第一六八話 真の競争相手(虚像)
馬超が雪深い山谷に姿を消したころ、劉備は劉璋との戦を優勢に進めていた。
手練れぞろいで知られる劉備軍が、三万余の軍勢でもって押し寄せるのだ。生半可な兵力で太刀打ちできる勢いではなかった。
「ふふふ。こう順調だと、どこかに落とし穴でもあるのではないかと疑いたくなるな」
綿竹に入城した劉備の声と表情は明るい。
涪城、綿竹といった要衝の攻略に成功し、自信をあらたにしたようであった。
「運がめぐってきたのでしょう。我が君にとっては、ようやくかもしれませんな」
答えながら、龐統は思う。
大事なところで敗北しては放浪の身となってきた劉備だが、彼が無能なら、部下たちがついてくるはずもない。
それこそ、めぐりあわせが、敵が悪かったのであろう。
あの曹操と対立しながらもここまで生きのびてきたことが、劉備自身に非凡な将才があることの証左であった。
「運か……。単なる運で終わらせたくはない。そう思わぬか、士元」
「はっ、まことに」
いくら好機がめぐってきたところで、力がなければそれをつかむことはできない。
劉備軍の快進撃は、劉備が築きあげ、守り抜いてきた土台があってこそのものである。
そして――、
「好機をつかむのが将器なら、それを活用してさらなる好機をたぐり寄せるのは、軍師の役目でしょうな」
言葉どおりの役割をこなしてきた自信が、龐統にはある。
最大の功績はいうまでもなく劉備軍を益州に招き入れたことだが、劉備たちと合流し、葭萌関についてからは、周辺の民衆を味方につけるために積極的に歩きまわった。
もちろん、民衆の取り込みに従事したのは龐統だけではないが、彼のはたらきぶりは目覚ましく、劉備軍古参の将兵たちを瞠目させた。
益州の人々の心から攻めたのも、劉備軍の快進撃の一因であろう。
涪城の守将・呉懿は、勝ち目がないと判断するや、あっさり降伏した。
呉懿は兗州陳留郡の出身で、劉焉が入蜀する際に同行した人物である。劉焉・劉璋と二代にわたって仕えてきた。
それほどの大人物が投降したのだ。
劉璋陣営に動揺がはしったのは想像するまでもないし、あとにつづこうとする者もあらわれる。
綿竹では、県令の費詩が、費観、李厳を誘って降伏した。
同姓だが費詩は益州犍為郡、費観は荊州江夏郡の出身であり、また、李厳の出身地は荊州の南陽郡である。
このなかで費観は、劉璋の娘を妻にもらっている。
重鎮の呉懿につづいて、娘婿まで投降したのである。
劉璋政権の破滅が近づいている足音を、益州の人々は、いやがおうにも感じとっているにちがいなかった。
「それにしても、うまくいっているからいいが、腑に落ちぬことも多い」
「と、おっしゃいますと?」
「連戦によって消耗するであろうと、それなりに覚悟していたのだが」
「むしろ、戦をかさねるうちに兵が増えておりますな」
涪城と綿竹の降伏にともない、それぞれ五千ほどの兵を、劉備は手に入れた。
三万余だった兵力が、四万に増えているのである。
こうも兵がふくれあがると兵糧不足のほうが心配になってくるが、涪城と綿竹の物資も手に入ったので、当面はその不安もない。
「それと、涪城を攻略する前の戦だ。劉璋軍と野戦になったが、呉懿の話によると、彼らの兵力は我々よりも少なかったようだ」
いぶかしげな声で、劉備はつづけた。
劉備軍と劉璋軍が正面から衝突したのは、その一度きりだ。
呉懿、張任、劉璝、冷苞といった益州の名将をそろえた劉璋軍を、劉備軍はいとも容易に撃破した。
その大敗の衝撃が尾を引いて、呉懿はあっさり降伏したのである。
野戦で迎撃するのであれば、劉備軍より多い兵力を、劉璋は用意すべきであった。
それができるだけの国力が、彼にはあるはずだった。
にもかかわらず、中途半端な兵力で迎撃したために、いたずらに兵を失い、かえって劉備軍の勢いを増してしまったのである。
「もし劉璋軍が四万、五万といった大軍で待ちかまえていたら、こうも簡単にはいかなかったはずだ。劉璋の狙いがさっぱりわからん」
首をかしげる劉備に、龐統は見解を述べる。
「おそらく、劉璋が家臣団を掌握していないからでしょうな」
「ふむ?」
「要衝の涪を失うわけにはいかない。我々を迎え撃つには大軍でもってあたらなければならない。どちらも正しい判断です。実際、劉璋はそうしようとしたのでしょう。ですが、益州の豪族たちの腰が重く、思っていたほどの兵を動かすことができなかったのです」
