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第5章の8 温泉は身も心もときほぐす

 ざーざーと、まるで滝のような音が響く。比喩ではなくそこに滝はあった。だがここは朝もやが立ち込め清々しい空気が満ち溢れている森林ではなく、湯けむりがあがる浴場だ。

 見た目はいまいち味は一品の鎖羅特製料理を全て食べさせられるという苦行を強いられた後、弥生は引きずられるようにこの浴場に連れてこられたのである。

 弥生は湯船に肩までつかり、広い浴槽に四肢を伸ばした。氷騎の浴場も如月同様に広い。鎖羅の風呂好きが功をなして改築に改築を重ねたからだった。

 弥生は大きな天窓を見上げ、ふぅと息を吐いた。すっかり日は落ち、ただの黒い穴に見える。

如月では部屋にあるシャワーで済ますことが多いので、ゆっくりお湯につかるのは久しぶりだった。


「いい湯だろ」


 そう言って身体を洗い終えた鎖羅が入って来た。彼女が動くたびに水面が揺れて波紋を生む。

 鎖羅は弥生の前に座ると、じっと弥生を見た。弥生は何となく気恥しくなって目を逸らす。

 鎖羅の一糸纏わぬ姿は妖艶で、濡れた黒髪がこの上なく色っぽい。そしてその身体には戦いの跡が多数残っていた。豊満な胸に刻まれた刺青がより胸へと視線を奪う。


「弥生。レガーシアが如月を襲った理由に何か心当たりがあるか?」


 鎖羅は長い黒髪を器用に一つに纏めながらそう尋ねた。


「奴は以前私たちに負けた。それの復讐と、天つ人の殲滅だろうな」


 天つ人の血を絶やす。それは昔戦った時に彼女が言った言葉だった。


「……ならば、我が手を出す問題ではないか」


「これに姉様を巻き込むわけにはいかない。あいつは、私たちが倒さなくてはならない……」


 弥生は決意を秘めた眼差しを鎖羅に向け、未だに鎖羅にじっと見られていることに気づくとぱっと下を向いた。


「……そんなに見ないで欲しい」


「あぁすまぬ。いや、成長したなと思ってな……特に胸など」


 最後に付け加えられた言葉に弥生は頬をひきつらせて鎖羅に背を向けた。


「何を言い出すんだ!」


 慌てふためく弥生に可愛さを感じて、鎖羅はくすくすと笑いながら弥生に近づいて頭を撫でる。しっとりと濡れた髪はつややかで、手触りもよい。


「冗談だ……なぁ弥生、訊いてもよいか?」


「なんだ?」


 弥生は背を向けたまま、そう返した。その声音は柔らかく、なんの警戒も入っていない。訊かれるということに対して過敏に警戒していた昔に比べると、笑えるくらいの進歩だ。

 故に、何があって、誰が弥生をこうしたのかが気になる。


「戦う私たちの中に、あの人間は入っているのか?」


 答えるか答えないかは半々と踏んでいた鎖羅は、ただ弥生の反応を待った。


「勇輝か……」


 呟きの中には呆れと諦めが入っている。


「本当は入れたくなかったが、言っても聞かなかった。自分も闘うと、剣を鍛錬している」


 錬魔が目を覚ます前に、弥生は勇輝に家に帰るように言った。だが勇輝は聞く耳を持たず、自分も如月の仲間だと言い放ったのだ。錬魔を傷つけた敵を許すことは出来ない、と。

 無理やりにでも家に送り返そうとする弥生を秀斗が宥め、なんとか取りなし勇輝は自分の身を守るためにさらに剣の鍛錬をするという条件で参戦が許された。


「お前が人間を受け入れるとはな」


 最初は弥生が無能力な人間を仲間に入れていることが信じられなかった。弥生の苛烈なまでの人間嫌いは知っている。だが何度か如月を訪れ、疑問は確証に変わった。

 彼が弥生を、そして他の魔術師をも変えたのだと。

 鎖羅は戦いの後、まっすぐと己の目を見て礼を言った少年の顔を頭に浮かべる。


「あいつはしつこいんだ。何度潰してもまた来るし、何が起こっても平気そうな顔をして……」


 無駄に度胸がある。むしろありすぎて彼らは困るのだ。非常識で不可解な力を使う敵に対して憶することもなく立ち向かおうとする。そしてそのことを嬉しいと思ってしまう自分たちが一番困るのだ。

 弥生はいきいきと不良の血が騒ぐと言いながら剣を振る勇輝の姿を思い出した。


「私は負けたのだ……」


 悔しさが混ざった声音に、鎖羅は高らかに笑う。


「あいつはお前に勝ったのか! そいつは愉快だ」


「笑いごとではない……面倒が増えた」


「だがそれでもあいつを仲間に入れているのだろう? 弥生。あいつはお前にとってのなんだ?」


 鎖羅がそう問いかけた瞬間、風呂場の空気がきんっと張り詰めた。弥生はゆっくりと振り返り、鎖羅の視線を受けとめる。

 彼女の眼は、その答えを見定めるかのように鋭い。

 弥生は今までに何度かその眼を見ている。だがその時々に言葉が紡がれることはなかった。


(なるほど……ずっとこれが訊きたかったのか)


