第1話 村人ですが、時間について考え始めました
世界は広かった。
村を出て西へ歩けば、どこまでも続く緑の草原がある。風が吹くたびに草花が波のように揺れ、その向こうには、雲を頂く巨大な山脈が連なっている。
北には人の手がほとんど入っていない深い森林が広がり、南には透き通った水をたたえる大河が流れている。川沿いには肥沃な平野が広がり、色とりどりの花が咲き、野生の動物たちが自由に暮らしていた。
夜になれば、街の明かりに邪魔されることのない満天の星空が現れる。
どこまでも広く、どこまでも美しい世界。
そんな世界の片隅に、小さな村があった。
そして、そこに一人の青年が住んでいた。
俺はごく普通の村人だ。
剣の才能もない。魔法も使えない。特別な家柄でもない。
ただ、物事を考えるのが好きだった。
特に最近、気になって仕方がないことがある。
時間だ。
*
時間とは何だろう。
朝起きて、食事をして、仕事をして、夜になったら眠る。
当たり前のように一日が過ぎていく。
人は時計を見て時間を確認し、待ち合わせの時間を決め、時間が足りないと嘆く。
しかし、そもそも時間とは何なのだろう。
俺は机の上に置かれた砂時計を眺めていた。
上の砂が少しずつ下へ落ちていく。
砂がすべて落ちれば、一定の時間が経過したことになる。
では、なぜ砂が落ちると時間が分かるのだろう。
砂が落ちているから時間が経過したと分かる。
逆に言えば、砂が落ちなければ時間が経過したことを確認できない。
時計も同じだ。
針が動くから時間が分かる。
振り子が揺れるから時間が分かる。
水時計なら水が流れるから時間が分かる。
つまり、俺たちは時間そのものを見ているわけではない。
何かの変化を利用して、時間を測っているのだ。
「……そもそも、時間を測るって何だ?」
俺は砂時計をひっくり返した。
砂が落ち始める。
一定の速さで落ちているように見える。
しかし、砂の落ちる速さが変わったらどうなる?
砂時計は正確な時間を示せなくなる。
つまり、時間を測るためには、一定の速さで変化する何かが必要なのだ。
では、その一定の速さとは何を基準に決めている?
別の時計を用意すればいい。
しかし、その時計の正確さを確かめるには、さらに別の時計が必要になる。
これでは終わらない。
結局、どこかに基準を置くしかない。
俺たちは時間を直接測っているのではなく、規則的な変化を基準にして、時間という尺度を作っているのではないか。
「ふむ……」
少し面白くなってきた。
では、時間というものは人間が作った概念なのだろうか。
いや、それは違う気がする。
人間が時計を作るよりずっと前から、世界には昼と夜があった。
人間がいなくても、物は動き、変化し、朽ちていく。
時間を測る道具がなくても、時間は存在している。
ならば、時間とは何か。
俺は砂時計を置いた。
砂が落ちきった。
もう一度ひっくり返す。
同じ砂が、同じ場所に落ちていく。
だが、さっきと今では何かが違う。
さっきの砂時計は、まだ砂が上に残っていた。
今の砂時計は、下に砂が溜まっている。
俺たちは、この違いを過去と未来と呼んでいる。
では、なぜ時間は逆向きに進まないのだろう。
砂時計をひっくり返せば、砂は再び上に戻る。
しかし、それは時間が戻ったわけではない。
砂の位置が変わっただけだ。
時間を戻すというのは、単に物を元の位置に戻すこととは違うのではないか。
例えば、割れた皿。
破片を集めて元の形に戻せば、皿は元通りになる。
しかし、割れた瞬間そのものがなかったことになるわけではない。
では、時間を戻すとは何を戻すことなのだろう。
物の状態か。
起きた出来事か。
それとも、出来事が起きる前の世界そのものか。
「……難しいな」
俺は頭を掻いた。
どうやら、時間というものは思っていた以上に厄介らしい。
*
「ねえ」
突然、声がした。
顔を上げると、リーナが立っていた。
幼馴染の彼女は、籠を片手に持っている。
「また難しい顔してる」
「そうか?」
「うん。何か食べ物でも腐らせたのかと思った」
「どういう意味だよ」
「考え込んでるとき、いつもそんな顔だから」
リーナは机の上の砂時計を見た。
「それ、何?」
「時間について考えていた」
「また?」
「また、とは何だ」
「この前は時間を止めたいとか言ってたじゃない」
「そうだったな」
「そんなことできるわけないのに」
「なぜ?」
「え?」
「なぜできないと思う?」
リーナは少し考えた。
「だって、時間は勝手に進むものでしょ?」
「勝手に?」
「そう。私たちが何をしても、何もしなくても、時間は進むじゃない」
「それはそうだな」
「だったら、止められないんじゃない?」
俺は彼女の言葉を反芻した。
何をしても、何もしなくても時間は進む。
確かに、そうだ。
しかし、それは本当に時間が止められない理由になるのだろうか。
「リーナ」
「なに?」
「お前は、時間が進んでいることをどうやって確認している?」
「時計を見たり、太陽を見たり?」
「そうだな。では、時計も太陽もなかったら?」
「……分からないよ」
