第4章の9 命、美しく輝くもの
夜の闇に悲鳴が響きわたる。美しい、女の助けを求めるそれではない。男の、それも複数の断末魔。その声を聞いてさらに人が集まる。だが、すぐにその声は消えてなくなる。その繰り返し。
そんな夜の闇を仄かに街灯が照らしだした。
光は銀の髪を煌めかせ、髪の合間から鋭い光が反射する。次の瞬間には悲痛な叫びが夜の闇を貫き、土の上に横たわった。
立っているのは弥生一人。彼女を中心に人が倒れ、苦しみと痛みに蠢いている。
弥生は口元に笑みを浮かべ、月契に付着した血を払って鞘に収めた。服に、髪に、頬に、紅い血が模様のように広がるが、弥生はそれを気にすることもなく倒れ伏す体を踏みつけて前へと歩きだした。
その表情には一点の曇りもなく、鼻歌を歌いそうなほど晴れやかだ。
踏まれた男は短く呻いて気を失う。土は彼らの血で紅く染まり、血だまりには手が、足が落ちていた。 それでも彼らは生きていた。まだ死ぬことを許されなかった。
弥生は足音もなくその場を去り、新しい住み家へと帰る。
街灯に照らされた弥生は、少し幼さの残る女の子だった。
弥生はそっと目を開けた。彼女は椅子に座り、机に向かっていた。机の上には壁から外された小さな額が置かれ、傍に写真が置かれている。その内の一枚を手に取って、懐かしさに目を細めた。自然と柔らかな笑みが浮かぶ。
その写真に写っているのは、今から十八年前の弥生と赤子だった。弥生はその赤子を硬い表情で抱き、視線はレンズを見ていない。
(暁美さん……貴女は恐ろしい人だ)
弥生は記憶の中の暁美の姿を辿った。最初に会ったのは、彼女と龍牙がこの屋敷に訪れた時だった。その場で弥生たちは龍牙隊四剣琅となることが決まり、暁美は度々如月にやってくるようになった。
最近のようで、遠い日々。
(必然……か)
弥生は写真を机に置き、椅子の背にもたれて深く息を吐く。耳を澄ませばかすかに銃声がしている。誰かが狙撃の練習をしているのだろう。
弥生は不規則に聞こえる銃声に耳を傾けながら、そっと目を閉じた。
満月が如月の庭を煌々と照らしている。風に花が揺れ、仄かに甘い香りを辺りに振りまく。だが、その心安らぐ香りも錆びた鉄の匂いに消され、弥生に届くことはなかった。
どれほど美しい花も、弥生がそれに気付くことはない。どれほど香りで誘っていようとも、その花の前で立ち止まることもなかった。彼女の世界に花はない。
弥生が好むのは血の香り。そして命を削るその刹那。
弥生は背後に人の気配を感じて、振り返った。そして抑揚の無い声で問う。
「何か用か?」
問われた秀斗は、すぐに言葉を返せなかった。弥生の姿を確認するように上から下まで眺め、厳しい顔をする。
「それはどうした?」
「私の血ではない」
「それは分かってる……なんでまたやりだしたんだ」
秀斗は弥生のこの姿を何度も見たことがあった。満月の度に人間界へ行き、多くの人を傷つけその血を浴びて帰ってくる。それは一時期黒騎にいた頃にも見られたものだった。鎖羅と打ち解けて以来はぱたりと止んでいたのだが。
「理由などない。ただやりたいからやったんだ。安心しろ、殺しはしていない」
そう言うと、秀斗の返事も待たずに弥生は屋敷の中へと入っていった。
秀斗は軽く舌打ちをする。彼にとって人間を殺したかどうかはそれほど問題ではない。むしろ、再び弥生が人間を襲ってしまう精神状態になっていることが問題だった。
「これは、俺の手には負えねぇな」
