第一七五話 模擬戦
尹賞の声が高らかにひびきわたると、姜維たち麒麟団は二手にわかれて馬を駆けさせた。立ちどまっていては、弩の格好の標的となってしまうと判断したからである。
「俺につづけっ!」
梁虔が気合いの叫びをあげ、右手四騎の先頭を駆ける。
姜維は左手四騎の最後尾だ。
姜維たちが迅速に動きだした一方で、孔明一行はあきらかに出遅れた。
もともと、機動力でまさる騎兵の台頭によって、戦場から姿を消したのが戦車である。
孔明たちを乗せた戦車も前進をはじめているものの、その動きは軽快さを欠いており、いかにも鈍重に見えた。
戦車の前に護衛よろしく馬を立てている鄧艾にしても、戦車にあわせて緩慢に前進するだけで、弓をかまえようとはせず、槍代わりの棒を手にしているだけであった。
姜維たちが警戒していた弩による狙撃は、おこなわれなかった。
「よし、矢は飛んでこないぞ! 弓に比べると命中精度が高い弩といえども、はげしく動きまわる騎兵に命中させるのは容易ではないはずだ!」
馬を走らせながら、姜維は味方を鼓舞する。
「この調子で戦車をはさみ撃ちにするぞ!」
姜維の声に、仲間が「おう!」と応えた。
弩と弓の性能差を活用する。この孔明第一の策を、姜維は読みきった。
諸葛孔明の遺志を継いで大国の魏と渡りあい、蜀漢最後の名将となるはずだった人物である。まだ十四歳とはいえ、その戦才はすでに萌芽していた。
姜維たちが速度をあげてしまえば、もし矢が飛んできたとしても、おそれるほどのことではなかった。
弩と弓の性能差は、単なる性能の上下ではないのだ。
弩のほうが遠射兵器としての機能に特化しているからであり、それゆえ、矢を装填するのに時間を要するという弱点もある。
仮に、孔明と馬鈞が百発百中の弩の名手であったとしても、射手はふたりしかいないのだから、落ちるのはふたりまでだ。
孔明たちが次の矢を装填するより早く、生き残った六人で戦車に肉迫してしまえばよいのである。
馬蹄の音を小気味よくひびかせながら、姜維はさらに思案する。
そうなると、警戒すべきは鄧艾の動きであった。
ひとりだけ騎兵役をまかされているのだから、そうとうな武勇の持ち主と見なさなければなるまい。
彼はあくまで護衛に徹し、戦車のそばをはなれないのであろうか。
であるのなら、このまま戦車ごと左右から挟撃し、代わる代わる襲いかかるのが、おそらく最も勝率が高い。
問題は、鄧艾が打って出てきた場合である。
二手にわかれた麒麟団の、左右どちらに狙いをつけるのかはわからないが、狙われた側は四騎がかりで迎え撃つべきであろう。
一対一で立ちむかうのは厳禁であった。
それは姜維も例外ではない。いかんせん体格差がある。
つい先月のことであるが、姜維は冀県の武官に稽古をつけてもらった。
その戦歴豊かな武官は、自分と互角に打ち合う少年に感嘆し、
「あと五年、いや、三年あれば、冀県一の武人になれるだろう」
と、評したものである。
表面上はよろこんでみせたが、姜維にしてみればその三年がもどかしい。
いつ戦に巻きこまれるかわからないのに、身体ができあがるのを待たなければならないのだ。
刹那の雑念を、姜維は振り払う。
ひるんでいるから、臆しているから、鄧艾との一騎打ちをさけるのではない。
いまは、この模擬戦で勝利をつかむことを優先しなければならなかった。
「個人の勇武で、馬超軍の侵攻をくいとめることはできぬ」
孔明の言葉が、自然と思い起こされた、そのとき。
姜維の眼前で、空気が切り裂かれた。
すさまじい勢いで矢が横切ったのだ。
視認するのがやっとで、とうてい反応できる速度ではなかった。
並の少年なら肝を冷やすところだが、姜維の口元には笑みが浮かんでいた。
弩をこちらにむけていたのは孔明である。孔明は矢を外したのだ。
孔明のとなりでは、馬鈞が梁虔たちにむけて弩をかまえていた。
ふたり同時に懸刀(引き金)を引いたのであろうが、馬鈞も矢を外したようだ。
命中していれば、裁定人が声をあげて戦闘不能になった旨を宣告するはずであった。
「よし……勝てる」
姜維が口中でつぶやいたのは、最初で最後となるであろう矢が外れたからであり、孔明と馬鈞が戦車の上で身をかがめたからである。
姜維は予測する。近接戦闘にそなえ、弩から棒に、武器を持ち替えようとしているのだろう。これで弩を警戒する必要はなくなる。
だが、身を起こした孔明と馬鈞は、奇妙な形状の弩を手にしていた。弩の上に、なにやら箱がついているように見える。
姜維の予測と計算に、狂いが生じた。
「なにをするつもりだ……?」
考えてみれば、おかしな疑問である。戦場で弩を手にしているのだから、敵めがけて矢を射るほかに用途があるはずもない。