「それならば、涪で籠城させ、兵を集める時間を稼がせればよい。成都近郊で十分な兵力を集めてから出陣すればよい。そう進言する者はいなかったのだろうか? 劉璋軍に人がいないとは思わぬが」
「いたでしょうな。しかし、劉璋は当初の予定どおりに出陣させてしまった」
「部下の意見に耳を貸さなかったのか?」
「あるいは権限の問題かと」
「権限? 劉璋は主君だろうに」
「我が君は、自軍の全権を握っておられるが、劉璋はそうではありません。自分の手元をはなれて動きだした物事に、あとから修正を加えるのはむずかしいものです。みなで最善と思われる作戦を立案し、そのとおりに出陣の準備を進めさせた。それを、いざ出陣の段階になってとりやめることが、劉璋にはできなかったのかもしれませぬ」
兵力不足を知った時点で、劉璋は決定をくつがえすべきであった。
だが、君主権力の弱さゆえに、それをためらってしまったのではないか。
すべて龐統の想像にすぎないが、劉璋の性格を考えると確信に近いものがあった。
「だが、負けては元も子もあるまい」
身も蓋もない劉備の発言に、龐統は苦笑を返す。
「負けるとわかっていたら、劉璋とて出陣を延期させていたでしょうな」
「ふむ……。なにはともあれ、劉璋軍の動きが精彩を欠いているのは、我が軍にとってありがたいことだ」
髭のうすい口元をほころばせた劉備は、すぐに表情をひきしめた。
走り寄ってくる兵士の姿が見えたのだ。
兵士は緊迫した面持ちで拝跪すると、かたい声で報告した。
「曹操が、魏王に封じられたようでございます」
「なんだと!?」
驚愕のあまり、劉備の顔は蒼白になった。
立ち尽くす主君のもとから兵士がさがると、龐統が口をひらく。
「我が君、曹操が魏王になることは想定済み。そこまで動揺なさらずともよろしいのでは」
「動揺せずにいられるか! これで残すは至尊の座のみとなった。いつ漢王朝が滅ぼされてもおかしくないのだぞ!」
動転して激する劉備とは対照的に、龐統は楽しげな声で、
「滅んでもよいのでは」
「なにをいう!?」
劉備は目をむいた。
「属尽とはいえ、私は皇族の血を引いている。漢室を守らねばならぬ身だ!」
「そう、それでございます」
「……?」
「王莽によって西漢は滅び、光武帝によって東漢は興った。滅びたなら、また再興すればよいではありませんか」
「簡単にいってくれる」
劉備は唖然とした表情である。
「考えてもごらんください。光武帝は血筋のみで見れば傍系にすぎず、皇帝にはなれるはずもない身でございました」
「……私に皇帝になれというのか!?」
劉備はふたたび目をむいた。おそれ多いといった様子で、
「私は……そんなだいそれた望みは抱いておらん。益州一州あれば、いままでついてきてくれた仲間たちにも十分報いることができる。それで十分だ」
「それでは曹操を排除したあと、どうなさるおつもりですか」
「むっ……」
「曹操を打倒した者は、天下の政に責任を持たなければなりますまい」
「…………」
反論の言葉が見つからないのか、劉備は沈黙した。
「曹操に取って代わるのか、それとも、光武帝を模範とするのか。いずれにせよ、天下万民が納得する形に落ち着くべきでしょう。我が君が光武帝にならって漢を再興したなら、ご自身が望もうが望むまいが、天下万民は、劉玄徳が帝位に就くことを望むようになる。玉座が、劉玄徳をもとめるのです。そこから逃げだすことができましょうか」
綿竹で休息をとり、降兵の編成を済ませた劉備軍は、雒城へと進軍する。
雒城は、成都攻略の最終関門というべき要衝である。
守将である劉璋の長子劉循と老将張任は、どちらも降伏を選ぶとは思えず、熾烈な攻城戦になると予想される。
「ご注進、ご注進!」
劉備軍の軍営に、一騎の伝令がとびこんできた。
伝令は馬から下りると、劉備のもとに駆け寄ってひざをついた。
「なにごとだ」
「江州県の劉璋軍が北上を開始したもよう! その数一万! 率いる将は厳顔と思われます!」
厳顔軍一万が、葭萌関をめざしているという。
葭萌関周辺では戦がつづいている。
張魯軍が白水関から撤退したと思ったら、入れ替わるように、向存率いる劉璋軍一万が、葭萌関に襲来したのである。