「そうだ。分からない」
俺は砂時計を指差した。
「時間を測るものは、すべて何かの変化を利用している。ならば、時間というものと、その変化は別々に考えられるんじゃないか?」
「うーん……?」
リーナは困った顔をした。
「ごめん。私にはよく分からない」
「いや、いいんだ」
「それより、これ。母さんが作ったパン。持ってきたよ」
彼女は籠からパンを取り出した。
「考えるのもいいけど、ちゃんと食べなよ」
「ありがとう」
パンを受け取る。
リーナは満足そうに笑った。
「じゃあ、またね。明日は一緒に買い物に行くんだから、忘れないでよ!」
「ああ、分かってる」
彼女が出ていった後、俺はパンを一口かじった。
うまい。
……いや、今はパンの話ではない。
*
時間と変化。
この二つを分けて考える必要がある。
俺は机に向かい、紙に文字を書いた。
まず、時間とは何か。
少なくとも、時間は物体ではない。
手で触れられないし、目で見ることもできない。
それなのに、あらゆる物体の状態に関係している。
では、時間は世界に存在する、何らかの共通の尺度なのだろうか。
仮にそうだとする。
一秒という時間がある。
その一秒の間に、物体は移動し、温度は変わり、人間は呼吸をする。
同じ一秒でも、起きる変化はそれぞれ違う。
つまり、時間と変化は同じものではない。
ここまではいい。
では、時間の流れを変えることはできるのだろうか。
例えば、ある物体が一秒間に十センチ移動するとする。
これを二秒間に十センチ移動するように変えたらどうなる?
物体の移動速度が半分になった。
これは時間の流れが遅くなったのだろうか。
違う。
単に物体の速度を変えただけだ。
では、物体そのものに流れる時間を変えるとは?
俺はそこで手を止めた。
物体に流れる時間。
その表現は正しいのだろうか。
時間は世界共通の尺度だと考えていた。
しかし、もし物体ごとに時間の経過の仕方を変えられるのなら?
同じ一秒の間に、ある物体は一秒分の変化を起こし、別の物体は半秒分の変化しか起こさない。
そんなことが可能なら、時間の進み方は一つではないことになる。
いや、正確には、時間そのものを変えるのではなく、対象が時間を受け取る割合を変えるのかもしれない。
俺は目の前にあった小さな木片を手に取った。
木片は何も変わらない。
当然だ。
だが、長い時間が経てば、表面は削れ、腐り、やがて土に還る。
それは木片が時間を経過させた結果だ。
では、木片に流れる時間を遅くできれば?
腐るのも遅くなるのではないか。
俺は木片を机に置いた。
そして、じっと見つめた。
時間の進み方。
対象が時間を受け取る割合。
それを変える。
できるかどうかは分からない。
だが、試してみる価値はある。
俺は木片に触れた。
目を閉じる。
時間を止めるというのは、世界全体の変化を止めることなのだろうか。
それとも、対象の時間だけを止めることなのだろうか。
まずは、目の前の木片だけ。
周囲の世界はそのままに、木片の時間だけを止める。
そう考えた瞬間。
指先に、妙な感覚が走った。
木片が、そこにある。
当たり前のことだ。
だが、何かが違う。
俺は目を開けた。
木片に触れている指先の感覚が、妙にはっきりしていた。
もう一度、意識を集中する。
止まれ。
次の瞬間。
窓の外で揺れていた木の葉が止まった。
机の上の砂時計も止まっている。
部屋の中の空気が静まり返った。
俺は息を呑んだ。
木片だけではない。
世界全体が止まっていた。
俺は立ち上がった。
自分の体は動く。
呼吸もできる。
心臓も動いている。
それ以外のすべてが止まっている。
「……本当に?」
俺は窓の外を見た。
空中に浮かぶ鳥が、羽を広げたまま静止している。
信じられなかった。
俺は意識を緩めた。
すると、世界が再び動き出した。
鳥が羽ばたき、木の葉が揺れ、砂時計の砂が落ち始める。
時間が戻ったわけではない。
止まっていた時間が、再び進み始めたのだ。
俺は椅子に座り込んだ。
できた。
本当にできてしまった。
時間を止めた。
少なくとも、俺にはそうとしか思えなかった。
何の能力も持たない、ただの村人。
そんな俺が、時間に干渉した。
俺は震える手を見つめた。
一体、どうしてこんなことができたのだろう。
答えは分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
時間は、ただ眺めるだけのものではないのかもしれない。
俺は再び砂時計を見た。
上から下へ落ちていく砂。
その一粒一粒が、時間の経過を示している。
これから先、俺はもっと多くのことを知りたい。
時間を止めるだけでなく、遅くすることも、速くすることも、戻すこともできるのだろうか。
そもそも、時間とは何なのか。
まだ何も分かっていない。
だからこそ、考える価値がある。
俺は砂時計をひっくり返した。
砂が落ち始める。
今度は、その一粒一粒を見つめながら、考えた。
時間とは何か。
そして、俺はどこまで時間に干渉できるのか。
俺の探究は、まだ始まったばかりだった。




