖と、もう逃げられないという束縛が迫っていた。この血に向き合い、運命を受け入れた先に、どう決断するのか。
秀斗は重い溜息をついた。
(弥生は……強くなったな)
自分は、と問いかけたところに、トントンと無機質な音が部屋に響いた。秀斗はハッと我に返り、返事をする。
「誰だ?」
「俺~勇輝。今いい?」
ドアを開けて、勇輝はひょこりと顔を出した。可愛らしいその顔に、秀斗の沈んだ心が少し軽くなる。
「あぁ、かまわねぇぜ」
秀斗はベッドから身を起こし、枕にもたれて勇輝へと顔を向けた。
勇輝はベッドの傍まで近づくと正面から秀斗を真剣な目で見つめる。
「なんだ? 今から告白でもしそうな目じゃねぇか」
秀斗がそう茶化したが、勇輝は笑わずにじっと秀斗を見ていた。秀斗は決まりが悪そうに頭をかいて、胡乱気に勇輝を見返す。
「で? 俺に何の用?」
正直秀斗には勇輝の用件が全く予想できなかった。何時ものように他愛のない話をしに来たわけではないらしいが、勇輝からの真剣な話など想像がつかない。
二人はふざけ合っているのが常だった。
「俺は強くなりたいんだ」
そう勇輝が切り出す。
「あぁ、知ってる。だから今剣の稽古やってんだろ?」
秀斗も勇輝が頑張っている姿をよく見、応援した。邪魔もの扱いされたが……。
「弥生は何も教えてくれない。俺は戦える強さが欲しいんだ。守りの強さを欲しいんじゃない」
勇輝の真剣な訴えを、秀斗は黙って聞いていた。勇輝の焦燥も、身に覚えがある秀斗には痛いほどわかる。そして、何故弥生が勇輝に剣を教えないかも、知っている。
「俺は剣術を教えてもらいたい。そして一緒に戦いたんだ。だから」
「俺に、教えてもらえるように弥生に頼んでくれってか?」
勇輝の言葉に被せて、秀斗がその先に来るであろう言葉を口にした。そしてそれは正解だったらしく、勇輝は頷く。
「たぶん、俺が言っても弥生は教えてくれねぇと思うぜ」
「……なんで?」
「お前と弥生は違う。弥生は、お前に自分の剣術を使わせたくねぇんだ」
「じゃぁ、俺はどーすればいいのさ!」
勇輝は不満そうな顔をして、投げやりに言った。
「誰に剣を教えてもらえばいいんだよ……」
勇輝の顔に滲む焦りと不安。その表情は秀斗も一時浮かべていたもの。
(こいつも、守りてぇのか。自分の大切なものを)
秀斗は枕から背を起こすと、勇輝と向き合って片膝を立てた。膝に腕を置き、じっと勇輝を見つめる。
先程よりも鋭さの増した瞳に、自然と勇輝の背筋は伸びた。
沈黙が下り、二人の視線は交差したまま動かない。その沈黙に耐えかね、勇輝が口を開こうとした時、先に秀斗が言葉を発した。
「勇輝。強くなるためなら、どんなに辛くても耐えられるか?」
「もちろん」
勇輝は即答し、その顔には微塵の迷いもない。強い意志を秘めた表情だ。
秀斗はそうこなくちゃとにぃっと笑った。
「いい覚悟じゃねぇか。勇輝、強くなりてぇなら綾覇の所にいけ」
突然出て来た聞き覚えのある名前に、勇輝はキョトンとした。綾覇に会ったのはずいぶん前で一度きり。
「なんで綾覇さん?」
勇輝の脳内には赤髪で戦い好きな綾覇の姿が浮かんだ。彼女に拉致されて大変な目に遭った。
「あいつの剣の腕は隊内一だ。それに、あの隊は新人の訓練もやっててよ。剣を教えてほしいって言えば喜んで受け入れてくれるだろーぜ」
「へぇ」
そういえば朧月夜では剣の鍛錬をしている隊員が多かったことを勇輝は思い出した。それに綾覇の腕前はすでに見ている。綾覇自身、弥生に勝ったと言っていた。
「綾覇さん……か」
「お前にその気があんなら、紹介状でも書いてやるぜ?」
目の前に示された強くなるための鍵。勇輝にそれを掴む以外の選択肢は思いつかなかった。強くなれる。その可能性が勇輝の胸を高鳴らせた。
「秀斗。俺は強くなって帰ってくる」
生き生きとしたその表情に、秀斗はにっと笑ってベッドから降りた。物入れから紙とペンを取り出してその上でさらさらと書き始めた。
その様子を勇輝は大人しく見ていた。ドキドキと修学旅行に行く前のような気の高まり。
「よっしゃ」
「え、速くない?」
秀斗はこれでよしと紙を折りたたんで勇輝に手渡した。
「ま、ちょっとした書きつけだ。弥生にも断っとけよ」
勇輝はこくりと頷いた。秀斗が書いた手紙を大事そうに手に持ち、がばっと頭を下げる。
「秀斗ありがとう! 俺絶対強くなるから」
勇輝が頭を上げると、その顔には笑顔に自信が滲んでいた。
真っ直ぐ自分の思う所に進んでいく勇輝に秀斗はどこか後ろめたさを感じた。決断をし、覚悟を持って先に進む弥生と勇輝。まだ迷い、ためらい立ち止まっている自分。
「勇輝……」
「何?」
晴れやかな顔をした勇輝に、秀斗はふっと落とすように笑った。
(俺も、うかうかしてらんねぇな)
だが陰った表情はすぐにいつものひょうきんな笑顔に変わり、勇輝の頭をわしゃわしゃと撫でまわす。
「頑張ってこいよ」
「子ども扱いすんな!」
「いでっ!」
勇輝は秀斗の顎に拳を打ち上げる。それと同時に聞こえるグシャッという音。
「……あっ」
勇輝はあははと半笑いを浮かべて、そろっと拳を下げた。秀斗は顎を抑えながらゆっくりと上向いた顔を戻し、勇輝を見下ろす。頬がひくついていた。
その後勇輝は拝み倒してもう一度秀斗に紹介状を書いてもらった。文面がさらに短くなった気がするのは、気のせいだろう……。
弥生が大人になったなと思う。いろいろ大変なことがあったキャラだけど、ここまで成長するとは思わなかったな。そして秀斗がこんなに悩むとも思わなかったな。みんな苦しんで成長するんだ。がんばれ。