とはいえ、敵が至近にせまりつつあるのだ。時間と距離の余裕が失われようとしているのに、あらためて弩を手にするのは、いかにも奇異な行動に思われた。
孔明よりわずかに早く、馬鈞があらたな弩をかまえ、狙いをさだめた。
次の瞬間、血の匂いがしない戦場に、裁定人の声がひびきわたった。
「梁虔、戦闘不能ッ!」
ひとりではなかった。先頭を走っていた梁虔を皮切りに、右手から戦車にせまろうとしていた四騎が、つぎつぎと戦闘不能になっていく。
またたく間の出来事であった。
「…………」
姜維は見た。馬鈞の弩が立てつづけに矢を射出するのを。
一本の矢を射出するのに時間がかかることこそが、弩の最大の弱点であるはずだったが、仙術でも見せつけられているような気分であった。
いや、仙術ではなく技術なのであろう、弓の速射をはるかに上まわる、驚嘆すべき連射性能であった。
孔明の弩が、左手をはしる姜維たちに狙いをさだめようとしている。
射出口らしきものがふたつ見えた。
あの弩は、二本同時に、連続して矢を射ることができるのだ。
連弩の性能をおおよそ把握しながらも、その対処法は、姜維の頭に思い浮かばなかった。
孔明第一の策が、弩と弓の性能差にあったなら、その真の狙いは、強弩と連弩の性能差にあった。
すなわち、射程距離に特化した強弩と、連射性能に特化した連弩のちがいである。
弩は矢を装填するのに時間がかかり、接近されると弱いという兵法の常識を、正反対の性質を持つ連弩を使用することによって、孔明は逆手に取ったのである。
かつて、曹操と郭嘉が、孔明を敵にまわしたくないと語った理由が、まさにここにあった。
戦場の流れを読むのに長け、詭計を得意とする彼らにしても、長年の蓄積によってかためられた兵法を応用しているのであって、無視しているわけではないのだ。
もし、その兵法の常識をくつがえす、革新的な手を打ってくる敵と相対したら……。対策を講じて戦術に落としこむまで、後手にまわらざるをえないのである。
姜維がいかに才能に恵まれていようと、ことここに至って、はじめて見る連弩に対処できるはずもなかった。
前方を駆ける味方が、つぎつぎと戦闘不能になっていく。
矢が見える。普通の弩よりも速度は劣るようだ。
姜維は分析したが、できるのはそれだけだった。
同時に射出された二本の矢が連なり、それが絶え間なく繰りかえされ、射線が姜維へとせまりくる。
「姜維の馬、続行不能!」
矢が命中して暴れる馬から、姜維は飛び下りた。槍代わりの棒は握ったままだ。
姜維は生きのびた。
馬の横に張りつき、馬体を盾にして、矢が直撃するのをまぬがれたのである。
戦士としての勘と反射神経、そして、日ごろつちかってきた乗馬技術の賜物であった。
だが、馬鈞はすでに姜維に狙いをさだめており、孔明は弩の上部に設けた箱に、矢を流しこむように入れている。
「姜維!」
「姜維ッ!」
戦闘不能になった仲間たちが叫んだ。
味方は全滅していた。
馬も失い、姜維はひとり立ち尽くした。
まだ、戦車との距離は二十歩ほどある。
徒歩となった姜維が戦車にたどりつくより、孔明と馬鈞の指が懸刀を引くほうがはるかに早い。
それで、この模擬戦は終了する。
ぐうの音も出ない完敗であったが、仲間の手前、うつむくわけにはいかない。
抵抗の意思を確かめるように、姜維は両手で棒を握りしめた。
そこで唐突に、鄧艾が馬首を返した。
戦車にむけてなにやら声をかけると、孔明と馬鈞が弩をおろす。
鄧艾は下馬して、石苞に手綱をあずけると、棒を片手に、姜維にむかって歩きだした。
その眼光に戦意があるのを見てとって、姜維は察した。
勝敗は決した。最後に相手をしてやろうという温情であろう。
みずからも鄧艾にむかって歩を進めながら、姜維は思う。
それにしても、自分たちはなんと無力だったのか。
この模擬戦に参加した仲間は、完膚なきまでに思いあがりを叩きなおされ、鼻っ柱をへし折られたにちがいなかった。姜維をふくめ、ひとり残らずだ。
これでもう、血の気が多い発言をする団員はいなくなるはずであった。
結局、すべては孔明の思惑どおりに進んだように思える。
敗北感はあったが、屈辱は感じなかった。
こうも格のちがいを見せつけられると、いっそすがすがしいほどである。
姜維と鄧艾は足をとめ、対峙した。
互いに槍代わりの棒をかまえ、相手を見据える。
「こ、来い」
鄧艾の言葉はきわめて短かった。
姜維は言葉ではなく動作で答えた。渾身の力をこめて棒を突きだしたのだ。
するどい突きを、鄧艾はおのれの棒で打ち払い、力量の差をあかしだてるかのように、烈しい反撃を繰りだした。
攻防は長くつづかなかった。
わずか四合で、姜維は敗北した。




