ごめんなさい
「うひひ」
「うひひ、じゃねえ」
「いや、間違えた。お前が言う通り、うひひじゃねえ、これはむふふだ。むふふ、の出来事だ」
「ちょっとよくわからんが、とにかく早く要件を言え」
鹿島が、ムッとした不機嫌な顔をする。
「だからな、車を貸してくれ」
「いいけど、どこか出かけるのか?」
「内緒にしたいところだけど、車を借りる身だからな。ひなちゃんと二人で旅行に行くんだ」
「お、いいなそれ。俺らも行こうかな」
「お前らのことはどうでもいい。レンタカーでもいいんだけどな、手続きとかわざわざ借りに行くのが面倒くさい」
「タクシーって手もあるぞ」
「タクシーは運転手が邪魔だ」
「電車、」
「電車は他の乗客が邪魔だ」
「公共交通機関はなあ、こんなおっさんとひなちゃんだと、何かと誤解を招くからな」
「いや、招かねーし。鹿島、車、ぼっこぼこにして返してやるからな」
「じゃあ、貸さねえ」
「あ、ウソウソ。鹿島先輩、車をお貸しください」
「土産は和菓子がいい。小梅ちゃんが好きなんだ」
「あーーーはいはい。買ってくるから。はいはいーー」
「ねえ、そろそろ仕事の話をしてもいい?」
羽多野が、割り込んでくる。そして、側で様子を窺っていた鹿島の秘書、深水も割り込んできた。
「社長、あと三十分後に安藤さんとの打ち合わせが始まります」
「うわっ、それ早く言えよっ。大同、早く仕事の話をしろっ」
「いいぞー、じゃあ、この前言ってた件だけどなー」
「もっと早く喋れ‼︎」
二人のやり取りを聞きながら、羽多野と深水は顔を見合わせると、大きなため息を吐いた。
✳︎✳︎✳︎
「そんなの必要ねえって」
「匠さんは、あんまり気にしてませんね」
「ああ、俺は全然。ひなちゃんが気になるってんなら、別だけどよ」
大同にそう言われたひなたは、カバンから取り出した入浴着をごそごそと仕舞った。念のためと持ってきた入浴着だったが、あっさり言われて気が抜けた。
(ああ、大同さんは本当に、気にしてないんだな)
こうなるともう、自分が余計なことをしてしまったような気がして、ひなたは苦く思った。
胸にある傷跡。
そうそう、他人に見られたくはない。乳がんを隠しはしないが、さすがにカメラマンの滝田からヌードの打診があった時は、迷いが出て揺れた。
乳がん検診の啓発になればいい、と積極的に思う反面、気にしている傷跡を薄い布で隠すとは言え、人目に晒されるのかと思うと、やはり躊躇した。
返事は急いでないということだったので、大同に相談してみようと素直に思う。反対されることはなんとなくわかっていたけれど、すっぱりと反対されて心が決まった。
「やっぱり、今回はお断りします。すみません」
世話になった滝田に対して、申し訳ないという気持ちもあったが、大同にびしっと言われて、自分でも小気味いいくらいに決断できた。
(匠さんには、真っ直ぐな強さがある)
太陽のような存在。
その光に引っ張られ、自分も前を向いて立っていられた、と思う。
(あの時、匠さんに出逢えて本当に良かった)
大型ビジョンの前。ふらふらだった自分を立て直してくれたのは、大同だったのだ。地下に潜っていた自分には、太陽の光を目一杯、浴びたような気持ちになった。
「さ、風呂に行こう」
旅館の部屋を出ると、廊下を歩き出す。ここは老舗で有名な温泉街の旅館だ。造りには相当な古さがあるので、廊下を歩くとその度にミシミシと音が鳴った。その音と重なり合うように二人のスリッパの音が響いて、廊下の窓から見える景色を彩った。
(当たり前だけど、家族旅行とは全然違う)
ひなたは自分がよく連れていってもらった家族旅行を思い出した。家族との旅行は、ほっと安心するのと同時に落ち着けて居心地がいい。
けれど、恋人との旅行は。
ドキドキすることもあり、じんと胸が熱くなることもある。
繋いだ手を、少し握り返す。
振り向いた大同に、ひなたは微笑みかけた。
(匠さんだって、結婚したいに決まってる。結婚して、そして子どもが産まれて……男の子なら匠さんみたいにやんちゃで、女の子ならきっと、)
胸が、喉が。つかえたような気がした。
(すごく甘やかしちゃうんだろうな)
繋いだ手の大きさ。包まれる、温かさ。少し前を歩く、斜め後ろから見る顔。
「……ごめんな、ひなちゃん」
ふいに大同が言い、ひなたはその斜め後ろからの顔を見た。
「え? なんでですか?」
謝りたいという気持ちになっていたのは自分の方だった。それなのに大同に謝られ、先を越されたという感覚に陥った上、疑問が湧き上がる。
「いやあ、チェックインの時な」
「はい、」
「嫌な思いをさせたなあって」
ひなたはチェックインの時の光景を思い出した。
大同が名簿に名前を書き、自分がその下の空欄に名前を書いた時。違う苗字と見た目にもわかる歳の差もあり、受付の男性の顔が引きつった。
「完璧に、俺ら不倫って思われたな」
「そんなっ」
「俺は気にしねえから別にいいけど、ひなちゃんに悪かったなあって思って、」
(……ああ、この人は本当に、)
ひなたの喉奥から熱いものが込み上げてきた。
「ひなちゃんはまあモデルで有名だから、事務所の社長と所属モデルの不倫ってな感じに取られたかもな」
「そんなことない……それに私も、そういうの全然気にしないから。他人にどう思われようが、別に平気です」
「ふは、」
大同が吹き出す。
「ひなちゃん、強え、」
ひなたはひなたの手を握った大同の手に力が入って揺れたのが、大同の意思のような気がして、少し複雑な気持ちになった。
(ううん、匠さんの方が、強い……強くて、そして優しい)
相手を思う気持ちの強さ。家族ができれば、きっと大同はその存在を必ず守り抜くだろう。
ごめんなさい。
さっきまで胸の内にあったその言葉と気持ちは、ひなたの内側へと押し込められた。
(……家族というものを作ってあげられなくて、)
続く言葉も、閉じ込めた。