 鎖羅は昔からあまり多くを訊くことはなかった。だがそれは彼女があえて訊かなかっただけだということを、弥生はやっとわかるようになったのだ。

 知りたいことはためらわずに訊く、勇輝に会ってから。


(私は姉様に守られてばかりだ)


 弥生はじっと鎖羅を見つめ返し、口を開く。

 鎖羅はずっと待っていてくれた。その気づかいに、応えたい。


「あいつは、私の約束だ。私はあいつを守ると約束した」


「誰と?」


 反射的に訊き返して、鎖羅は踏み込みすぎたかと後悔する。だが弥生は不快な表情は浮かべず、少し視線を落としただけだった。表情に影ができて憂いが見える。


「友人だ」


 弥生は一度区切り、鎖羅の表情を伺ってから続けた。今なら、隠してきたことを言える気がした。


「私がここを出て、龍牙隊に入った後はほとんどあの空間にいた……だが10年ほど前、私は黒騎に囚われたんだ」


 その告白に鎖羅は目を見開き、何かを言おうとしたが口をつぐんだ。それを見て弥生は言葉を続ける。


「彼らの目的が何かはわからないが、私は人間の少女の魂に封じられた。それが解けたのが昨年の秋……その少女に勇輝を守ると約束したのだ」


 その解放が、同時に勇輝との出会いでもあった。勇輝とは何度か衝突したが、その約束は違えていない。


「そうか……昨年の秋。なるほどな、これで得心がいく。弥生……我はお前が出て行ってから、ずっとお前を探していた」


 今度は弥生が目を見開く番だった。


「だが我は覇動を感知するのが苦手でな、暇つぶしも兼ねて人間界と異空間を歩くぐらいしか方法はなかった。そうしているうちに時が経ち、ある日阿修羅が言ったのだ。弥生と秀斗を見つけた。会いたければ指令に付き合えと」


 そしてその指令の先で、弥生に会った。


「いくら探しても見つからんわけだ。そうか……あの少年はお前の約束か」


 鎖羅はにっと笑うとわしゃわしゃと弥生の頭を撫でた。

 頑固な弥生に認めてもらうには相当な苦労があっただろうと、鎖羅は察する。


(今度会ったら、礼を言わねばならぬな)


 こうやって話ができるまで、弥生を変えてくれた彼と、他の魔術師に。


「さてそろそろあがるか」


 弥生はこくりと頷く。あまり長風呂をしないのですでに半分のぼせていた。

 戸口でタオルを身体に巻き、脱衣所に戻ると涼しい空気が身体を引き締める。


「ほれ弥生、飲め」


 鎖羅は洗面台の上に置かれた水つぎからコップに水を入れて弥生に渡した。弥生はそれを一気に飲み干す。


「おいしい」


 正直喉はからからだった。

 そして弥生が服を着ようと服を置いたところへ向かうと、その背に鎖羅の声がかかった。


「おい弥生、次は露天風呂だぞ?」


 振り返ると鎖羅は意地悪な笑みを浮かべて手招きをしていた。そう簡単に解放してはくれないらしい。


「……露天風呂?」


 しかもそんなものは弥生がいた時にはなかった。


「そうだ。なかなかいいものだ」


 鎖羅は脱衣所の奥にあるドアを開けた。涼しい空気が流れて来た。


「うわ……」


 弥生はドアから出た瞬間、思わずそう呟いた。黒い石畳の先には木で作られた風呂が埋まっている。竹で編んだ衝立が四方にあり、上は星空が広がっている。明りは数個のランプが湯船の周りに置いてあるだけだ。


「日本の有名な温泉だ」


 限定空間の常時接続と複写。空間魔術でも難易度の高い技だ。弥生と秀斗はテレビで実践したがそれとは規模が違う。さらにこちらの影響が向こうに出ないように空間を操作されている。

 魔術の中でも崇高とされる空間魔術の利用法としてこれでいいのかと思いつつも弥生はタオルを衝立の上にかけ、湯に足を入れる。


「やはり風呂は露天が一番だ」


 鎖羅はすでに湯船の中で足を伸ばしていた。


「……涼しい」


 火照った身体に風が心地よい。弥生は淵に腰かけ、足だけを湯につけた。引きしまった身体に濡れた髪が流れ、柔らかな光に浮かび上がる弥生は一枚の絵のように美しい。そして白い腕や足には薄くいくつかの傷があった。鎖羅と同じ、戦士の証だ。


