第一八二話 北の戦場
ふたりの皇子を旗頭とする反乱が勃発した。場所は北の代郡である。
これを征討すべく、曹彰は五千の兵を率いて鄴を出立し、代郡に隣接する涿郡を進軍していた。
冷たい風が吹き抜け、指先の感覚を奪っていく。
馬上で曹彰はおどけてみせた。
「烏丸の連中は寒さをものともしないそうだが、私もまだまだ鍛錬が足りぬようだ」
「これ以上鍛錬につきあわされたら、私たちがたまりませんよ」
周囲からわいた笑声に、曹彰も満足そうに笑い返す。
宮中で公服に身を包んでいると窮屈でしかたがないが、いまの彼はそうした思いとは無縁であった。
ともに鍛錬してきた兵士たちにかこまれていると、ここが自分の居るべき場所であるように感じられる。
じつは、曹彰にしても一軍をあずかるのははじめての経験であったのだが、彼は自分でも驚くほど落ち着いていた。
斥候が馬を走らせ、もどってきた。
「前方約三十里(約十二キロ)に、漢の旗を掲げる敵軍発見! 高台に布陣しています! 数は六千ほどと思われます!」
「想定より少ないな……。どう思う、田豫」
報告を受けた曹彰は、副将の田豫に問いかけた。
劉備や公孫瓚に仕えた、文武にすぐれた人物である。経験豊富で、この地域の地理にも明るい。曹丕が弟の補佐につけたのも、理由のないことではなかった。
「兵を伏せているのかもしれません」
勇猛果敢だが経験の浅い上官に、田豫は答えた。
「烏丸軍の姿が見えないのも気になる。とっくに合流していると思っていたが……。代郡太守の裴潜が、反乱に参加しないよう呼びかけているようだが、そちらを攻め立てているのだろうか?」
「いずれにしても、警戒を怠ってはなりませぬ」
うなずいて、曹彰はさらに斥候の数を増やした。
この時点では曹彰たちの知りえないことであったが、敵軍の数が想定より少ないのは、あらたな兵が集まらず、そればかりか夜陰に乗じて逃亡する者が続出していたからであった。
もともと、漢の御旗のもとにかき集められた農民兵たちである。
それが蓋をあけてみれば、あろうことか異民族を引き入れようとしているのだ。大義などあるはずがない。戦う前から、皇子たちは求心力を失いつつあった。
敵軍の実情は兵を伏せるどころではなかったのだが、ともあれ、曹彰は最大限の注意を払って進軍した。
夕刻になり、行く手を川にはばまれると、これを無理に渡ろうとはせず、いったん前進を停止させた。渡河中に攻撃を受けたら一大事と判断したのである。
翌朝、川面から立ちのぼる霧を見て、曹彰は顔をしかめた。色素のうすいあご髭を撫でながら、
「視界が悪い。前方がよくわからん。まあ、川を渡っていれば、後方の様子がわからなくなっていたのであろうが」
白い霧は、川面を這うようにたゆたい、ゆっくりと岸辺へ広がっている。
曹彰は思案する。
朝霧だ。じきに晴れる。だが視界が悪いのは敵も同じである。いっそ、この霧にまぎれて渡河してしまったほうがよいのではないか。
そこまで考えたところで、彼は焦りを自覚した。進軍を急ぎたい気持ちが、正常な判断力を奪おうとしているのであろうか。
「田豫はどこだ」
経験豊富な副将に相談すべく、曹彰が川面に背をむけた、そのときである。
斥候が緊迫した形相で走り寄ってきた。息をきらせながら膝をついて、
「後方に烏丸軍を発見! その数、約五千!」
「なにぃ!?」
背筋に氷を押しあてられたような戦慄が、曹彰の身体を走り抜けた。
いつの間にか、烏丸軍は曹彰軍の後背にまわりこんでいたのである。
互いに兵力は五千ほどだが、中身がちがう。
曹彰軍の騎兵が一千騎であるのに対し、烏丸軍はそのほとんどが騎兵であると思われる。
正面から戦うのはいかにも分が悪い。
曹彰の頭を後悔がよぎった。
兄の判断にしたがい、兵が集まってから出兵したほうがよかったのであろうか……。