さいわいなことに、諸葛亮と趙雲が守る葭萌関は小揺るぎもしていないようだが、その鉄壁の守りも、厳顔軍まで加わればどうなるかわかったものではない。
劉備はただちに軍議をひらいた。
「厳顔軍を放置はできませぬ」
と発言したのは法正である。
「葭萌関を失えば、そこにたくわえた物資も失われる。我々は手持ちの兵糧を使いきる前に、雒城と成都を落とさねばならなくなります」
「葭萌関が持ちこたえたとしても危険でございます」
対抗するように、龐統が口をひらいた。
「劉璋軍二万のうち、一万が葭萌関の動きを封じこめ、もう一万が我々のあとを追うように南下してくれば……。我々はこれまで占領した地を失ったうえで、雒城攻略中に、後背にも敵を抱えることになります」
「はさみうちの形になるな……。こいつはよくねえ」
張飛が顔をしかめた。
劉備も渋面になると、
「うむ……。厳顔軍を討つしかあるまい」
といい、迅速に決断を下した。
「軍をふたつに分ける。第一軍の兵力は二万五千。私が指揮をとり、雒城を攻略したのち、成都をめざす。第二軍の兵力は一万五千。大将は、張飛以外にいまい」
「まかせてくれ」
張飛は自信満々に請け負った。
「張飛軍は、厳顔軍を叩いて江州を占拠し、そこから西進して成都にむかえ」
劉備はそう指示すると、
「参謀も必要であろう」
視線を龐統と法正の両名にはしらせた。
「法正どのが適任かと」
「いや、龐統どののほうがふさわしいかと」
龐統と法正は、互いの名を挙げ、視線を交わしあった。
劉備たちの目的は成都の占領である。
当然のことながら、成都を攻略すれば大手柄になる。
大きく東へ迂回しなければならない張飛軍は、成都攻略に間に合わなくなる可能性が高く、その参謀役は、龐統と法正にしてみれば外れくじともいえる。
だが、法正の目を見た瞬間、龐統の脳裏をよぎったのは、眼前にいる競争相手ではなく、別の人物の名であった。
遠方にいながら、ことごとく龐統の邪魔をしてくれる、真に競うべき相手であり、乗り越えなければならない壁である。
龐統はすばやく考えなおして、申し出た。
「私が、張飛どのに同行いたします」
劉備はうれしそうに破顔した。
「おお、士元であれば不安はない」
軍議を終えると、龐統は法正に呼びとめられた。
「龐統どの、すこしいいか」
「法正どの、どうされた」
「なぜ、私に成都攻略の手柄をゆずったのだ?」
うれしくもなさそうな法正の声である。
功績が近づいたからといって浮かれるような人物ではないし、疑念のほうが強いのであろう。
「我々の策略が不首尾に終わったのは、法正どのもおぼえていよう」
龐統が声を低めていうと、
「む……、劉璋暗殺の件か」
法正も声を低めた。
実行に移さなかったとはいえ、さすがにうしろ暗い話である。
「呉懿どのと費観どのから聞いたのだが、我々の策を看破し、劉璋に忠告した人物がいたそうだ」
「なに……!?」
法正の声がひびわれた。
かまわずに龐統は告げる。
「鄴の陳羣だ」
「ばかな……。成都にいるならまだしも、そんな遠方から見破れるはずがない」
「信じがたいが事実だ」
言葉にしただけで、龐統の腹のなかに戦慄がよみがえる。
彼はおのれの智謀を疑っていないが、上には上がいるのである。
陳羣の裏に孔明の関与があることを知るよしもない龐統は、陳羣に稀代の大謀略家の影を見ているのだった。
「張飛軍は、厳顔軍より強大な敵と戦うことになるかもしれん」
龐統は懸念を口にした。ただし、戦慄は停滞を意味しない。表情は深刻だが、そこに弱気の色は微塵もなかった。
「江陵の曹操軍か……」
常からするどい法正の眼光が、さらにするどさを増した。
厳顔軍が動いた隙をついて、江陵の曹操軍が益州に侵攻してくるおそれがあるのだ。
もしそうなれば、劉備軍よりはるかにきびしい戦を、張飛軍は強いられよう。
龐統はうなずいて、
「私が張飛どのに同行するのは、曹操軍の侵攻にそなえるためだ。曹操軍が、張魯領と劉璋領に同時に攻めこむ必然性は低い。だが、曹操のそばに陳羣がいる以上、警戒をおこたるわけにもいくまい」
事実として、陳羣は大政治家ではあったが、大謀略家ではなく、智略縦横な大軍略家でもなかった。
龐統の懸念は懸念にすぎなかったのだが、こうして彼は雒城の攻略からはずれることとなった。
雒城攻略中に流れ矢にあたって戦死する運命を、龐統は、間一髪のところでくぐり抜けたのであった。