「まるで月の化身だな……いい身体だ」


 鎖羅は芸術品でも見るようにまじまじと弥生の肢体を眺める。その視線に気づいた弥生は顔を赤らめ、湯に飛び込んだ。水しぶきが上がり、鎖羅を濡らす。


「さ、先程から姉様の言動がおかしい!」


「ん? 弥生は案外照れ屋だな。女同士何を恥じらうことがある?」


 ふふふと意地悪な笑みを浮かべて鎖羅はすーっと弥生に近づいた。


「白磁のような肌に、すらりと伸びる手足。引きしまった腰に可愛い胸」


 至近距離で鎖羅から紡がれる言葉に弥生は赤面し、そわそわと落ち着きがない。


「ね、姉様。酔っているのか?」


 夕食時に少々飲んだが、たかがコーヒー一杯で酔う鎖羅ではなかったはずだが……。


「まさか。むしろ我は怒りを覚えておる」


 鎖羅は急に表情を不機嫌そうなものに変え、弥生に手を伸ばした。その手は左の鎖骨に触れ、そこから胸の上へと滑った。そこには、他のものとは性質を異にする傷があった。共に暮らしていた時には無かった傷だ。


「我の妹に傷を負わせよって」


 弥生の鎖骨から伸びる傷は、ほかの掠り傷ではない。もう一歩で致命傷ともなり得た傷だ。それはほかのどれよりも濃く深く、弥生の身体に刻まれていた。


「これは……」


「言わなくてもよい。わけを訊きたいのではないのだ。ただ、これをつけた奴が許せぬ……それだけだ」


 鎖羅は悔しそうに顔を歪ませ、弥生の隣に座った。

 弥生はすーっと鎖羅の身体に目を向けた。そしてすぐに正面に戻される。


「んん? どうした? 我の魅力的な身体が見たければ好きなだけ見るがよい」


 からかうような口調で鎖羅は弥生の横顔を見た。


「……うらやましい」


 消え入りそうなほど小さな声で弥生は心の底の言葉を漏らした。


「ん? 何か言ったか?」


 本当は聞こえていたが、悪戯心が勝ちそう鎖羅は返す。


「いや……私はその……刺青がきれいだと思って」


 顔を赤らめてぼそぼそと呟く弥生の声は小さく、鎖羅に顔を向けようとはしなかった。 

 鎖羅は弥生の言葉に、自分の刺青へと視線を落とし、弥生の言葉はそれ以上追及しないことにした。


「あぁ……これか」


 鎖羅の鎖骨の中央にある刺青は、幾何学模様を為していた。無数の線が大輪の薔薇のように広がっている。


「これは、私が本部を追われた時につけられたものだ」


「追われた? なぜ?」


 弥生はつい訊き返していた。それと同時に自然と他者の過去を訊くようになった自分に驚きを覚える。


「やっと訊いてくれたか」


 鎖羅は嬉しそうに笑うと、言葉を続ける。


「まぁよくある話でな。まだ戦争も初期のころだ。我は指令で一人突っ走り、結果仲間を死に追いやってしまった。リーダーだった阿修羅がいなければ、我も死んでいただろう」


 何でもないような口調で、さらには苦笑いを浮かべながら鎖羅は話す。


「我は魔術が使えぬし、闇も操れぬ。それに前から足をひっぱっておったからな。ボスが我を除名しようとした」


 鎖羅は懐かしげに目を細め、空を見つめている。


「黒騎で除名とは粛清を意味し、それは死だ。だが殺される直前に阿修羅が割り込んで来たのだ。奴は我とは指令で二三度しか顔を合わせておらんのに我をかばい、我を連れて本部を出奔した……」


 弥生は今まで語られなかった二人の話を、ただ黙って耳を傾けるしかできなかった。

 どこかしんみりとした空気があたりに流れる。


「その時にこの刺青が彫られたのだ。死の代わりにと……。阿修羅には、返しきれない大きな借りがある」


 鎖羅は刺青に手を添えた。胸の下で脈打つ鼓動が、自分がその時得たものを教えてくれる。


「…………だが。その恩と今の怒りとは別物だがな」


 淡々と過去を語っていた口調はおどろおどろしいものに急変した。しんみりと鎖羅の話を聞いていた弥生は目を白黒させる。

 どうやら鎖羅は阿修羅の存在を思い出して再び腹が立ってきたらしい。


「お、落ち着け姉様……そういうのは会った時にぶつければいい」


 弥生は慌てて鎖羅を宥める。せつに阿修羅に帰ってくるなと願った。


「帰ってきたら四分の三殺しにする」


 鎖羅はそう断言し、立ち上がった。


「弥生、今夜は飲むぞ。つきあえ」


「あ、あぁ……」


 鎖羅は衝立にかけていたタオルを掴み、脱衣所へと向かう。

 弥生も慌ててタオルを掴み、姉の後を追った。



 そしてその後。弥生は鎖羅が阿修羅と過ごした分だけの愚痴を聞かされることになる……。


 



 風呂だけで一話が終わってしまった……。ここにきて、矛盾が出るか出ないかのすれすれの綱渡り状態。

 しかも主人公のシーンカットしてしまったという……。すんません勇輝。

 この埋め合わせは必ず……。

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