だが、悔悟の念にとらわれる曹彰ではなかった。
烏丸軍が有利なのは、騎兵が多いという一点のみである。対処法はあるはずだ。
そこへ、田豫が小走りに近づいてきた。
「曹彰さま、どうなさいましたか」
「烏丸軍にまわりこまれた。数は五千だ」
田豫は眉を動かして驚いたが、しばらく考えこんで、
「騎兵の突撃さえふせげば、勝機は十分にあります。輜重車を連結させ、簡易陣を築くべきかと」
うなずくと同時に、曹彰は指示を出した。
輜重車をつなぎあわせ、たちまち陣が構築された。川を背にした半円状の陣である。
騎兵の数では烏丸軍に劣るものの、工兵としての技能であれば、一枚も二枚も曹彰軍が上手である。
やがて、土煙があがった。烏丸軍の馬群である。しだいに土煙が近づいてくる。
五千もの騎兵が、地響きを立ててまっすぐにむかってくるのを見ても、曹彰軍の兵士たちは逃げださなかった。
弱兵であれば逃げだしていたにちがいないが、彼らは精兵であったし、内心逃げたいと思っている者がいたとしても逃げ道がなかった。
背後には川が流れている。
「こいつはいい。はからずも背水の陣となったか」
曹彰はにやりと笑った。
軍が崩れるのは後方からだ。
前線の兵は、敵に背をむければ斬り殺される。逃げる余裕などない。
後方の兵が逃げだし、それが壊走の引き金となるのである。
背後に川があれば、曹彰は前方の敵だけを意識していればよかった。
弩兵が輜重車の影に身をひそめ、烏丸軍に狙いを定める。
機をはかって号令を出す役割は、となりで馬首をならべる田豫にまかせ、曹彰は強弓を手にした。弓にも膂力にも自信はある。
烏丸軍が馬の足をゆるめた。
陣を見て、どのように攻めようか考えあぐねているのであろう。ものは試しとばかりに、矢を射かけてくる。
散発である。たいした脅威ではないが、曹彰軍に矢がとどきはじめた。
敵の弓矢がとどくのだ。とっくに弩の射程に入っているはずであったが、田豫はじっと動かない。
まだか。曹彰は焦れた。
足をゆるめていた烏丸軍が、さらに様子を見ようとしているのであろうか、その前進を完全にとめた。
瞬間、田豫が号令を発した。
「いまです!」
一斉に弩兵が引き金を引き、弓を手にしていた者が矢を放った。
十分に敵を引きつけてからの斉射である。効果は絶大であった。
無数の矢が、おびただしい数の騎手と馬の命を奪い、さらに第二の斉射が襲いかかる。
烏丸軍はたまらずといった様子で、弩の射程外へと難を逃れた。
陣地にこもって敵を待ちかまえる曹彰軍と、距離を置いて敵をうかがう烏丸軍。
両軍のにらみあいが一刻(約十五分)ほどつづいたところで、ふいに烏丸軍が撤退をはじめた。
あきらめたのか。それとも、曹彰軍を釣りだそうとしているのか。
判断はつきかねるが、曹彰の腹は決まっていた。
「追撃に出る! 騎兵は私につづけ!」
「曹彰さま、お待ちください。陣を出るのは危険です。敵軍の損害は限定的であり、戦意をくじくほどのものではありません」
田豫が制止するも、曹彰は自分の主張が無謀であるとは思わなかった。
先ほどは烏丸軍の突撃を正面から受けとめなければならなかったが、いまや敵は背を見せている。
潮目は変わった。ここで踏みこめば、流れはつかめる。
「烏丸軍が余力を残しているからこそ、ここで追撃しなければならんのだ。我らが賊軍と戦っているときに、態勢を立てなおした烏丸軍が襲ってきたらどうする?」
曹彰がいう賊軍とは、むろん皇子たちの軍勢のことである。
「……くれぐれも深追いはなさいませぬように」
一瞬の沈黙のあと、田豫は曹彰の意見に条件つきで同意した。
一千の騎兵が陣地を飛びだした。
ひとすじの土煙を巻きあげながら、曹彰たちは大地を疾走する。
烏丸軍の背は、視界にとらえている。
整然と撤退しているとはいいがたい。方角だけ定め、思い思いに引き揚げているようだ。