秀斗はくるりと踵を返して自分の部屋の下まで歩く。壁にはロープが垂らされており、秀斗はこれをつたって降りてきたのだ。そして掛け声とともにロープを使って壁を登り始める。そんな泥棒みたいな様子を、満月だけが見ていた。
数日後、如月の屋敷を一人の女性が歩いていた。カツカツと皮靴の音が廊下に響く。
「やーよーいーちゃーん。出てきなさーい!」
野球観戦用のメガホンを口に当て、先ほどから弥生の名を呼んでいた。手あたりしだいにドアを開けては閉める。
暁美ははぁと溜息をついて後ろを振り返った。
「弥生ちゃんはかくれんぼが好きみたいね」
メガホンで掌を打ちながら、暁美は歩いてきた廊下を眺めた。二十分かけてやっと一つの廊下を見終わったのだ。
「どうも感付いたみたいっすね。まぁもともとあいつは人間嫌いですから……」
秀斗が呆れ口調でそう返した。本日暁美に弥生の問題行動を治す依頼をしたが弥生は行方をくらまし、目下捜索中である。
「ここまで嫌われると逆に燃えるわね……。弥生ちゃ~ん! 出ておいで~!」
「どうかしたんですか?」
だが暁美の呼びかけにドアを開けて顔を出したのは、癒慰だった。うさぎの着ぐるみを着ており、耳がかなり目立つ。
「ちょっと弥生ちゃんを探してるのよ」
「そうだ癒慰。ちょっと弥生の居場所映してくんね?」
癒慰は頷き一つで了解すると、土炯を呼び出して弥生の居場所を尋ねる。
「土炯、弥生ちゃんを映して」
「御意」
数秒後には画面が切り替わるように弥生の姿が映し出された。どうやら外にいるようで、噴水前のベンチに座っていた。
「これ中庭ね」
「ありがとう癒慰ちゃん。私一仕事してくるから。あと、今日も服似合ってるわよ」
暁美は癒慰を労うと、ツカツカと中庭へと進行方向を変えた。秀斗はその後を追う。
早足で歩きながら、暁美は胸ポケットからハンカチと小瓶を取り出した。小瓶の蓋を開けて中の液体をハンカチに染み込ませる。
「それ、なんですか?」
「ん? 必殺技」
「……」
純真無垢な笑みを浮かべた暁美に、秀斗はそれ以上の追及を止めたのだった。
すぐに二人は中庭に繋がる廊下に行きついた。暁美は一度止まり、外を伺って弥生がいることを確認する。そして秀斗に先に行くように合図した。彼を陽動として使うつもりなのだ。
「……よう、弥生。お前こんなとこにいたのか」
弥生ははっと顔を上げて、素早く辺りに視線をやって警戒する。異常がないことを確認すると、秀斗に視線を戻した。
「何か用か?」
「用がなかったら来ちゃいけねぇのかよ」
「……いや、どうでもいい」
さらりと言われた一言が秀斗の心を抉る。
(ど、どうでもいい⁉)
だがここでめげてはいけない。これまで何度弥生に殺されかけたか。それを乗り越えた秀斗はずいぶん神経が太くなっていた。
「弥生、お前疲れてんじゃねぇの? ちゃんと寝てんのか?」
秀斗は弥生の正面に立ち、膝を折って目線を合わす。そしてその頬をひょいっと引っ張った。とたんに弥生は胸元から短剣を取り出して、瞬時にその鞘を払い秀斗の喉元に突き立てる。その間一秒。
「……ん、元気そうでなりよりです」
弥生は乾いた笑みを浮かべる秀斗の瞳をじっと見つめた。秀斗は笑いを引っ込めて、同じく弥生の瞳を覗き込む。
弥生が自分を見失いそうなときの癖だ。黒騎に入る前と同じ状況に、秀斗は不安に瞳を揺らした。
「次は無いぞ」
そして秀斗の喉元から短剣を下ろした時、背後に気配を感じて反射的に振り返った。口に何かが押し当てられ、そこで意識が途切れる……。
「……暁美さん、それ誘拐です」
秀斗は顔をひきつらせている。
ぐったりとした弥生を背負った暁美は、全く気にせずに胸を張った。