馬を失い、移動手段をなくしたために、遅れている者も少なくない。最後尾を悄然と歩いていた敵兵が、こちらを振り返り、目を見ひらいた。
悲鳴をあげて逃げまどう彼らを、斬りたて、蹴散らしながら、曹彰たちは猛然と追いすがる。
しばらくして追撃に気づいたらしく、烏丸軍の中核と思しき一団が足をとめ、こちらに馬首を返した。そこに敵が集まっていく。
数だけで見れば、敵のほうがはるかに多い。
だが、勢いはこちらにある。
「ひるむなッ! おそれるなッ! 突撃せよッ!」
曹彰は檄を飛ばすと、弓を手にして矢をつがえた。
敵味方の矢が飛び交う。
曹彰の甲冑にも矢が突き刺さるが、そのあいだに、彼は四本の矢を命中させ、ふたりの命を奪っている。
曹彰の甲冑に三本目の矢が突き刺さり、彼がその倍以上の敵兵を射殺したとき、雨あられと降りそそいでいた矢がやんで、空が晴れたようにすら感じられた。
敵は目前である。
槍に持ちかえ、曹彰は敵軍に躍りこんだ。
斜め上から槍を叩きつけ、ひとり目の敵兵の頭を叩き割る。
次いで身体を縮めてから、伸びあがるようにして槍を突きだすと、するどい突きをかわしきれずに、ふたり目の敵兵の胸から鮮血がほとばしる。
三人目の敵兵が行く手をはばんだ。曹彰よりも大柄な男である。槍をかまえ、狂ったように突進してくる。乗馬をぶつけんばかりの勢いである。
曹彰は馬腹を軽く蹴って、馬を走らせた。ただそれだけで穂先をかわすと、すれちがいざまに槍を水平に薙ぐ。馬の進行方向、曹彰の体勢、槍の角度、すべてが計算された完璧な一撃を受けて、大男は馬上から吹っ飛んだ。
大将みずから槍を振るい、鬼神のごとき活躍をしているのだ。
曹彰軍の鬨の声はいやがうえにも高まった。
味方の歓声を背に、曹彰はそのまま槍を振るい、突進をつづけた。
四人目、五人目、六人目と、枯れ枝を踏みつぶすがごとく一蹴すると、おそれをなしたのか、前をさえぎろうとする者はいなくなる。
ついに、敵将らしき男の姿があらわになった。
「その首もらった!」
吼えるが早いか、曹彰は襲いかかった。
敵将の首筋めがけ、血にまみれた槍を突きだす。
尋常でない速度の一撃であったが、敵将の反応も早かった。
手にした環首刀を一閃させ、致命の一撃を受け流す。すかさず環首刀がひるがえる。強烈な斬撃をかわして、曹彰は勇躍した。
雄敵である。弱兵をいくら倒したところで誉れとはならない。
かねてより望んでいた敵が、ここにいる!
十合打ちあい、敵将は防戦一方となった。
二十合打ちあい、環首刀の動きがあきらかに鈍くなる。
槍と刀が噛みあい、鞍と鞍がぶつかりあった瞬間、曹彰は押しこんでいた槍から、ふっと力を抜いた。
敵将が体勢を崩す。その右手首を、曹彰の右手がむずとつかんだ。
馬から引きはがして、生け捕りにしようと考えたのである。
あっ、と叫んだ敵将はこらえきれずに落馬する。
だが、地面に打ちつけられた衝撃で、首が変な方向に折れまがってしまった。
「しまった。打ちどころが悪かったか」
不運を呪う曹彰であったが、とにもかくにも敵将を討ち取ったのは事実である。
曹彰軍は驚喜の歓声をひびかせた。
一方、烏丸軍のほうは戦意を喪失し、すみやかに逃げはじめた。
次々に四方へと走り去っていく。
逃げ遅れた敵を捕虜にし、戦闘があらかた終わると、曹彰は命じた。
「深追いはするな!」
正直、追撃したい気持ちはあったが、彼は田豫の言葉を忘れていなかった。
まだ皇子たちの軍勢が残っている。
つぎの戦いのためにも、疲労は少ないほうがよい。
曹彰は戦場を見渡した。
血染めの大地に、敵味方の骸が転がっている。ほとんどは敵だったものだ。
指揮官を失い、これだけ打撃を受ければ、烏丸軍がふたたび戦いを挑んでくることはあるまい。
曹彰が兵をまとめていると、陣地のほうから一騎の騎影が近づいてきた。曹彰軍の兵士である。
兵士は、曹彰の前で下馬すると、
「田豫さまからの伝令でございます。高台に布陣していた賊軍が、前進をはじめたとのことでございます」
曹彰たちが陣地にもどると、田豫がうれしそうに迎え入れた。
「曹彰さま、うまくいったようですな」
「うむ。烏丸軍は蹴散らした。これで、やつらも懲りたろう。もう、この戦に介入する力はあるまい。それで、賊軍の動きはどうなっている?」
「こちらにむかってきているようです。おそらく烏丸軍と歩調をあわせ、我々を挟撃するつもりだったのでしょうが……」
挟撃する前に、烏丸軍が敗れ去ってしまったというわけだ。
「悪くない作戦だが、手際が悪かったな」
連携不足の敵軍の動きを、曹彰はそう評した。
言葉だけなら褒めているように聞こえなくもないが、称賛の色はかけらもない。
作戦を立案する段階では、誰もが勝利を見ているのだ。
問われるのは、常にその実現性である。
まずい用兵を見せられた曹彰は、おもしろくなさそうな声で、田豫に訊ねる。
「皇子たちがそこにいるにせよ、実際に指揮を執っているのは別の人物であろう。金旋、金禕、吉邈といったか?」
「私の知るかぎり、金禕と吉邈に実戦経験はなかったはずです」
「金旋は?」
声にすこし期待がこもった。
「漢陽郡、武陵郡と太守を歴任し、戦乱を生き抜いてきた人物です。めぼしい軍功こそありませんが……」
「…………」
曹彰の期待は失望に変わった。
漢陽も武陵も、紛争には事欠かなかった地である。
そこでたいした軍功を立てていないのであれば、将才のほども知れていよう。
曹彰はため息をつくと、川の対岸を眺めた。霧はすでに晴れている。
「むっ?」
対岸に騎影が見える。皇子たちの軍勢を探らせていた斥候のひとりである。
その兵士は、馬に乗ったまま川の浅瀬を渡りきると、下馬してから、曹彰の前に走ってきた。両ひざをついて報告する。
「賊軍が前進をやめて後退しています! 統制を欠いているのか、脱走兵が続出しているようです!」
曹彰は唖然とした。
挟撃に失敗したことを知って、あわてて後退しているのであろうが、前進したり後退したり、忙しい相手である。
それにしても、あまりにもみっともない。戦う前から崩れかけているとは!
「田豫。渡河して攻撃をしかける」
渡河中に攻撃を受ければ、きわめて不利な状況に立たされる。
だが、もはや、そのおそれもないように思われた。
「はっ、問題ないかと」
田豫も異論はないようであった。
川を渡ると、曹彰はまず騎兵だけを率いて敵軍を追いかけた。
まずといっても、歩兵の到着を待つまでもなく、決着はつくと踏んでいる。
とはいえ、輜重車と弩兵の存在がなければ、烏丸軍の突撃はふせげなかったのだから、彼らにも褒美をはずまねばなるまい。活躍したのは騎兵だけではないのだ。
馬を走らせながら、曹彰の思考は半ば戦後処理に移行していた。
金旋、金禕、吉邈、そして、ふたりの皇子。
彼らを生かして捕らえろとは、曹操からも曹丕からも命じられていない。
討ち取ってかまわないのだと、曹彰は理解していた。
どうせ死罪であるし、皇子たちを捕虜にしてしまうと、あらためて処刑するときに、なにかとわずらわしい。ここで戦死してもらうべきであった。
その日の太陽が沈む前に、曹彰たちは敵軍に追いついた。
なるほど、皇子たちの軍勢は、武器を手に待ちかまえるのが精一杯のようだ。
整然と槍をならべているわけでもなければ、柵に守られているわけでもない。
曹彰は迷わず突撃を命じた。
彼自身も、彼の部下たちも、連戦の疲労を感じさせなかった。
抵抗らしい抵抗もできずに敵軍は壊走し、ふたりの皇子をはじめとして、主だった人物はひとり残らず討ち取られた。
建安二十年が暮れるまで、あとひと月。
漢朝再興を懸けた反乱は、幕を閉じた。