「任せておきなさい。絶対弥生ちゃんをいい子にしてあげるから」
弥生の夜の徘徊兼人間狩りを止めさせるという使命に燃える暁美は、鼻歌交じりでその場を後にした。彼女の行方は秀斗も知らない……。
弥生が目を覚ましたのは、病院の中だった。
弥生がすぐにそれと分かったのは、癒慰がするコスプレ、看護婦さんが目の前の部屋にたくさんいたからだ。そしてその見え方から弥生は自分が横たわっていることに気がついた。体を仰向けに直すと、目の前に顔が現れて驚く。
「なっ!」
ガバッと、風を起こす勢いで弥生は体を起こした。それに合わせて暁美は頭をずらし、衝突を避ける。
弥生は自分が置かれていた状態を把握して、激高した。
「貴様! 劣った存在でよくも私に触れたな!」
弥生の声の大きさに、看護婦や患者が一斉に二人を見た。
「黙ってここに連れてきたことは謝るわ。でも、おちびちゃんに蔑まれる覚えはないわね」
暁美が弥生に手を伸ばしたが、弥生はそれを振り払ってソファーから飛び降りた。右手を左腰へと持っていく。剣こそ出してはいないが、何時でも飛びかかれる構えだ。
「黙れ、私に触れるな」
頑なな弥生の態度に、暁美は重い溜息をついた。立ち上がって手招きをする。
「弥生ちゃん、今日あなたをここに連れてきたのはね、任務が来たからよ」
どこかへと歩きだした暁美を追う弥生が、辺りを警戒しながら問う。
「任務? ここでか?」
「そう。ある二人を、守ってもらいたいの」
「なぜ私でなくてはならない。守るくらいなら誰でも……」
「今回の敵は、剣でなければ倒せないの。如月で一番剣の腕が立つのは誰?」
わざとらしい暁美の問いに、弥生は答えない。
(何かが斬れるなら、この任務をする価値はあるか)
そう自己完結させて、それきり弥生は黙ってしまった。今はとにかく、剣を振っていたかった。願わくは戦場の中で。
少し歩き、暁美が弥生を連れて行ったのは一つの病室だった。プレートに名は無く、辺りの病室に人の気配は無い。病院の中でも、さらに奥まった場所にある病室だ。
暁美はその扉を開け、中に入る。それに続いた弥生は、その部屋の異様さに息を飲んだ。
部屋の壁には一面にお札が貼られ、破魔矢がベッドに括りつけられている。部屋の四隅には水晶まであった。
そして一際目立つ、サイドテーブルの上に置かれた護身刀。自然と弥生はそれに目を引かれた。
「あら……暁美、来たの?」
ベッドの上に、細見の女性が横たわり腹部が目立っていた。
「えぇ。詩織、今日はあなたの護衛を連れて来たわ。私が面倒を見てる如月の弥生ちゃんよ」
詩織は首を傾けて弥生と目を合わせる。弥生は護衛、と口の中で呟き暁美を見上げる。
「私は二人の護衛ではないのか? 一人しかいないが」
「いるわよ、彼女のお腹の中に」
弥生は虚を突かれた顔をして、彼女の腹部に視線を注いだ。その意味を理解するまで、しばし時間がかかる。彼女の状態を、本の中で見た知識と結び合わせるまでの時間だ。
「子ども……か」
弥生は、妊娠した女性を見るのは初めてだった。
「えぇ、お医者さまには今日か明日って言われてるの」
詩織は愛おしそうにお腹に手を添えた。ただその仕草はどこか辛そうで、体がだるいようだった。
「それにしても、ずいぶん小さな護衛さんね。可愛いわ」
「こう見えても強いからね、噛まれると痛いよ?」
和やかに笑う二人の間で、弥生は不愉快そうにそっぽを向いていた。
「……で、私は何を斬ればいい」
暁美はせっかちねぇと呟くと、護身刀を手に取ると弥生に手渡した。
「私には月契がある」
弥生はムッとした表情で刀を突き返した。月契以外の剣を使うのは矜持が許さなかった。特に人間が打ったものなどごめんだ。
「今回の敵はね、魔性のものなの。その護身刀でしか倒せないわ」
「魔物か……」
魔術界でも魔物の出現はたまに報告された。魔界より来たと言われる獣たちだ。
「いいえ、呪術によって作られた霊よ」
「呪……」
それでこの部屋なのかと弥生は納得し、しぶしぶその護身刀を受け取った。月契は人と結界は斬れても霊は斬れないのだ。そのうえ弥生は霊を視ることが出来ず、護身刀ならそこを補うことができる。
「じゃ、私は仕事があるから後はよろしくね」
暁美はにこっと笑うと、詩織に言葉をかけてから部屋を後にした。
「おい! なぜ私が低俗な奴の護衛を……」
そして一人残された弥生は、三秒間じっと詩織を見たのち、壁際に腰を下ろした。刀を肩にかけると、そのとおり小さな護衛になったのだ。
詩織はそんな弥生を見てふっと笑うと、首を上に向け天井を眺める。
この部屋に来てもう一か月になろうとしていた。妊娠が発覚してから、自分の部屋もここと同様札に囲まれている。
うつらうつらとし始めた時、下腹部に鈍い痛みが走った。
「うっ……」
ぎゅっと目を瞑ってその痛みをこらえる。その間隔は少しずつ短くなり、子どもが出ようと必死になっているのが伝わってくる。
弥生はさっと立ちあがり、鯉口を切って柄を押し上げる。その瞬間、窓の向こうに何かが群がっているのが視えた。
窓が一面黒い。小さく、コウモリのような翼を持ち、目は一つ。細く伸びる手がキィキィと窓ガラスをひっ掻いている。それだけではない。黒毛の真っ赤な目をした狐や、三つの首を持った烏。ドアの外にも何かがいるようで、ひっきりなしにドアを叩いていた。
気が狂いそうだ。
「お前、大丈夫か?」
お札などの結界によって霊はこの部屋には入ってこられないが、彼らが発する気は十分人の体に影響を与えることができる。
「……えぇ。ただの陣痛だから」
しばらくすると詩織は一つ息を吐き、穏やかな顔に戻った。
「苦しいのに、子どもを産むのか?」
弥生は刀を納め、訊く。
「当たり前よ。私たちの子どもですもの」
弥生はそうかと呟くと、壁にある札の一つに目を向けた。書いてある字はバラバラで、数種類の札が貼ってあるようだ。
「誰かに恨まれているのか?」
「というより妨害ね。笑うかもしれないけど、私は魔術師の家系に嫁いだの。というより駆け落ちね」
詩織は照れ笑いを浮かべ、柔らかな表情になる。
「でも、魔術師にとって普通の人間との結婚はタブーらしくて……子どもを作るなんて言語道断」
「……真血か」
弥生がぽつりと零した言葉に、詩織は目をまんまるにさせた。
「あなた、知ってるの?」
「私も魔術師だ」
短く、冷たい声音で弥生は言ったが、心は逸っていた。自分の他に、仲間の他に魔術師がいるという事実。
「そうだったの……そう、真血は危険だから、殺せって。その上、彼が死んで……跡取り問題が出てきてね。笑えるわ……親戚が、この子と私を殺そうとしているんだから」
「……死んだ?」
弥生の目の前で期待の扉が勢いよく閉まった。
「えぇ。もともと体の弱い人だったから」
悲しそうに目を細める詩織に弥生は背を向けて、ドアノブに手をかけた。
「雑魚を片づけてくる」
弥生は一言そう告げ、刀を抜いてからドアを開けた。結界のため中には入れない霊を弥生は蹴り飛ばし、ドアを閉める。
「さて、遊ぼうか。ネズミども」
弥生は不敵に笑う。その笑みは黒く、悪という名にふさわしいものだった……。




